-蛇落の褥- 8-3
――大正十二年 九月一日
神奈川県、東京府を中心とする関東全域で、大規模な地震が発生した。
南から吹き込んだ強風の為、木造住宅が密集している都心では、火災が広範囲に発生し、多くの人々が亡くなったのである。
交通、通信網は遮断され、大手新聞社も一社を除いて社屋が消失してしまい、情報も錯綜。
あちこちでデマが発生し、都心の治安は著しく悪くなったのだった。
それから四年――――
夢彦とアヤメは結婚し、宝条家の軽井沢の別荘に一緒に住んでいた。
関東大震災で、宝条家の屋敷は半壊程度で済み、運よく怪我人も出なかったのだが、東京の治安の悪さに、アヤメの父親が移り住むように打診したのである。
当時、アヤメは身籠っており、交通網が混乱状態の時期に引っ越すのは大変であった。
しかし、無事に出産にこぎつけ、今は親子三人、豊かな自然に囲まれて生活している。
「夢彦さん」
名前を呼ばれて夢彦が振り向くと、アヤメが書斎の戸口に立っていた。
今日は深藍色のワンピースを身にまとっている。
何年経っても色あせないアヤメに、夢彦は思わず見とれる。
「原稿、終わりましたかしら?」
「あぁ、ちょうどキリがついたところだよ」
夢彦は原稿用紙の束を持ち上げ、綺麗に整えながら微笑んだ。
その笑顔に、アヤメが穏やかに微笑み掛ける。
「いつ、持ち込まれますの?」
「明日、東京に持って行く。その足で、打ち合わせの為に何軒か、はしごして・・・帰るのは三日後かな」
「はぁ・・・東京に戻れれば、こんな風に苦労しませんのに」
溜息をつくアヤメに、夢彦は口元に人差し指を立てた。
夢彦のしぐさに、アヤメは慌てて辺りをうかがう。
「薫が東京に馴染めなくても良いではないか」
「悪いとは言ってません。でも、アナタが仕事に差し支えません?」
「自然に囲まれてた方が、今の作風に合っておるから良いのだよ」
現在、夢彦は陸の孤島のような村を舞台にしたミステリー作品を手掛けていた。
他にも、郷土文化に関する記事や絵本の文章など、様々な分野に手を広げており、軽井沢の自然や文化は、それらの役に立っていたのである。
しかし、それでもアヤメの溜息は止まらなかった。
「あの出版社が廃業してしまうなんて、思いもしませんでしたわ・・・」
『吉原奇譚』を出していた出版社は、関東大震災で被災し、廃業してしまったのだった。
おかげで、『吉原奇譚』シリーズは『蛇落の褥』を最後に、打ち切りという形で幕を引いたのある。
残念そうに溜息をつくアヤメに、夢彦はふんわりとした笑みを浮かべた。
「まぁ、今後、薫に私の作品がどんなものか、知られるであろうし」
「・・・そうね。幹久みたいに、十二歳で官能小説に手を出されたら困りますわ」
「ほぉ。苦手と言いながら、幹久君はませとったのだなぁ」
「作者に罪はありませんが、その官能小説を書いたのは、アナタなんですのよ?」
アヤメが作り物のような笑みを浮かべると、夢彦は目元を引きつらせて苦笑いした。
自分が勧めたワケではないのにと、内心、腑に落ちない。
「薫に、二の舞を踏ませないで下さいましね?」
「う、うむ・・・」
「机の引き出しに鍵をかけてしまってるくらいでは、絶対に見つかりますわよ?」
夢彦が目を丸くしてアヤメを見つめると、アヤメは大きく溜息をついた。
隠してるつもりかという視線に、夢彦は心をえぐられる。
「それはともかく、薫を呼んで来て下さいます?もう、お昼御飯にしたいので」
夢彦が時計に視線を向けると、いつの間にか、午後二時になろうとしていた。
もうこんな時間かと眺めていると、アヤメは溜息をつく。
「アナタといい、薫といい・・・何故そんなに食を忘れられるのですか」
「アヤメさんがいると、食べそこねる心配が無いからかな」
「私がいないと、そのまま忘れるじゃないですか!」
夢彦が苦笑いを浮かべると、アヤメは腕を組んで頬を膨らませた。
本当に可愛い人だと思いながらも、夢彦は、その言葉を飲み込む。
からかい過ぎて口をきいてくれなくなっては、飯が喉を通らなくなりそうであった。
アヤメは溜息交じりに笑みを浮かべると、台所へと歩いて行った。
「お~い、薫~」
