-空蝉の宴- 6-1
――喫茶『ハルジヲン』
犬飼の勤める出版社の近くにあり、和洋折衷の内装が華やかな喫茶店である。
昼はコーヒーなどを楽しむ学生やサラリーマンが思い思いの時間を過ごしているが、夜になると酒の提供が始まり、バーへと変わる。
居酒屋と大して変わらないが、天井から下がっているシャンデリアのせいか、どこか異国情緒があって艶やかであった。
そんな賑わいを避けるように、一番奥の壁際の席に、犬飼は座っていた。
否、突っ伏していると言う方が正しい。
原稿用紙を睨みながら万年筆を握っているが、筆が進む気配は全くなかった。
「熱ぃ・・・」
一か月前に夢彦に会った頃から、ずっと熱が続いていた。
と言っても、ずっと高熱であったワケではない。
ほんの少し、平熱より高い位である。
なので、ずっと放っておいたのだが、ここ最近、じわじわと病状が悪化していた。
病院に行って薬を処方してもらったが、全く効果がない。
それどころか、病状は悪化するばかりで、全力で走ったかのように体が熱い。
こんな状態にも関わらず家に帰らないのは、夢彦に遠慮しての事だった。
明日が締め切りだというのに、風邪をうつして倒れたら、原稿を仕上げられない。
それに、夢彦の分の記事を全て引き継ぐ事になった為、休んでもいられないのであった。
「・・・ぁあ、マジで辛ぇ・・・」
犬飼は両手で頭を抑えると、テーブルに額を押し付けた。
だからと言って、仮眠が取れるほど生易しい頭痛ではない。
ただ刻々と、無常に時間が過ぎていくだけであった。
コツ・・・コツ・・・コツ・・・
すると、規則的な足音が近づいて来て、呻いている犬飼の側で止まった。
女給か?
その気配に気が付いてはいるものの、犬飼は放っておいて欲しいとばかりにテーブルに突っ伏し続けた。
「随分と苦しそうだな」
聞き覚えのある声音に、犬飼は飛び起きた。
すらりとした姿態が、目の前に立っている。
女―――しかも、犬飼と大差ないほどの長身。
切れ長な瞳に、鼻筋の通った端正な顔立ちで、髪は結っておらず、漆黒の髪が真っ直ぐ滝のように肩から落ちていた。
白地の着物には、青と紫の鮮やかなアジサイが染められている。
犬飼が目を丸くしていると、女は勝手に向かい側に座った。
そして、蠱惑的な眼差しを向け、うっすらと口元を吊り上げる。
「会いに来るのが遅くなってすまない。色々と立て込んでいたのでな」
「あ・・・アンタ」
「万年筆は、ちゃんと受け取ったようだな。くすねられてないか、少し心配だった」
女が薄氷のような笑みを浮かべると、犬飼の背筋に冷たいものが走った。
ホテルの爺さんが怯えるのも無理はない。
脅されているワケでもないのに、どこか威圧感がある。
気がふれているような笑みであった。
犬飼が無言で微動だに出来ないでいると、女は冷たい瞳のまま、楽し気に微笑んだ。
「十年来の再会のような顔だな。それとも、どうやって逃げようか考えているのか?」
「・・・何しに来た」
「そうだな。とりあえず、お前にアイツらを見せねばなるまい」
女は掌を上に向けると、犬飼に向かって何かを吹きかけるような仕草をした。
「痛っ!!」
急に訪れた強烈な痛みに、犬飼は両目を抑える。
しかし、歯を食いしばるほどの痛みは徐々に治まり、犬飼はゆっくりと目を開けた。
「―――!?」
女の後ろの席に、巨大なミミズが蠢いていた。
しかも、ただのミミズではない。
胴の部分には、人間の目と口が無数にあった。
更に店の入口の方を見やると、魑魅魍魎とも言えるモノたちが、人々に交じって楽し気に笑っているのである。
ただのミミズや虫なら、まだ耐えられる。
しかし、どこか人の特徴を併せ持つ『それら』は、地獄絵図のようにグロテスクだった。
喉の辺りに酸えたモノを感じ、犬飼は口を抑える。
「気色悪いだろう?」
「な、なんだコイツら・・・」
「『鬼』だ。人の心の一部で、誰の中にも必ずいる。普通は見ることが出来ない」
「―――」
「お前の目に、私の『鬼』の鱗を入れて見えるようにした。心配するな。一刻ほどすれば、また見えなくなる」
犬飼は、頭を抱えて戦慄した。
