-空蝉の宴- 6-8
出版社にほど近い住宅街。
小道の入り組む迷宮に、家々が窮屈に並んでいる。
中天を見上げれば、夜空に美しい星々が煌めいていた。
ずぶ濡れで走っている事に違和感を覚えると、犬飼は心の中でつぶやく。
「・・・夢さん」
犬飼は、息を切らして立ち止まった。
通路のような長細い庭に、アジサイが咲いている。
その先には、二階建ての一軒家が建っていた。
一階は、犬飼の遠い親戚が大家として住んでおり、二階を格安で借り受けている。
張り込み生活でほとんど帰らない為、物置同然であった。
それでも、最近は、夢彦が居候するようになり、部屋の明かりが灯っている事が多い。
今も、二階の窓からは白熱電球の橙色の光が、障子の向こうにぼんやりと見える。
その光に、犬飼はどこか安堵した。
カラカラカラ・・・
玄関の鍵を開けると、目の前の狭い階段を静かに登った。
引き戸の隙間から、細い光が廊下を照らしている。
犬飼が、その隙間から部屋の中をうかがうと、夢彦は文机の前で、頭を抱えてうなだれていた。
「おーい・・・」
犬飼の声に、夢彦は飛び起きるように頭を上げた。
犬飼の方に顔を向けると、今にも泣き出しそうな表情を浮かべる。
「だ、大丈夫か・・?」
夢彦は、無言で原稿用紙を睨みつけた。
どうやら、いつものように行き詰っているようであった。
犬飼は軽く溜息をつくと、いつもの軽薄な笑みを浮かべる。
「そう、眉間にシワ寄せんなって。思いつくもんも、思いつかなくなるぞ」
「わ、分かっておる」
「見せてみ。どこまで出来た?」
「ダメだ!!ケンさんに手伝ってもらうワケにはゆかぬ!」
「手伝わねぇ。見るだけだ」
夢彦は渋々、犬飼に原稿用紙を見せた。
原稿用紙には、いつもの記事のように構成案が書かれている。
あらすじは出来上がっていた。
また、別の用紙には登場人物や世界設定の詳細が書き出されている。
華族の放蕩息子が、遊郭街『吉原』と、もう一つの世界――『裏吉原』を行き来し、魑魅魍魎たちが繰り広げる怪事件を解き明かすという話であった。
フィクションなど飽き飽きしていた犬飼であったが、設定を読んでいるだけでも面白い。
先程の命懸けの鬼ごっこなど、忘れてしまいそうであった。
「へぇ、面白いじゃねぇか」
「ほ、本当か!?」
「初めて小説を書こうとしてる割には、シッカリ詰めてると思う」
それを聞いて安堵したのか、夢彦は穏やかな笑みを浮かべた。
しかし、再び白紙の原稿用紙を眺めると、その笑みに影が差す。
「何を、そんなに困ってんだ?」
「う、うむ・・・それが、いつもの通り、何から書けば良いのか思いつかぬ」
「この構成を見ると、まずは『裏吉原』での魑魅魍魎たちの会話から入るな」
「その会話が、まず浮かばぬ。書く事柄は決まっとるのだが・・・」
再度、犬飼は登場人物の設定を読み返した。
人柄だけでなく、役割や特技も事細かく書き出されており、個性豊かでありながら、実際にいそうな親しみやすさがある。
にもかかわらず、犬飼は、一線を画するような拒絶感を、その原稿用紙から感じ取った。
「なんか・・・違和感あるな」
「え・・?」
「ちょっと、下がってくれ」
犬飼は原稿用紙を床に置き、まるで水の中の魚を探るように、視線を彷徨わせた。
その何処か野性的な眼差しに、夢彦は背筋に冷たいものを感じる。
「夢さん」
急に、その瞳が色めき立ち、夢彦を嬉々とした様子で見つめて来た。
獲物を捕らえ、どう料理してやろうかと悦に入るような顔である。
その獲物が自分であるような気がして、夢彦は息を呑んだ。
「この登場人物の設定、魑魅魍魎の名前が、外見そのままだな」
「え・・・あぁ・・熊男、猫娘、とかな」
「なんで、人間のように名前を付けない」
「・・・そう言われれば、何故であろうな」
夢彦は、しばらく魑魅魍魎たちの名前を眺めた。
しかし、焦燥した様子で犬飼に視線を送る。
「・・・考えようとしても、何も浮かばぬ」
「うーん・・・」
