-空蝉の宴- 4‐1
曼殊沙華が、ちらほらと咲いている。
見上げれば、重なり合った梢の先に、月もない澄みきった闇が広がっていた。
土が所々むき出しになっている石畳の道が、どこまでも続いている。
これは、夢だ。
犬飼は確信していた。
昔から夢を見ると、それが夢であるとハッキリと分かった。
人によっては、起きて初めて夢だったと気付く人もいるらしいが、必ず夢と分かる。
なぜなら、見る夢は必ず、モノクロの世界であるからだ。
サイレント映画のように音もなかった。
しかし、夢とは分かっているが、今見ている夢は、いつもと違う。
色があり、木々の擦れ合う微かな音さえ聞こえてくる。
これが、覚めるまで夢と気が付けない人間の感覚なのだろうか。
犬飼は、そんな事をぼんやりと考えた。
既視感を全く感じない風景の中を、犬飼はひたすら奥へ奥へと進んで行く。
普段であれば、自分の家であったり、会社であったり、馴染みのある場所の夢を見る。
なのに、まるで見たこともない場所であった。
しかし、恐怖心よりも、どうしようもない好奇心が勝り、止まる事を知らない。
そぞろに歩いて行くと、遠くにぼんやりと人影が見えた。
平安時代の文官のような着物を身にまとっている。
銀色に輝く髪は、地に届きそうなほど長い。
その幻想的な雰囲気に惹かれ、更に近付く。
しかし、ぼんやりとした輪郭がハッキリと見えだすと、犬飼は思わず足を止めた。
人ではない。
頭部に、尖った獣の耳が生えていた。
よく見れば、長い髪に紛れるように、白銀の尾がゆらりと揺れている。
―――独りに・・・しないでたもう・・・
消え入りそうな声で、『ソレ』は泣いていた。
あまりに悲痛な様子に、犬飼は声を掛けようと歩み寄る。
普通の人間なら血相を変えて逃げ帰るところだが、恐れ慄く心は行方不明になっているようだった。
ぱきり
小枝を踏み折る音が、やけに耳障りに響いた。
『ソレ』が、ハッと面を上げる。
シャラン・・・
髪飾りに付いている水琴鈴が、清らかな音を奏でた。
『ソレ』が、ゆっくりと振り返ると、絹糸のように艶やかな髪が、ゆらりと煌めく。
犬飼は息を呑んだ。
涙で泣き腫らした目が、憎らし気にコチラを睨んできたからだ。
そして、射殺すような眼光で一瞬分からなかったが、その異形のモノの正体に気付く。
「夢さん・・・?」
―――呼ンダナ
口元を吊り上がらせ、『ソレ』は手を伸ばしてきた。
しなやかな手が、犬飼の腕に掴みかかる。
すると、その体から青白い炎が燃え上がり、その灼熱の炎が体を焼いて来た。
逃れようともがくが、尋常じゃない力で掴まれている為、身動きすら取れない。
よく見れば、『ソレ』の髪が体中に巻き付き、ギリギリと締め上げてくる。
四肢がバラバラになりそうな痛みに、犬飼は悲鳴を上げた。
―――やめろ
低く、落ち着いた声音であった。
『ソレ』は目を見開くと、慌てた様子で犬飼から手を放す。
体中を締め上げていた髪がほどけると、犬飼は地面に崩れるように倒れ伏した。
煙の立ち上る全身に鞭打って、なんとか上体を起こす。
すると、『ソレ』の向こう側に、小さな人影が大岩の上に胡坐をかいているのが見て取れた。
小童だった。
仏僧が身に着ける袈裟を身にまとい、身の丈には大き過ぎる錫杖を肩に掛けている。
左耳に、蝉の翅を模した耳飾りが揺れていた。
前髪が長く、目元が隠れてしまっていて表情は分からない。
小童は横に顔を向けると、生温い風に髪を揺らしながら、声音に焦燥の色を浮かべてつぶやいた。
―――『鬼喰らい』共だ・・・
その言葉に、『ソレ』も淀んだ闇の向こうを凝視する。
ねっとりとした重苦しい気配が、ゆっくりと近づいて来ていた。
『ソレ』が駆け寄って手を広げると、小童は腰を上げて岩から飛び降りる。
すると、小童の姿は朧となり、一匹の紅い小さな虫へと変わった。
『ソレ』は、掌ですくい上げるように受け止め、左肩にちょこんと乗せる。
紅い虫はカタリと軋む音を上げ、犬飼に向き直った。
――― 戻れ・・・ココは、人の魂の来る所ではない
紅い虫は淡々とした口調で犬飼を諭すと、キリキリと音を上げ背を向けた。
それに対し、夢彦にソックリな『ソレ』は、腑に落ちないと言いたげに、冷たい眼差しで犬飼を睨み続ける。
――― お主を許さぬぞ・・・犬飼!
言うか否や、着物の袖を振り上げ、『ソレ』は白銀の狐へと姿を変えた。
獰猛そうな眼差しに射貫かれ、犬飼は硬直する。
その鋭利な牙に青白い炎を揺らめかせると、狐は常闇の森を切り裂くように駆けて行ったのだった。