夢彦が隣の薫の部屋へ行くと、画用紙に描かれた動物の絵が散乱していた。
パステルも水彩絵の具も派手にぶちまけてあり、何一つ箱の中に納まっていない。
真っ赤な絵の具で描き殴った紙が、ぐしゃぐしゃに丸められて放り投げてあった。
「あとで、相当怒られるであろうな・・・」
縁側から庭を見渡しても、薫の姿は見当たらなかった。
夢彦は小首をかしげると、草履をはいて庭に出る。
すると、所々、落ち葉をかき集めて持って行ったような跡があり、庭の奥の方に視線をやると、落ち葉が不自然に川のように落ちていた。
それを辿って、紅葉した木々の下を木漏れ日を浴びながら進んで行くと、少し開けた場所に出る。
「お、居た」
鮮やかな赤で埋め尽くされた中心に、かやぶき色の髪をした少年が立っていた。
薫はホウキを片手に持ち、天を仰いでいる。
背を向けていた為、その表情は見て取れなかったが、何者も寄せ付けぬ気迫を、夢彦は感じ取った。
私も筆をとっている時は、こんな感じなのか
夢彦がしみじみと思っていると、不意に、薫はホウキを両手に持って構え、地面に激しく突き立てた。
大きく薙ぎ払うと、周りの紅いモミジが宙を舞う。
そして、飛び上がってホウキをくるりと回転させた薫は、狂喜したかのように笑い出した。
鋭い瞳が、ゆらりと紅く染まっている。
秋の陽光に、その血潮が沸き立っている。
囚とらわれている。
目の前に広がる何かが、薫を捕らえて離さないようであった。
その有様に、夢彦は鳥肌が立つ。
刹那、薫は激しく両腕を振り上げ、画竜点睛を叩きつけた。
水しぶきのように、落ち葉が爆ぜる。
風が凪いだ。
薫の呼吸音だけが、辺りに響いている。
まだ四歳だというのに、大人びた精悍な面持ちであった。
薫は額の汗をぬぐうと、今しがた気が付いたというように、夢彦を見る。
先程とは打って変わって、キラキラと目を輝かせると、年相応の笑顔で、夢彦に向かって走り寄った。
そして、引き倒しそうな勢いで、夢彦の腕にしがみつく。
「みてたの?」
「うん、何を描いていたんだい?」
「おじさん」
「おじさん?幹久くん?」
「ううん。おっきいひと」
「あぁ、恭一郎か」
「おっきいから、画用紙、たりなかったんだよ」
「そうだね、六尺近くあるから」
薫は、ニコニコ微笑む夢彦をジッと見つめた。
何か言いたげな眼差しに、夢彦は穏やかな笑みで首をかしげる。
「何だい?」
「ううん、なんでもない。ボク、みえてないよ」
「みえてない?」
薫は口を抑えると、慌てたように首を振った。
何か隠しているのが丸分かりなのが可愛らしく、夢彦の目尻が更に下がる。
「ダメ、おじさんがヒミツだって」
「恭一郎が?」
「あぁ・・・え・・・あぅ・・・」
「言わなくていいよ。秘密はバラしちゃダメだからね」
「・・・へ?」
「誰だって、秘密を持つ権利がある。誰かとの約束なら尚更だよ」
薫はポカンとした顔で、夢彦を見た。
夢彦は、くつくつと煮えるような声を上げて笑い出す。
すると、薫も夢彦につられて、屈託なく笑った。
「あ、そうだ。母さんが呼んでいるよ」
「かあさんが?」
「もうご飯だって」
「・・・あぁっ!!!」
薫は、落ち着きなく視線を泳がすと、頭を抱えて蒼ざめた。
無理もないと、夢彦は苦笑いを浮かべる。
「一緒に謝ってあげるから、帰ろう?」
「・・うん」
「大丈夫、いつもよりは怒ってないよ」
薫も苦笑いを浮かべると、ホウキの柄を肩に担いで一緒に歩き出した。
しかし、すぐに足を止め、地面に描き殴った絵をジッと眺める。
すると、にわかに風が吹き荒れ、一瞬で落ち葉をさらっていった。
「あ・・・」
先程の絵は、まるで何も無かったかのように、跡形もなく消え失せた。
薫は、呆然と絵のあった所を眺めると、聞こえるか聞こえないかという程の小さな声で、ポツリとつぶやく。
「また、くる?」
「あぁ」
「いつ?」
「う~ん・・・いつかなぁ」
「いま!」
「い、今・・・?」
「また、おえかきする!!」
ホウキを担ぎ直し、薫は踊るように駆け出した。
清々しい秋風が、辺りに吹き抜ける。
そんな薫の後姿を見ながら、夢彦は密かに吹き出して笑った。
本当に、今すぐ来てくれそうな気がしたのだった。