犬飼は、胸ポケットから万年筆を取り出すと、魑魅魍魎たちの名前を全て黒く塗りつぶした。
呆気に取られる夢彦に、犬飼は得意そうに微笑む。
「見た目に惑わされてるんだ。これで、役割とか能力で考えられるだろ」
「・・・おぉ・・たしかに」
「あと、迷った文言ってのは、大抵使い物にならない。思い切って読めなくなるまで消すと、前のアイディアに引きずられないで考えられる」
犬飼は、文机に設定の原稿用紙を置き、最後の行を指さした。
―― よく笑い、よく泣く。
それだけであった。
他の登場人物よりも詳細がない。
名前の部分も消してしまった為、どんな姿かも想像出来ない。
「コイツの名前を、まずは全力で考えろ」
夢彦は息をのんだ。
額に手を当てると、思いつめたような表情で原稿用紙を見つめる。
長い沈黙が続いた。
夢彦は小さくうめき、眉間にシワを寄せる。
犬飼と顔を合わせないようにしながら、必死で脳内の辞書を引っ張り出した。
ただ、実物の辞書もそうだが、とっかかりが無ければ、何から検索すればいいのか分からない。
パラパラとめくっては放り出していくと、ただただ足元にうず高く積まれていくだけである。
その圧迫感に心が押しつぶされそうになった刹那、夢彦は着物の裾に冷たさを感じた。
「・・・あれ・・・ケンさん」
「何だ?」
「今、気が付いたが・・・酷い格好ではないか」
夢彦は、いぶかし気に犬飼を見つめた。
そんな夢彦に、犬飼はヘラヘラとした笑いを返す。
「水もしたたるイイ男だろ?」
「イイ男だとは思うが、風邪を引くではないか」
「大丈夫、大丈夫!」
「雨に降られたのか?・・・こんなに、晴れておるが」
「え・・・あ~・・・・」
まさか、強酸の雨に降られたとか、川で溺れかけたなどと言えるはずもない。
犬飼は苦笑いを浮かべつつ、晴れた空を指さした。
「えーっと・・・ほら、雲がないのに雨が降る奴」
「天気雨か?」
「そうそう、それそれ!」
犬飼が正解とばかりに夢彦を指さすと、夢彦はハッとするように目を見開いた。
急に立ち上がると犬飼を押し退け、文机に脚を乗せると、目の前の窓を勢いよく開ける。
スパーンッ
盛大な音が、近隣に響き渡った。
近所迷惑、はなはだしい。
「コラ、夢さん!!いつも言ってるが、窓を開ける時は静かに開けろ!それに、机に乗るんじゃねぇ!!」
だが、夢彦は何も聞こえていないかのように、夜空を見上げていた。
星々から何かを読み取っているのか、夢彦は微動だにせずに遠くを見すえている。
すると、急に欄干に手を掛け、何かに手を伸ばすように乗り上げた。
ゆらりと細い体が揺れ、重心が虚空へとかたむく。
「っちょ・・・馬鹿!!」
犬飼は夢彦の胴に飛び付くと、慌てて後ろに引き倒した。
したたかに尻もちをつき、犬飼は後ろのタンスに頭を打ち付ける。
しかも、夢彦がその上に落ちて来て、顔面に後頭部をぶつけられた。
「~~~~っ!!」
あまりに痛すぎて叫びが声にならず、顔を抑えて犬飼は床に転がった。
しかし、そんな犬飼にかまわず、夢彦は文机に向かい、ペンを握り締める。
片膝をついて中腰のまま、流れるような動きで設定の紙に何かを書き殴った。
それを床に放り投げると、まっさらな原稿用紙に鬼気迫った様子で書き始める。
流れ作業をしているような、迷いのない速さであった。
犬飼は夢彦の豹変ぶりに言葉を失いながら、手元に落ちていた設定の紙を拾い上げる。
「・・・!」
すべての魑魅魍魎に、名前が書き添えてあった。
指示した最後の行―――消す前には『白狐』と書かれた所を、犬飼は慌てて見る。
『戯』
と書いてあった。
普通に読めば、『ぎ』か『たわむれ』としか読めない。
しかし、名前にするには、どこか違和感が残る。
夢彦に聞いてみたかったが、とても聞けるような様子ではなかった。
まるで、印刷機のように、ためらいなく筆が進んでいく。
もう大丈夫だと思った瞬間、犬飼は抗いがたい睡魔に襲われ、そのまま眠りにつくのであった。




