-空蝉の宴- 7-1
梅雨は、終わりを告げていた。
七月独特の、少し乾いた暑さが産声を上げている。
編集室のジメジメした空気も、どこかカラッとしていて、窓からの風が心地良い。
「夢さん、小説が書き上がって本当に良かったです!しかも、怪奇物でありながら探偵小説風に仕上がっていて、なおかつメインの官能シーンも始めて書いたとは思えない出来栄えでしたよ!!僕もう、感動してしまって。校閲の後も数回読み返しちゃいました」
「・・・う、うむ」
「あれ、なんか元気ないですねぇ?どうかしたんですか?」
夢彦は、水谷をチラリと見やった。
伝七郎も、その視線に気が付き、気まずそうな表情を浮かべる。
するとそこに、何とも絶妙なタイミングで犬飼が編集室に入って来た。
「うぃ~ッス、お疲れさんっ!」
夢彦と伝七郎は、落ち着きなく顔を見合わせる。
それに対し犬飼は、この上なく上機嫌な様子であった。
「よぉ、雑誌が刷り上がったらしいな。見に来たぞ」
「あっ、い、犬飼さん。おはようございます」
「もう、昼過ぎだけど?」
「え、えぇ、えーっと・・・」
「水谷ぃ、ちゃ~んと夢さんは仕上げられただろ?」
直球な物言いに、夢彦と伝七郎は蒼白となった。
ニンマリ微笑む犬飼に、水谷は相変わらず、ぼんやりとした笑顔を向ける。
「そうだね~。部長もせっかくだから、このままシリーズで連載しようって言ってた」
「ほ~らな。絶っっ対に夢さんは才があるって言っただろ?」
「うん。ボクも、そう思ってたよ?」
その場にいる全員が、呆気に取られた顔で水谷を見やった。
一同の視線を受けても、水谷は相変わらずフワフワとした笑みを浮かべる。
「ちょ、ちょっと待って下さい、水谷さん!」
「何~?」
「何~?じゃないですよ!夢さんに才がないって、この前言いましたよね!?」
「うん、言ったね~」
「前と言ってる事が違うじゃないですか!」
「だって、そうでも言わないと、夢彦君が本気で書く気にならないと思って」
伝七郎は、あんぐりと口を開いた。
しかし、そんな事はかまわず、水谷は楽し気に微笑みだす。
「ケンさんは病的な面倒見たがりだから、夢彦君がダメ人間になると思ってね~」
「はぁ!?俺のせい!?」
「ところで、夢彦君。独立するよね?」
夢彦は急に話を振られ、戸惑った顔で水谷を見つめた。
明らかに、そこまで深く考えていなかった様子に、水谷は苦笑いを浮かべる。
「した方がイイよ。ここで月給もらって書くより、稼げるから」
「そ、そうなのか?」
「それに、うちじゃ官能小説しか書けない。ボクは、それ以外のキミの作品も読みたいな~」
そう言うと、子供が何かをねだるような笑みを、水谷は浮かべた。
いつもとは違う雰囲気に呑まれ、夢彦はコクンとうなずく。
その返事に、水谷は細い目を更に細め、またいつもの掴みどころのない微笑を浮かべた。
「と、いうワケで。近いうちに、あの家出てってね、ケンさん」
「・・・ちょっと待て、何でそうなるだよ!?」
「だって、小説書くための資料が、一気に増えるよ?」
「いや、それは分かるがっ」
「え、もしかして・・・二人共、そういう仲?」
「違ぇよ、馬鹿っ!!あそこは俺の家だろうが!!」
「そうだけど、夢彦君の初任給じゃ、東京の郊外に住まないと生活出来ないでしょ」
「まぁ・・・そうだな」
「近くに住んでないと、原稿取りに行くのが面倒くさい」
「お前の利便性の問題かよ!!」
水谷はおかしそうに笑いながら立ち上がると、側にあったカバンを手に取った。
そして、万年筆を胸ポケットにしまうと、ふんわりした笑顔を振りまく。
「じゃ、次の号の打ち合わせ、行ってきま~す」
上機嫌な様子で、水谷は編集室を後にした。
残された夢彦たちは、唖然と苦笑いが混在した顔で見送る。
「ちくしょう・・・してやられた」
「う、うむ・・・完全に、私の性格を計算しておったようだ」
「よくよく考えれば、締め切り前に枠が空いてるとか、出来過ぎだからな」
「もしかして、空けといてくれたのだろうか?」
「そうじゃね?巻頭の一番大きい枠だし。まずねぇだろ、巻頭決まってねぇとか」
「・・・か、書けて良かった」
夢彦が遠い目をすると、伝七郎が横から着物の裾を引っ張った。
夢彦は、雑誌をめくる伝七郎に視線を移す。
「ところで、夢さん。この小説なんですけど、結構、難解な漢字を多用してますよね」
「あぁ・・・水谷さんにも、読みやすいように次回から気を付けるように言われた」
「水谷さんに、登場人物にルビは振らないようにと指示されたんですけど、正直、何人か読めないんですよ・・・」
「例えば?」
「『きょ』とか『ぎ』とか」
「え?・・・あぁ」
夢彦は近くにあった紙に、鉛筆でサラサラと何かを書きだした。
伝七郎と犬飼は、興味深そうにのぞき込む。
紙には、左に『虚』、右に『戯』と書いてある。
犬飼は、眉間にシワを寄せて、紙を指さした。
「そうそう、俺もコレは読めなかった。ルビ振らないとか、読ませる気ねぇな・・・」
「水谷さんとしては、読みたいように読めば、という事であろうな」
「ゆるいなぁ・・・で、何て読むんだ?」
「左は『うつろ』、右は『そばえ』と読む」
「読めるかぁあ!!」
「す、すまぬ・・・てっきり、ルビを振ってくれると思っていたのでな」
「・・・つか、『そばえ』なんて単語自体知らねぇよ」
「天気雨だ。狐の嫁入りなんて言い方もある」
「あ・・・」
「ケンさんが、晴れた夜に濡れて帰って来たであろう」
夢彦が楽しそうにニコニコと微笑んだ。
窓から落ちそうになった事など、恐らく忘れているような笑顔であった。
「あと、この名前には他にも意味付けがしてある」
夢彦は『虚』の横に『戈』と書き添える。
合わせると『戯』になった。
「この『戈』という部首は、名前の通り、武器の『ほこ』や『戦い』を表している。『戯』は『虚』に代わって手を下す役回りだからな」
伝七郎は感動したように手を叩いた。
一方、犬飼は先日の夜を思い出し、苦笑いを浮かべる。
「・・・どおりで、質悪ぃと思った」
「犬飼さん、どうかしたんですか?」
「なんでもね・・・とりあえず、新居探すわ。その方が・・・イイ気がしてきた」
げんなりした犬飼が溜息をつくと、夢彦と伝七郎は揃って小首をかしげるのであった。




