-鬼灯の送り火- 1
青々とした木々が、成熟した香りを放っている。
蝉時雨が木漏れ日と混ざり合い、本物の雨のように、重みをもって降り注いでいた。
その中を、幹久は心を空にしているかの如く、中天を見つめている。
「『救われぬ・・・俺もお前も、救われぬのだ』」
幹久は、そうつぶやくと、おもむろに歩き出して沢の中へと足を浸して行った。
ほとんど音も立てず、水の冷たさもかまわずに、膝の近くまで浸かっていく。
更に歩みを進めようとすると、大きな手が幹久の腕に掴み掛かった。
「おい!何やってる!?」
力任せに引っ張られた為、危うく幹久は転びそうになった。
しかし、右手に持った本をかばうように抱えると、体勢を整える。
「き、恭一郎さん・・・」
「そこから先は急に深くなる。水に足を取られたら流されるぞ!」
「ご、ごめんなさいっ」
恭一郎の射貫くような眼差しに、幹久は縮こまった。
恭一郎は、その様子に溜息をつくと、幹久の右手に視線を向ける。
だいぶ読み込んでいるのか、胸に抱えた本はボロボロであった。
「それは?」
「・・・え?・・・あぁ、『空蝉の宴』です」
「気のせいか?前に見た時より傷んでる気が・・・」
「これ、一冊目です」
「い、一冊目・・・?」
「はい、これまでに五冊ほど買ってます」
「五冊!?」
「あ、でも三冊は全く読んでない状態で、予備と保存用として蔵に入ってます」
「悪い・・・どうにも理解できないんだが」
「本は消耗品です。先の震災で再版も出来ませんし、実用と保存で分けて・・・」
そこまで言いかけると、幹久は不安そうに恭一郎を見上げた。
自信無げに伏目がちになると、消え入りそうな声でつぶやく。
「す、すみません・・・気色悪いですよね、こういうのって」
幹久の肩が、ほんの少し震えた。
その振動が、掴んだ手に伝わり、更に恭一郎は溜息をつく。
「・・・お前、気にし過ぎ」
恭一郎が吹き出すように笑うと、幹久の顔から、ようやく不安の色が消えた。
幹久は恭一郎にうながされ、足元を見ながら慎重に川から上がる。
「あぁ、着替えないとな・・・」
慌てて止めに入ったせいで、恭一郎の足元はずぶ濡れになっていた。
また謝ってきそうな幹久に、けん制するように恭一郎は視線を向ける。
すると、恭一郎は幹久の足元を見て、怪訝な表情を浮かべた。
幹久の足元は、多少濡れてはいたが、裾を膝までたくし上げており、素足であった。
「・・・ボーっとしてた割に、入る準備はしていたんだな」
「あ・・・いえ、あの岩に座って、水際に足を浸して涼んでいたんです」
指差した方には、腰掛けるのに、ちょうど良さそうな岩が並んでいた。
昔、夢彦と妹たちと共に、あの岩に座って、冷やしたスイカや野菜を食べた事を思い出し、恭一郎は懐かしい気持ちになる。
「でも、『空蝉の宴』の作中に、入水する場面があるじゃないですか。読んでたら、思わず入ってしまって・・・」
恭一郎は、拳で幹久の額を軽く小突いた。
自分の失態に、幹久は苦笑いを浮かべる。
「本当にすみません・・・つい」
「つい、じゃないだろ・・・そのうち、山中に迷い込むぞ」
「大丈夫です。すでに迷いましたから、もうしません」
「・・・お前な」
「冗談です」
恭一郎が虚をつかれたような顔をすると、幹久は楽し気に微笑んだ。
その笑顔につられるように、恭一郎も口元に、かすかな笑みを浮かべる。
「言うようになったな」
「何がですか?」
「お前の姉貴が言うような事を、言うようになった」
「えぇ!?」
「良い意味で」
困惑した表情を浮かべる幹久に、恭一郎はおかしそうに笑い掛けた。
そして、小さく息をつくと、自分の腰に手を当て、覆うように茂る木々を見渡す。
「それにしても、こんな千葉のド田舎で、よくそこまで感動できるな」
「僕にとっては、巡礼に来てるようなものですから」
「お伊勢参りじゃあるまいし・・・」
「『空蝉の宴』の原風景にいる方が、僕にはありがたく感じます」
幹久は、木の葉の影に身を隠す蝉たちを、尊い者たちのように見回した。
目を閉じると、木々や地面から漂う、夏の香りを深く吸い込む。
周りの景色と一体になろうとしているかのような幹久を、恭一郎は静かに見守った。
「僕は、誘拐された『あの時』以来、神も仏も信じていません」
幹久は目を開けると、暗澹たる瞳で、虚空を仰いだ。
その瞳が、木漏れ日に照らされて明滅する。
「『あの時』の事を、生きる試練の一つだと、思うことなんか出来ません」
「・・・・」
「『空蝉の宴』で描かれてる、自然の営み、弱肉強食の考え方こそ、世の理を説いてると・・・僕は思ってます」
その言葉に、恭一郎は胸を鷲掴まれる思いがした。
幹久の影の差した瞳が、すがるように恭一郎に向けられる。
「この世の衆生が救われるなんて、ありえるんでしょうか?」
恭一郎は、溜息をつき、瞳をゆっくり閉じた。
すると、様々な種類の蝉の声が、我先にと蜘蛛の糸にたかる、亡者の叫びのように感じられる。
その響きは、地面や沢に降り注ぐ雨音のように複雑で、距離感が狂わされた。
左右ばかりでなく、天地の感覚すら曖昧になり、恭一郎はめまいを覚える。
「お前の言ってることは、いつも的を射てるな」
「・・・・」
「この世に救いが無いと思うなら、幹久・・・お前が瑞光になればいい」
「・・・え」
「お前なら、出来るかもしれないぞ」
恭一郎は控えめに微笑むと、岩の横に置いてある幹久のカバンを持ち上げた。
無駄のない足取りで歩き出す恭一郎を、幹久は慌てて追い駆ける。
「あぁ!大丈夫ですっ、自分で持ちます!!」
「靴、忘れてるぞ」
「うわぁっ、そうだった」
慌てて靴を履く幹久をよそに、恭一郎は歩き始めた。
その後ろ姿に、幹久は更に焦りを覚える。
「恭一郎さんのそういう所、いけないと思います!」
駆け寄って拳を握ると、幹久は恭一郎の背中に叩きつけた。
予想だにしなかった態度に目を丸くする恭一郎を、キッと睨みつける。
「勝手に独りで行かないで下さい」
「え・・・あ、あぁ」
「やられた人の気持ち、考えたことありますか?」
黙り込む恭一郎に、幹久は目を伏せた。
蝉たちの輪唱にかき消されそうな小さな声が、その口からこぼれる。
「とても・・・寂しいんですよ」
熱気を含んだ風が通り過ぎ、幹久の前髪を揺らした。
泣き出しそうな瞳が、その奥で揺れている。
「振り返った時には、何もないかもしれないのに・・・」
そう言うと、幹久は、恭一郎の手からカバンを奪い取って走り出した。
恭一郎を押しのけると、大きく前へと踏み出す。
「あ・・・おいっ、幹久!」
恭一郎の制止も聞かず、幹久はまばゆい夏の日差しの中に消えて行く。
意外と足が速い。
恭一郎が思っている間に、駆けて行く足音は、あっという間に聞こえなくなった。
「どうしたんだ・・・アイツ」
幹久の言葉をたどるように、恭一郎は背後の沢を振り返る。
水際にあった幹久の足跡は、もうすでに乾いて消え去っていたのであった。




