-空蝉の宴- 6-10
曼殊沙華が、ちらほらと咲いている。
石畳の割れた参道に、犬飼は立っていた。
また、あの夢だ。
場所は違うが、犬飼は、そう確信していた。
辺りは、静まり返っている。
静か過ぎると言って良いほどであった。
中天を見上げれば、木々の間から、黒く澄んだ闇が見え隠れしている。
同じ景色を繰り返しているような参道が、何処までも続いており、どちらから来たのかも分からなかった。
しかし、急に一方から生温い風が吹いて来て、犬飼の頬をなでる。
おそらくコッチだ。
犬飼は、淀んだ風が吹いてくる方向を見つめた。
そして、その風に誘われるように歩き出す。
「―――?」
しばらく歩いていると、ゴザを敷いて座っている男がいた。
男の両隣には、持ち手のついた大きな桶がある。
江戸時代の浮世絵に、こんな姿の武士の絵があった。
たしか、下級武士が副業で、金魚売りをしている絵だっただろうか。
ただ、幅の広いまな板と、使い込んだ包丁が側に置いてある。
どちらかと言うと、魚屋のようであった。
「ちょっといいか?」
犬飼は、男の前に屈み込んで声を掛けた。
男は、不機嫌そうに顔を上げる。
「なんだ?」
「アンタ、ココで何やってんだ?」
「はぁ?見りゃ分かるだろ、魚売ってんだよ」
「その割に、客に対して態度悪くね?」
「フンッ、『鬼喰らい』以外に売るもんなんてねぇ」
『鬼喰らい』という言葉に、犬飼は顔をしかめた。
つまり、『鬼』の『瘴気』を無害なモノに転化できる奴にしか売らないという事だ。
そうなると必然的に、この男の言う魚とは『瘴気』という事になる。
犬飼はジッと、側にある桶を見つめた。
「そんなジロジロ見たって売らねぇよ。下手に普通の『鬼』に売ると怒られちまう」
「誰に?」
男は、気まずそうに黙りこんだ。
そして、慌てて犬飼を追い払うように手を振る。
「あぁッ、もう!!今日はついてねぇな!他所で売るから、とっととアッチ行け!」
そう言うと、男は水瓶とまな板を背負子に縛り付け始めた。
犬飼は桶の中身が気になり、少しでも隙間から見えないかと、男から視線を移す。
「―――ん?」
桶にかぶせてある巻き簾に、小さな獣の手が掛かっている。
男も、その気配に気が付いたのか、驚くほどの俊敏さで振り返った。
そして、その小さな手を引っ掴むと、乱暴に引っぱりあげて立ち上がる。
その拍子に桶がかたむき、巻き簾が外れて中身が飛び出して行った。
紅い金魚であった。
桶に水はなく、宙に浮かぶ紅い金魚が、何匹も怖がった様子で飛び出してきた。
しかし、犬飼に気が付くと、まるで隠れ場所でも見つけたかのように、一斉にすり寄って来る。
「な、なんだ!?」
「このクソ狸ぃ!!また貴様か!!」
男の怒号が響き渡った。
犬飼は、あまりの気迫に視線を移す。
見ると、男が狸の小さな前足を捕らえ、すさまじい剣幕で怒鳴りつけていた。
狸は、なんとか逃れようと暴れているが、宙吊りでどうにも出来ない様子である。
「毎日のように売りモンを漁りやがって・・・テメェのせいで、どれだけ逃がしちまったと思ってる!!」
男は手元にあった包丁を手に取ると、狸の首に突き付けた。
しかし、狸を持つ手が急に下がり始め、前のめりになる。
見ると、狸の柔らかな体がゴツゴツとした岩のように変化し、男はあまりの重さに、歯ぎしりしながら狸を取り落とした。
それが足に当たったらしく、男は苦悶の表情を浮かべ、叫び声を上げる。
「いったぁあい!」
犬飼は、不意に聞こえた不釣り合いな叫び声に、呆気に取られた。
男の体から緑色の炎が立ち上ると、その姿がみるみると変わっていく。
髪が蛇のようにうねりながら伸び、男物の着物は艶やかな花魁の着物姿へと変わった。
かんざしや櫛の間から獣の耳が生え、足元には二本の細いしっぽがすらりと伸びている。
そんな艶めかしい女の姿に驚く犬飼であったが、その花魁の顔を見ると、素っ頓狂な声を上げた。
「あ・・・議員の男といた、ケバい女」
「誰がケバいよっ!!」
花魁は忌々し気に犬飼を睨みつけると、足元の包丁を拾い上げ、指さすように向けて来た。
着飾った姿が台無しになるほど口元を歪める花魁に、犬飼は軽薄な笑い声を向ける。
「すっげぇ、超便利。今のどうやれば出来んの?」
「うるさい!ホクロ男!!」
すると、犬飼に目くじら立てている隙を突き、狸が花魁の首元めがけて牙をむいた。
頸動脈辺りを噛みつかれ、花魁は金切り声を辺りに響かせる。
狸を引きはがそうと尻尾を掴むが、引っ張れば引っ張るほど喉の肉が引き千切られそうになるのか、さらに痛々しい叫び声を上げた。
