-蛇落の褥- 8-1
暦は早くも師走に入っていた。
そろそろ初雪が降ってもおかしくない頃である。
空は曇天。
鉛色の空を仰あおげば、白い息が上のぼっていく。
幹久は総合病院に入ると、外科の病棟に向かった。
受付の看護婦が、幹久を見てニッコリと微笑む。
幹久も控えめに微笑み返し、軽く会釈して通り過ぎた。
コン コン
幹久が病室の扉をノックすると、はい、と短く返事が返って来た。
しかし、幹久は開ける勇気が沸かず、しばらく黙り込んで立ち尽くす。
そして、恐る恐る扉を開けると、寝台にいる恭一郎が、怪訝そうな顔で幹久を見つめた。
「おい・・・その猛獣の檻にでも入るような態度、いい加減やめろ」
「す、すみません・・」
幹久は病室に入ると、カバンから本を取り出し、恭一郎に渡した。
『吉原奇譚』の最新刊『蛇落の褥』
そのタイトルが目に入ると、恭一郎は驚いた顔で幹久を見やった。
「この前、雑誌に載ったばかりなのに、もう発売するのか」
「今さっき製本したばかりで、まだ発売していません」
おぉ、と聞こえないほどの小さな声で、恭一郎は感嘆の声を上げた。
それを聞いて、幹久は少し安堵する。
「ちょうど良かった。もう全部読み終わったからな」
「えぇ!?あの量を、もう読んだんですか!?」
「いかんせん、入院してると、他にやる事がない」
「で、でも、左目が失明してるのに・・」
「本を読むには問題ない。歩くとか、物を取る時に距離感が取りづらいが・・・それも、慣れた」
「あぁ・・・すみません」
謝った途端、幹久は恭一郎に睨みつけられた。
アヤメの数十倍怖い形相に、幹久は小さく悲鳴を上げる。
「目の事は、もう再三、謝ってもらったし、お前の親父さんとも賠償に関して話がついてるんだ。これ以上、しつこく謝るな」
「は、はい・・・」
「次、謝ったら、お前の左目をもらうぞ」
本気でやられそうだと、幹久は背筋に冷たいものを感じた。
ところが、幹久が、ぎこちなく小さくうなずくと、恭一郎は急に含むように笑う。
「まぁ、夢彦みたいに、喜ばれても困るけどな」
恭一郎は、寝台の横にある棚に目をやった。
その視線を追うと、一通の封筒が、幹久の目にとまる。
「診断書を送ったら、第二国民に認定された」
第二国民は、徴兵されるには条件を満たせていない国民を指す。
つまり、恭一郎は除隊しなければならないという事であった。
幹久が、どう言葉を返せばいいか、考えあぐねていると、恭一郎は溜息をつきつつ、おかしそうに笑った。
「夢彦の奴、文字通り手を上げて喜びやがって・・・思いきり、はたいてやった」
「夢彦さんらしい・・・」
「ま、それが良いところでもあるんだが」
恭一郎は、苦笑いを浮かべながらも、楽しそうに微笑んだ。
そんな恭一郎に、幹久も思わずつられて微笑む。
「あの・・・恭一郎さん」
「ん?」
「本当に・・・ありがとうございました」
恭一郎は、再び不機嫌そうな顔をした。
鋭い視線に呑まれないよう、幹久は自分を鼓舞する。
「あの人を見つけた時・・・絶対に殺す・・・それしか、考えていませんでした」
恭一郎の射るような視線を、幹久はジッと見つめた。
震える手を握り締め、落ち着こうと深く息をつく。
「でも、恭一郎さんが傷付く姿を見て、思い知らされました。僕が、やろうとしていた事は・・・こんなに、酷い事なんだと」
幹久は額に手を当て、なるべく感情を抑えようと努めた。
しかし、思いとは裏腹に、目の前が涙でにじんでいく。
「人の死で・・・自分が変われるなんて、勘違いだった」
喉が引きつって、腫れているかのように、幹久は苦しくなった。
自分の前髪をむしるように掴んで、叫びそうな衝動を抑える。
「僕・・・人を殺さなくて、本当に良かったです」
幹久は、遂にこらえ切れなくなり、涙をボロボロとあふれさせた。