熱で、頭がどうかしているとしか思えなかった。
原稿を書いているうちに、眠ったに違いない。
だが、こんな時に限って、自分の中の何かがハッキリと言っている。
これは、絶対に見てはいけなかった現実だと。
犬飼は深く息を吸うと、上目遣いに女を見やった。
女は相変わらず、涼やかに笑っている。
「お前の事を、色々調べさせてもらった。面白い経歴だな、犬飼」
「・・・人の名前を勝手に呼ぶ前に、自己紹介したらどうですか、お嬢さん?」
女は、きょとんとした顔で犬飼を見つめた。
そして、すぐに吹き出すように笑い始める。
「ッハッハッハッハ!!・・・お嬢さんって・・・お前、本当に面白いな」
「デカい声で笑うな、気ふれ女!」
「気ふれかっ、ハッハッハ!違いないっ!!」
ツボにはまったのか、女はいつまでも笑い続けた。
あまりに大声で笑う為、犬飼は周りが気になって様子を探る。
すると、同じように周りも騒いでおり、自分たちの方など見向きもしていなかった。
心配ないか、と犬飼は急に冷静になる自分を自覚する。
「私は、御堂カエデだ。もうこの際、気ふれ女でかまわんがな」
「・・・アンタ、本当にあの日、俺を投げ飛ばした女か?」
「あぁ、楽しかっただろう?」
「楽しくねぇ!!しばらく腰痛で、歩くのが辛かったつぅの!!」
「それは、すまない。楽しくて調子に乗ってしまった」
カエデは両手の指を組んで、テーブルに肘をついた。
組んだ指のところに顎を乗せ、上機嫌に微笑む。
コイツは空気が読めないと、犬飼は一瞬で理解した。
「で、どういった要件で来たんだよ」
「あぁ、そうだった。実は、アフターフォローに来た」
「アフターフォロー?」
「正直、お前が夢彦を引き取った後、自分の家に居候させるとは思ってなかったのだ」
「・・・俺が引き取りに来るって、勝手に爺さんに言ったのはアンタだろ」
「そうだが、普通は警察に突き出したりするだろ」
「・・・まぁ、そうだな。って、そもそもアンタが自分でやれよ!!」
「人殺しの私に、警察の前に出ろと言うのか?」
犬飼は人殺しという言葉に、咄嗟に身構えた。
こわばった顔をした犬飼を見ると、カエデはニンマリと笑う。
「あの時、お前が言った通りだ。あの男は心臓発作で亡くなったが、発作を起こしたのは私だ」
「―――」
「今、お前が見えるようになった『鬼』たちは、傷付けると生み出した本人も、何らかの形で傷付く。私は、その『鬼』を殺して回っているのだ」
そう言うと、カエデは身をかがめて、テーブルの下をのぞき込んだ。
しばらく、何かボソボソとつぶやいていたが、苦笑いを浮かべながら顔を上げる。
「犬飼、私を警戒するな」
「この状況で出来るか!!」
「なら、お前が出て来るように言ってくれ。お前の足元にいる」
犬飼は、一瞬心臓が跳ね上がった。
話の流れから、目の前にいるような『鬼』が、自分の足元にもいるという事である。
犬飼は恐る恐る、自分の足元をのぞき込んだ。
―――キッ・・・キッ・・・
一瞬、猫かと思ったが、耳が丸く、手足が短い。
顔は黒っぽい毛で覆われているが、鼻の周りだけが白っぽくなっていた。
「な、なんだ・・・お前?」
「お前の『鬼』だ」
ガンッ
犬飼は、テーブルに頭を打ち付けた。
それにビックリした『鬼』が、壁際に引っ込んで体を丸める。
しかし、犬飼が頭を抑えながら手招きすると、覚悟を決めたのかテーブルの上に躍り出た。
イタチであった。
胴の部分は綺麗な山吹色をしている。
周りの『鬼』と違って、普通のイタチと外見は変わらない。
ただ、体中に真っ白な紐がキツく絡みついており、体に食い込んで痛々しい。
気丈に四肢で体を支えようとしていたが、苦しそうに伏せてしまった。
「お前が熱病を発症しているのは、この白い紐が『鬼』に巻き付いているせいだ」
「・・・は!?」
「ただの紐に見えるが、これは『瘴気』だ。これが取れない限り、どんな薬を飲もうが効果はない」
おもむろに、カエデは近くにあったディナー用のナイフを手に取り、イタチと紐の間に滑り込ませた。
そして、渾身の力をふりしぼる。
―― キッ―――!キッ―――!!
