-空蝉の宴- 5-1
文芸部の編集室は、梅雨の湿気で蒸し暑くなっていた。
もう梅雨明けしても良い季節なのに、しつこい雨は毎日降り続いている。
そんな気候に負けないくらい、ジメジメとした溜息が室内に響いた。
「あぅ~・・・」
「水谷・・・お前、相っ変わらず校閲が遅ぇな」
「あのね~、ケンさん。大手新聞社出身の時間勝負な現場を潜り抜けて来た自分と、ボクを比べないでよ~」
「よく言う・・・もう五年目なんだろ?新人の伝ちゃんより遅ぇじゃねぇか」
「伝七郎君のテキパキさは、この出版社トップクラスでしょ~」
「そしてお前が、鈍くささと面倒くさがりで天下一だな」
「鈍くさいで言えば、夢彦君が一番でしょ。ボクは確かに遅いけど、とりあえず独りで何とか出来るしね~」
水谷の言葉に、犬飼はうなった。
今、犬飼の頭を悩ませている、非常に大きな問題だったからである。
夢彦は、もうココの出版社に来て一か月が経とうとしているのだが、未だに独りで原稿を仕上げられないのである。
書く内容を箇条書きにし、どのような順番で構成するかは、考える事は出来る。
だが、一連の文章にする段階で、手が止まってしまうのだった。
夢彦が言うには、言い回しを思いつく事が出来ないらしい。
普段の会話から、語彙力も知識も過剰というほど感じさせるのに、文に起こせない。
その為、犬飼が横で対話することで、書く内容を引き出してやらないといけなかった。
構成力は、ずば抜けて良い。
読者を引き付ける方法をよく分かっていた。
しかし、付きっきりでなければ、一文一文をひねり出すことが出来ない。
それが非常に不思議であった。
「それ、文才がないって事じゃないかな~」
水谷が、のんびりとした口調で言った。
あまりにストレートな物言いに、犬飼は不快感をあらわにする。
「向き不向きってものがあるんだし、ハッキリ言った方が、彼の為だと思うよ?」
「―――」
「もうすぐ給料が入るだろうし、それで帰った方が良いんじゃないかな~」
するとそこに、昼飯から戻った伝七郎と夢彦が現れた。
犬飼たちの話を聞いていたのか、夢彦は苦心しているような表情でコチラを見ている。
「夢さん・・・」
「あ、今の聞いてた?」
水谷が悪びれもなく言うと、いよいよ夢彦の顔に影がさした。
「夢彦君は、どう思ってるの?」
「おい、水谷」
「そもそも、とりあえず稼ぐ為に入ったんでしょ?」
「水谷!!」
「うるさいな~。彼の為にも、その辺りは明確にした方が親切じゃない?」
「俺は、コイツに才があると思ってる!!」
犬飼の言葉に、夢彦は目を見張った。
一方、水谷は犬飼の剣幕にも動じず、ぼんやりとした調子で聞き返す。
「なんで?」
「なんでもクソもあるかっ!あるっつったら、あるんだよ!!」
「ふ~ん・・・じゃあさ、試してみる?」
犬飼は、いぶかしげな目で水谷を見た。
すると、水谷は、のほほんとした笑みを浮かべる。
「実は、今度の雑誌に掲載する官能小説が、一枠空いてるんだよね」
水谷は、夢彦に挑戦的な笑みを投げ掛けた。
人を小馬鹿にしたような目付きに、夢彦の表情が明らかに凍る。
「その一枠を、夢彦君に任せるから書いてみてよ」
「―――」
「キミに才があるなら、書けるはずでしょ?」
すると、水谷は犬飼にもニッコリと笑顔を向けた。
賭博を持ち掛けるヤクザの方が、もう少し品があると思わせる笑みに、犬飼は眉間にシワを寄せる。
「怪奇物の官能小説なら、ケンさんも手伝えないだろうし、良い証明にならない?」
犬飼が睨みつけるように水谷を見ると、側にいた伝七郎が蒼白となった。
今にも掴みかかりそうな犬飼に、伝七郎が止めに入ろうとした、その時、
「うむ、かまわんぞ」
のんびりとフワフワとした調子で、夢彦が答えた。
殺伐とした空気が、一気に春のタンポポ畑のように平和になる。
「伝七郎から聞いて、楽しそうな企画だと思っていた。本当にやって良いのか?」
「イイよ。ボクも、残りの一枠を頼みに行かなくて済むしね」
水谷はニコニコと微笑んだ。
そして、上機嫌に右手を上げると財布を掴んで立ち上がる。
「やった~!枠が全部埋まった~。心置きなく、お昼ご飯を食べられるぞ~」
そう言うと、水谷は嬉々として編集室を後にした。
伝七郎が、心配そうに夢彦を見上げる。
「夢さん、大丈夫・・・?」
「何がだ?」
「だって、小説なんて書いた事ないでしょ?まして官能小説だよ?書けるの?本当に書ける?他の先生たちも言ってたけど、官能小説で怪奇物って何って感じじゃない?」
「歌舞伎や人形浄瑠璃も、妖物と男女の情事の取り合わせは王道であろう。そこまで、ひねくれた企画とは思わないが」
「え・・・えぇ?」
「確か、来週締め切りと言っておったな。それまでに、必ず仕上げてくるぞ」
夢彦が穏やかに笑うと、伝七郎も安堵したのか口元をほころばせた。
夢彦は振り返り、犬飼にも同じ笑みを向ける。
「ケンさん、そろそろ取材に行こう。私も、仕事が一つ増えたしな」
「―――」
犬飼は不機嫌な顔のまま、足早に編集室を後にした。
乱暴に閉めた扉の風圧で、原稿の山が危なげに揺れる。
夢彦は苦笑いを浮かべると、伝七郎に手を振って犬飼の後を追うのであった。




