-空蝉の宴- 7-4
―――神奈川県 小田原
海に面した平屋の縁側に、かすかに波の音が風に乗って運ばれてきている。
夏の終わりに差し掛かったとはいえ、じっとしていても肌が汗ばむほど暑い。
水谷は小さく息をつくと、首の後ろを手ぬぐいでぬぐった。
「疲れただろう・・・もう扇ぐな」
カエデはかすれた声で、水谷を諭した。
しかし、水谷は丸眼鏡の奥で穏やかに笑って見せる。
「海からの風を感じたいのだ。やめてくれぬか?」
そう言うと、カエデは、側に寄り添っている黒い狐を優しくなでた。
水谷は微笑んだまま溜息をつくと、手に持った団扇を縁側に置く。
両手を後ろ手につくと、大きく息を吸い込んだ。
「海の近くって、風が磯の香りだね~」
カエデの口元が、わずかに吊り上がった。
浅い呼吸が、かすかに風に混じる。
微笑んではいるが、明らかに苦しそうな様子に、水谷は胸を締め付けられた。
「・・・夢彦君から聞いたんだけど、彼――あの『死鬼喰み』は、千葉に帰ったらしいよ」
カエデの微笑んでいた口元が、更に吊り上がった。
視線は、海を真っ直ぐにとらえている。
不意に、その形良い唇から、威圧的な声音がこぼれ落ちた。
「来るぞ・・」
水谷が指し示された先を見ると、先程よりも雲が増えて来ていた。
嵐を予感させる生温い風に頬をなでられ、水谷は瞳の奥に暗い影を落とす。
「死ぬの?」
気がふれたような笑みを浮かべ、カエデの息が上がり始めた。
涙で視界がにじむと、水谷は丸眼鏡を押し上げ、手首の付け根で拭う。
「人の死を嗅ぎ付けるとは・・・嫌な男だな」
水谷は、胸を刺されるような思いがした。
しかし、痩せた手が庭先を指差していることに気付き、そちらに視線を移す。
見みると、一匹のイタチが、紅蓮の炎を身にまとって座り込んでいた。
「久しぶりだなぁ『黒天』・・・ちこう寄れ」
ところが、『黒天』は微動だにせずに、ただジッとコチラを見つめているだけであった。
キッ・・・と一声だけ短く鳴く。
それを聞いて、カエデの気がふれたような笑みは、どこか穏やかな笑みへと変わった。
「圭吾・・・もう帰りなさい」
「ヒドイな~。二人の邪魔をするなって?」
「『黒天』は、お前を迎えに来たのだ」
カエデがスッと立ち上がると、黒くて長い髪が、淀んだ風にたなびいた。
髪をかき上げると、悪戯っぽく光る瞳が、水谷をとらえる。
「そろそろ、始めるようだ」
「始めるって、何を?」
「『裏御前』様は、私を海に沈めると決めたらしい」
水谷は立ち上がり、慌てて辺りを見回した。
すると、カエデは、高らかな笑い声を辺りに響かせる。
「もう遅い。夜明け前には、すでに沖に出ておる」
水谷は愕然とし、力なく庭に膝をついた。
喉の奥がうずき、目に熱いものが込み上げてくる。
視界がにじんでいくのを、どうしても止めることが出来なかった。
キッ・・・
『黒天』の威嚇するような声に、我に返った水谷は、空を見上げる。
遠くに大小様々な紅い金魚が、突然現れた。
ほのかに紅く輝くと、爆ぜてドス黒い体液が、墨をこぼしたようにあふれ出す。
「師匠っ・・・!」
水谷がカエデの方へと振り返ると、そこには小さな紅い金魚が、海の方をジッと眺めていた。
徐々に輝きだす体に、水谷が手を伸ばした刹那、金魚は急に浮力を無くし、その身が水風船のように爆ぜる。
落ちた体液が地面に広がると、水谷は地鳴りのような叫び声上げた。
ズンッ・・・
同時に、下から突き上げるような衝撃が襲った。
大きく大地にゆすられ、平屋がみしりみしりと、今にも倒壊しそうな音を上げる。
瓦が雪崩のように落ちきて、辺りに甲高い破砕音が響いた。
海の方から吹き抜けて行く風は、轟々と断末魔のような唸り声を上げ、水谷を叱咤して来る。
「・・・・ぅっ・・・・ぁっ・・・・」
揺れが鎮まっても、水谷は立ち上がることが出来なかった。
苦し気に嗚咽しながら、手元の草を握り締める。
――ッキ!・・・キィ!
すると、先程以上の揺れが再び襲った。
平屋の壁に亀裂が入り、部屋の奥の天井が崩れ落ちる。
ところが、水谷は、それでも起き上がろうとせず、『黒天』は目を見張った。
―――ッキィイ!!
怒号のような鳴き声を上げると、『黒天』は紅蓮の炎を燃えたぎらせた。
すると、水谷の側で遠吠えを上げる狐に飛び掛かり、首元に容赦なく噛みつく。
「――っいったぁああ!!」
水谷は飛び起きると同時に、屋根に残っていた瓦が、水谷のすぐ目の前に落下した。
水谷は、しばし呆然と眺めていたが、更に激しい痛みが後ろ首を襲い、あられもなく叫び声を上げる。
「痛いっ!!痛いよ!!ケンさん!」
悲しいからなのか痛いからなのか、もはや分からない涙目で、水谷は振り返った。
見ると、黒い狐はなす術もなく、『黒天』に首を食らいつかれている。
ようやく『黒天』が口を放すと、黒い狐は脱兎の如く、水谷の後ろに隠れた。
「・・・行くけど、電車止まって帰れないよ、きっと」
水谷は立ち上がると、荒れ狂う海を、冷たい眼差しで見つめた。
そんな水谷に、『黒天』がキッと短く鳴くと、水谷は悲哀のこもった笑みを浮かべる。
「分かってる・・・師匠の所になんか、行かないよ」
それでもなお、『黒天』はジッと水谷を見つめて来た。
何か言いたげな『黒天』に、水谷は吹き出すように笑う。
「ケンさんが見張ってるだろうから、『裏御前』に手を出せるワケないでしょ」
『黒天』は宜しいと言わんばかりに踵を返すと、海とは逆の方へと歩き出した。
水谷は溜息交じりに笑うと、その後ろをついて歩く。
すると、三度目の大きな揺れが起こり、しばしその場に踏みとどまった。
後ろで、バリバリと大きな音を立て、平屋が遂に倒壊する。
しかし、水谷と二匹の『鬼』は、振り返る事なく前へと歩みを進めるのであった。