「『鬼喰らい』でもないのに・・・勝てるワケないでしょ!!!」
花魁は包丁を高く掲げると同時に、口元を吊り上げた。
尻尾を限界まで引っ張り上げ、鈍く光る刃を振り下ろす。
しかし、背中に深々と包丁を突き刺されても尚、狸は食らいついた首元を放さない。
「本気で殺されないと・・・分からないのかしらっ!」
花魁は容赦なく何度も刃を振り下ろした。
だが、それでも一向に口を離さない狸に、花魁は歪んだ笑みを浮かべる。
包丁をより高く振り上げると、にわかに刃が緑色の炎をまとった。
「死ねぇっ!!」
ぎしっ・・・・・・
骨ごと肉を切り裂く鈍い音が響いた。
花魁の胸に、血みどろの包丁がうずもれている。
何が起こったのか分からず、花魁は目を泳がせた。
標的だった狸は、花魁に尻尾を握られ、宙吊りとなっている。
口から血をしたたらせながら、弱々しい鳴き声を上げていた。
その有様を見て、急に狸が口を離した為、勢い余って自分を刺してしまったのだと、花魁は思い至る。
「・・・しまっ・・・・・」
狸を乱暴に地面に叩きつけると、花魁は頭を抱え、悲痛な声でうめきだした。
すると、花魁の顔に沸騰したかのように水疱が浮かび上がる。
じゅくじゅくとただれ始めた顔を、長く伸びた爪で、えぐるように引っかき始めると、辺りに金切り声を響かせた。
艶やかな髪は急に水気を無くし、根元からバサバサと地面に落ちて行く。
大きな目から血の涙を流し始めると、口を大きく開き、引きつった笑い声を上げた。
「ッハ、ハハハ・・早く帰って、起き・・・起きられるかしら」
力なく膝をついて顔面から倒れ伏すと、その醜悪な姿がドス黒い霞となって消えて行く。
その凄惨な光景を前に、犬飼は呆然と立ち尽した。
しかし、視界の端に動くモノをとらえ、我に返って視線を移す。
背中に痛々しい傷を負った狸が、身を起こして歩き出そうとしていた。
しかし、体は震えており、急にガクンと膝を折って倒れ伏す。
そんな狸の元に、宙を浮く紅い金魚たちは慌てて飛んで行き、その周りを心配そうに浮遊した。
「おい、周りをウロチョロすんな。ちょっと離れろ」
紅い金魚たちを優しく振り払うと、犬飼は狸をそっと持ち上げた。
大きな手に急に掴まれた狸は、逃れようと懸命に体をジタバタとさせ始める。
しかし、傷に障って体力を消耗したのか、すぐにグッタリとうな垂れた。
「ほら、イタズラ狸。あんまり暴れると、鍋にして食っちまうぞぉ」
軽薄な口調を投げ掛けると、犬飼はおかしそうに笑い掛けた。
しかし、狸のつぶらな瞳を凝視すると、急にいぶかし気に眉間にシワを寄せる。
その顔に危機を感じ取ったのか、狸は焦燥の色を浮かべて再び暴れ始めた。
「お前、もしかして・・・」
犬飼が言いかけたところで、数匹の金魚が渾身の力で体当たりしてきた。
痛くはないが、多勢に無勢である。
ペタペタとした感触が気色悪かった。
「分かった、やめろ!言うなって事だろ!?」
金魚たちが体当たりをやめると、肩にもたれ掛けさせるように、犬飼は狸を抱き直した。
狸の浅い呼吸と、時々混じる小さなうめき声が、耳元で痛々しく聞こえる。
その頭を、犬飼は掌でポンポンと軽く叩いた。
「ま、柄にもねぇ事するなっつーの」
ふと、犬飼は背筋に嫌なモノを感じ、淀んだ風が吹いてくる方へと振り返った。
轟々と禍々しい気配が、いくつも近づいて来る。
この世の終わりだとも言いたげに、紅い金魚たちは犬飼の服をくわえ、懸命に引っ張り始めた。
「あ、逃げた方がイイっぽい奴な」
犬飼は駆け出そうとしたが、側にあった背負子が急に気になり、足を止めた。
花魁は消えたのに、荷物は残っている。
その不自然さが、どうにも引っ掛かった。
「―――・・・って言っても、持ち帰るようなもんじゃねぇしな」
犬飼は、おもむろに肩紐を持ち上げ、参道のど真ん中に思い切り投げ飛ばした。
背負子に載せてあった水瓶が、派手な音を上げて砕け散ると、中からドス黒い生き物のようなモノが這い出て来る。
それと同時に、幾つもの禍々しい遠吠えが、喜悦の色をにじませて響き渡った。
――なんと強い『瘴気』か
――もらっていこう
――ワタシも欲しい・・・
『鬼』たちは目にも留まらぬ速さで寄り集まり、水瓶に入っていたドス黒いモノを、我先にと追い掛け始めた。
びちゃら・・・
びちゃら・・・
『鬼』たちが宴の如く、悦に入った高らかな笑い声を上げた。
おどろおどろしい不協和音が、犬飼の鼓膜を震わせる。
目の前に広がる地獄絵図に吐き気を覚えながら、犬飼は来た道へと駆け出していくのであった。