そんな幹久を見て、恭一郎は幹久の肩を軽く叩く。
すると、張り詰めてたものが切れてしまったらしく、幹久は余計に涙が止まらなくなった。
「・・・まったく、俺の周りには男らしい奴が一人もいないな」
「うぅ、すみません・・・」
「そういえば、あの男の事、聞いたか?」
恭一郎の瞳に、暗い影が落ちた。
その悲痛な様子に、幹久は、思わず息を呑む。
「・・・えっと・・急に大通りに駆け出して、電車にひかれた事は・・」
「助からなかったらしいな」
「はい・・・内臓の損傷が激しかったようで、手術の甲斐なく・・・」
「下手に延命するより・・・即死の方が楽だったろうに」
恭一郎が、手元の『蛇落の褥』に視線を落とした。
その眼には、何か悔やむような悲哀の色が浮かんでいて、幹久は胸を鷲掴まれるような思いに駆られる。
幹久が押し黙って見つめていると、視線に気が付いたのか、恭一郎は顔を上げて小首をかしげる。
「どうした?」
「いえ、延命して助かった恭一郎さんに、何と言ったら良いかと・・・」
「お前、気づかい過ぎ・・・このくらいを死にかけたとは言わない」
ここまで満身創痍になって、死にかけと言わずに何と言うのだろうか・・・。
恭一郎の常軌を逸した感覚に、幹久は絶句した。
そんな幹久を尻目に、恭一郎は手元に視線を落とすと、『蛇落の褥』の最初の方をパラパラと流し読みし始める。
ふと、手を止めると真剣に文字を追い、かすかに笑ってつぶやいた。
「『虚』が出てる・・」
幹久は思わず、寝台に両手をついて身を乗り出した。
突然色めき立った幹久に、恭一郎が珍しくギョッとした顔でのけぞる。
「そうなんです!『空蝉の宴』以来出てこなかったんですけど、四年ぶりに再登場したんです!他の『あやかし』は別の話でもよく出てくるんですが、『虚』だけがずっと不在だったんで、すごく興奮しました!!」
目の色を変えて話す幹久を、恭一郎は静かにジッと見つめた。
すると幹久は、学校で自分から喋りかけた時の、同級生の奇異なモノを見る顔を思い出す。
調子に乗り過ぎたと思い、急に恥ずかしくなって、幹久は赤面した。
「あ・・・えっと・・・すみません」
「何がだ?」
「うるさいし・・・こんな熱弁して、気持ち悪いですよね・・・?」
「別に。そう思うのが、普通なのか?」
恭一郎は、きょとんとした顔で、幹久を見つめ返した。
普通なのかと問われ、幹久は、言葉に詰まった。
ここで普通だと言えば、恭一郎を逆に変人扱いする事になる。
また、学校では普通でも、立場や環境の違う相手に、安易にそうだと言えるものだろうか。
眉間にシワを寄せて真剣に考え始めた幹久に、恭一郎は困ったように笑い掛けた。
「夢彦のウンチクを聞き慣れてる俺の方が、普通じゃないかもしれないな」
「い、いえ・・・そんな事・・・・」
「夢彦が言ってたが、本当に『吉原奇譚』が好きなんだな」
「あ、はい・・・一作目が、特に好きで」
恭一郎は急に口元を吊り上げ、含み笑いをした。
そして、馬鹿にするというより、照れくさそうな口調で言い出す。
「あんな奴の話が好きなんて、たで食う虫も好き好きだな」
「大半の読者の間で、『虚』は精神異常者扱いらしいですけど、僕は・・・ちょっと違うかと」
「人を殺して、嘲笑するような奴なのに?」
「『笑っている』と書かれていますが、嘲笑では無いんじゃないでしょうか?」
「―――?」
「不本意だからこそ・・・笑うしか、無いんじゃないでしょうか?」
恭一郎は、目を見開いて幹久を見つめ、声にならないくらいに笑い出した。
幹久が驚いた表情を浮かべると、肩を軽く叩く。
「悪い、気にしないでくれ」
そう言うと、恭一郎は手に持った『蛇落の褥』の冒頭を読み始めた。
ほんの少し、口元に笑みをたたえたまま。




