-蛇落の褥- 1-3
座席が濡れていた為、幹久たちは、奥から一つ手前の席に座る事になった。
アヤメと男性が並んで座り、幹久が対面に座る。
幹久が恐る恐るアヤメを見ると、アヤメは控えめに微笑んだ。
機嫌が良い顔に安心し、幹久は肩をなでおろしてホッと息をつく。
そんな幹久を尻目に、アヤメは楽し気に微笑みながら、男性の肩を軽くつついた。
「もう自己紹介したの?」
「いや、丁度キミが来たからしていない」
「あ、じゃあ・・・まだ、お楽しみは残ってるってワケね」
「良かった。食い尽くしてたら叩かれるところだった」
アヤメは、男性にニンマリと微笑んだ。
姉のあまりに親しみのある態度に、まさか、この男性は恋人だろうかと、幹久は思う。
ただ、そんな事を聞いて間違っていたら、命が無いかもしれない。
黙秘しようと、幹久は心に強く決めた。
ところが、そんな幹久の気持ちなどつゆ知らず、アヤメは、どこか優越に浸った顔で問い掛ける。
「幹久。彼、誰だか分かる?」
「分からないよ」
「即答しないで、少しは考えなさいよ」
「・・・映画俳優?」
「メディアに顔は出していません」
幹久は、驚きの眼差しで男性を見やった。
ここまで整った容姿で、公に顔を出してないなんて、宇治拾遺物語より不可思議である。
しかし、幹久の驚いた顔にきょとんとしながらも、ふんわりとした雰囲気を崩さず、男性は笑みを絶やさない。
ますます眉間にシワを寄せる幹久に、アヤメは満足げに微笑んだ。
「アナタの知ってる人よ」
「え、僕が?」
「そう」
「・・・ヒントくれる?」
「アナタが大層大事に、カバンに忍ばせているじゃない」
「カバン・・・?」
幹久が、アッという顔をすると、アヤメの目元がニンマリとした曲線を描いた。
それと同時に、幹久の手が震える。
「『吉原奇譚』シリーズを手掛けてる『泉 夢彦』先生です」
「―――」
「―――」
「・・・うそ」
「このタイミングで、嘘をついてどうするの」
幹久は眉間にシワを寄せて、本当ですか、と男性に視線を送った。
すると、男性は楽しそうに笑いながら、ゆっくりとうなずく。
「はじめまして、幹久君」
「は、はじめまして、泉・・・先生・・・」
「夢彦の方で呼んでいいよ。コッチは本名なんだ」
官能小説の筆者名に本名!?
さっきの女給の一件よりもショッキングだと、幹久は腰を浮かせた。
その反応に満足したらしく、アヤメはニヤニヤとしながら幹久を見る。
「夢彦さんには、担当してる雑誌でコラムを書いていただいてるの。アナタの事を話したら会って下さると言うので、来ていただいたわ」
「担当してたの!?」
「えぇ、入社当初から」
それはつまり、もう二年ぐらいは黙ってたという事であった。
なんという長期計画だと、幹久は愕然とする。
「で、でも職権乱用じゃないかっ!」
「夢彦さんが会いたいって言うんですから、私ではなく、夢彦さんが職権乱用です」
「なんで、僕なんかに」
幹久が夢彦に視線を向けると、ひだまりのような笑顔を浮かべて来た。
その笑顔に毒気を抜かれ、幹久は、声を荒げたことが恥ずかしくなる。
「私は田舎から出てきたものだから、東京に学生の知り合いがいなくてね。もし良かったら、学校の事とか聞かせて欲しいんだ」
「要は、作品の制作にあたって、東京の学校の実状を取材したいって事よ」
幹久は、今まで以上に困惑した表情を浮かべた。
自分は色々と精神的にも問題を抱えており、標準的な学生ではない。
果たして期待に応えられるのか、まったく自信がなかった。
そんな幹久の心境を察したのか、アヤメは芯のあるキラリとした瞳で、幹久に微笑む。
「あと、私からもアナタに頼みたい事があるの」
「頼み?」
「うちの部で、最近退職してしまった人がいて人手不足なの。手伝って下さらない?」
「何を?」
「まぁ、ちょっとした雑用とか、原稿を受け取りに行くとか?」
「なんで疑問形・・・?」
「お金も払うし、学業に支障が出ないように配慮するから、ねぇ?」
「でも・・・」
「夢彦さんの原稿、いち早く見られるわよ」
「う・・・」
あまりに嬉し過ぎる特権に、幹久の心が揺れた。
しかし、話の内容に違和感を感じ、幹久は怪訝な表情でアヤメに問いただす。
「もしかして、ソッチが本題?」
「・・・はい?」
「僕に出版社の手伝いを了承させる為に、夢彦さんを連れて来たんじゃないの?」
「え、えぇ?・・・そんな事、ありませんわ」
幹久の的確な推理に、アヤメは視線を反らした。
図星だったと確信した幹久は、職権乱用はなはだしいと、大きく溜息をつく。
幹久が申し訳ない気持ちで夢彦を見やると、夢彦はアヤメの失態に吹き出して笑っていた。
そんな夢彦をアヤメは肘で小突き、しどろもどろとしながら、幹久に逆ギレする。
「じゃ、じゃあ、なんですの?手伝っていただけないのかしら?」
「そうは言ってないけど」
「え、本当!?」
アヤメは、嬉しそうに身を乗り出し、瞳を一番星のようにキラキラとさせた。
この瞳と詰めの甘さが、彼女の最大の武器だと、幹久は苦笑する。
「だって・・・ここで断ったら、夢彦さんの面目が立たないでしょ?」
「うんうん、そうよねぇ」
「少しは反省してよ・・・」
「二人とも、ありがとう」
アヤメは、わざとらしい笑顔でニッコリと微笑んだ。
幹久は苦々しい笑みを夢彦に向けたが、夢彦は至って穏やかに微笑む。
春の陽ざしのような暖かい笑顔に、幹久の波風立った心は、自然と落ち着いていったのだった。