「―――っい!?」
腹の辺りに激痛が走り、犬飼はソファに倒れ込んだ。
テーブルに手を掛けるが、起き上がれないほどの痛みに悶絶しそうになる。
あまりに苦しそうな様子に、カエデは手を止めた。
「すまん、大丈夫か?」
「・・・この前・・・投げ飛ばした後に気絶したのは、コレか・・・」
「そうだ。お前の『鬼』の首を絞めて、気絶させた」
カエデは嬉々とした表情を犬飼に向けた。
ナイフを持ち直すと、今度は違う個所にナイフを滑り込ませる。
「では、続けるぞ」
「ちょっと待て!!無理だ、絶対に無理だ!!」
イタチも驚愕して必死に逃げようともがいていた。
カエデはナイフを置くと、顎に手を当てて溜息をつく。
「こういうのは東雲が専門だからな・・・私では、やはり無理か」
「アンタ・・・ダメ元でやるなよ・・・」
「なら、対症療法にするしかない。犬飼、コイツに名前を付けろ」
「な、名前?」
「『鬼』に名前を付けると、外からの『瘴気』に対して耐性が強くなる」
「そんなんで、治るのか・・・?」
「完治はしない。原因は、そのままだからな」
「名前ねぇ・・・」
「名付けは一度しか出来ない。名前の良し悪しで耐性の度合いが変わるから慎重にな」
犬飼は、イタチをジッと見つめる。
イタチも、神妙な顔で犬飼を見上げてきた。
下手な名前は付けられない。
まるで、雑誌の売れ行きを左右するキャッチコピーのようである。
こういう時は、あれこれ考えるよりも、最初の直感で浮かんだものが良い。
「『黒天』・・・とか?」
犬飼が名をつぶやくと、イタチはその身から紅蓮の炎を立ち上らせた。
巻き付いていた紐が、その炎によって一瞬で焼き消える。
あまりに激しい炎に、犬飼はソファの背にへばりついた。
「犬飼、お前の直感は天賦の才だ。普通の人間なのが惜しい」
「・・・何が起こったんだ?」
「『瘴気』を自らの力で跳ね除けたのだ。身体が楽になったであろう?」
たしかに、あれほどの気だるさが何処かに行ってしまっている。
額を触ると、次第に熱が引いて行くのが分かるぐらいであった。
楽し気に微笑むカエデは、組んでいた腕を解いて、乗り出すようにテーブルに手をついた。
「犬飼、一つ頼みがある」
「断る!!」
「まだ何も言っていないぞ」
「アンタが言う事は、嫌な予感しかしない!!」
「そう言うな、聞くだけ聞いてくれ」
「・・・なんだ?」
「『黒天』を撫でさせてくれ」
「は・・・?」
カエデは、どこか酩酊したような面持ちで『黒天』を見つめている。
『黒天』が不安げにキッキッと鳴くと、恍惚とした溜息をついた。
「こう、魑魅魍魎に囲まれているとな、『黒天』のような小動物は希少なのだ」
カエデの瞳が、どこか春先の雪原のように輝いている。
先程の威圧感とは違う圧力を感じ、犬飼は思わずうなずいてしまった。
『黒天』もカエデを恐る恐る見上げていたが、紅蓮の炎をスゥっと消し去る。
すると、カエデは嬉々として『黒天』の艶やかな毛並みを優しく撫でた。
しばらく、微笑ましい光景が続いたが、突如、カエデは『黒天』に掴み掛かる。
何をする気だと、犬飼は焦燥の色を浮かべて構えたが、カエデは有らん限りの力で『黒天』を抱き締めると、頬ずりし始めた。
もはや昇天しそうなほど喜悦な表情を浮かべるカエデに対し、『黒天』は大慌てで暴れだす。
「・・・なんか、嫌がってるぞ」
「照れておるのだろう、可愛い奴だ」
まるで、嫌がる愛犬を無理矢理可愛がる子供のようであった。
おそらく、普段は滅多に見せないであろう姿を目の当たりにし、犬飼は何となく気恥ずかしく、了承したことを後悔する。
「可愛いなぁ、『黒天』」
「・・・とって食うなよ」
カエデが目を見開いて犬飼を見た。
あまりの驚きように、犬飼の方が驚く。
「なんか、おかしな事でも言ったか?」
「・・・いや。・・・お前、本当に『鬼喰らい』ではないのか?」
「『鬼喰らい』?」
「何でもない。本当に稀だが、お前のような奴が、世の中にはいるという事だ」
カエデは、急に『黒天』をテーブルの上に下ろした。
『黒天』も犬飼も、カエデの態度が一変した為、表情をうかがう。
先程の輝くような瞳は、再び薄氷の如く冷たくなっていた。
「お前は聡い。順応性も高くて観察力もある。そして何より、切り替えが早い」
「褒めても何も出ねぇぞ」
「『裏御前』様に気を付けろ」
「―――・・・『裏御前』?」
カエデは急に立ち上がると、まるで地を滑るかのような滑らかさで歩き出した。
「お、おい・・・」
「夢彦の事は、私の方で片を付ける。面倒を掛けたな」
「ち、ちょっと待て!」
犬飼は慌てて席を立つと、カエデの手を掴んだ。
カエデは、まるで敵を見るかのように、眼光鋭く睨みつける。
「そこまで送る。独りで行くな」
「必要ない」
「嫌な予感がする」
カエデが怪訝そうな表情を浮かべると、犬飼は真顔で声をひそめた。
「ここでアンタを独りで行かせたら、取り返しがつかなくなる気がする」
カエデは、外を横目で見やった。
窓の外は街の明かりが明滅し、雨垂れに揺らめいている。
「フッ・・・お前の感は当たるからな」
カエデの紅を指した唇が、三日月のように吊り上がった。
窓から見える東京は、小雨に晒されて色を無くしていたのであった。




