-空蝉の宴- 5-2
曇天から、小雨が間断なく降っている。
梅雨の明ける気配は、微塵も無い。
そんな中を、犬飼は傘も差さず、足早に歩いて行った。
「ケンさん、待ってくれ!」
夢彦の呼び掛けに答えず、犬飼は無言で歩き続ける。
その後を、夢彦は必死に追った。
「勝手に了承して、すまぬ!でも、どうしてもやりたかったのだ!!」
夢彦が叫ぶと、ようやく犬飼は立ち止まった。
ゆっくり振り返ると、眉間にシワを寄せて夢彦を見る。
夢彦は着物の下に着ている襦袢まで、ずぶ濡れだった。
色素の薄い髪が濡れそぼり、額や頬に掛かっている。
それを見て、犬飼は吹き出すように笑った。
「ま~ったく・・・売られた喧嘩、買いやがって」
「すまぬ、どうも昔からキレやすくてなぁ」
「ま、怒鳴らなかっただけ成長したな」
「ケンさんが怒鳴ってくれたから、怒鳴らずに済んだのだ」
夢彦はくつくつと笑うと、照れ臭そうに微笑んだ。
銀色の瞳が、雨粒のように煌めく。
「ありがとう、ケンさん・・・」
「ん?」
「かばってくれたではないか」
「かばってねぇよ。俺の感は、昔からよく当たるんだ」
「―――」
「絶対書き上げられる。俺がムカッ腹立ててんのは、お前じゃなくて水谷だ」
夢彦は、困ったような顔で笑った。
口元はそのままに、次第に瞳は悲哀の色に染まっていく。
「私の親友もな、私が白人みたいだとからかわれると、そうやって怒ってくれた」
懐かしそうに微笑む顔は、犬飼が今まで見た笑顔で一番穏やかだった。
しかし、急にうつむき、目元が今にも泣き出しそうに潤む。
「いつも助けてくれるのに・・・私は、いざという時、何もしてやれなかった・・・」
拳を強く握り、夢彦は歯を食いしばった。
鬼気迫る様子に、犬飼は息を呑む。
「何も聞かされず、いつの間にか、村を追い出されるように出て行ってしまって・・・」
夢彦は、水浸しの地面へと膝をついた。
両手を地面につき、指先が白くなるまで爪を立てる。
夢で見た異形の夢彦のように、鋭い眼光が瞳に宿った。
「こんな、何の役にも立てぬ自分が・・・・本当に嫌いなのだよ!!」
突然自らに怒声を浴びせる夢彦は、まるで怒り狂った獣が猛っているようであった。
しかし、今にも食い掛って来そうな気配は、すぐに鳴りを潜め、怒りに満ち満ちた瞳は、どこか凛とした輝きを見せる。
「ケンさんに会ってな・・・分かったのだ」
「―――」
「ぬるま湯に浸かっている自分を追い込む為に、私は・・・ココに来たのだ」
両手を地面につけたまま、夢彦は犬飼を見上げた。
天から降る雨が、涙のように頬を伝う。
しかし、その瞳には先程の怒りや悲しみといった色など微塵も無く、まるで敵に挑むかのように鋭かった。
「私はな・・・ケンさんみたいに、頼れる男になりたいのだ」
予想だにしなかった発言に犬飼が目を丸くすると、夢彦は赤面した。
急に慌てた様子で、自分の髪を引っ掴む。
「あ、アイツにな・・・お前は頼りになると、言わせたいのだ」
夢彦は耳まで真っ赤にして、挙動不審になった。
穴があったら、入って出てこなくなりそうである。
「わ、分かってる!女相手ならともかく、男にそう言わせたいとか・・・可笑しいと」
「いや、男なら尚更じゃね?」
「―――」
「さっきみたいに、同性に馬鹿にされんのが、一番ムカつくじゃねぇか」
夢彦は困惑の色を浮かべた。
犬飼は、そんな夢彦を見て、後ろ首を掻いて言葉を選ぶ。
「お前の親友にも、色々思う所があったんだろうが、ナメて掛かってるのは同じだろ」
「え、えっと・・・」
「次に会ったら、度肝抜かせるぐらいに、器のデカさを見せてやれ」
犬飼は、夢彦に手を差し出した。
夢彦は目を丸くして呆気に取られていたが、次第に、ひだまりのような笑みを浮かべる。
「ケンさんは、頼りになるなぁ」
「言っとくが、原稿はガチで自分だけで仕上げろよ」
「うむ、ケンさんにあそこまで言われたら、独りで書かぬワケにはいかんよ」
犬飼の手を取ると、夢彦は立ち上がった。
ちょうどその時、小雨がまばらになり、雲が割れて中天から光が差す。
夢彦の髪が、光を受けて絹のように艶やかに煌めいた。
少し小首をかしげて涼やかに微笑む姿は、雨粒を受けたアジサイのようであった。




