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灰色帝都の紅い死鬼  作者: 平田やすひろ
蛇落の褥
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-蛇落の褥- 1-2

 ――喫茶『ハルジヲン』



 幹久は、姉の勤め先近くの喫茶店に到着した。


 店内には、流行りのジャズソングが静かに流れている。


 柱や窓枠はダークブラウンで統一され、白い漆喰(しっくい)壁とのコントラストが美しかった。


 所々にあしらわれたステンドグラスやシャンデリアが、前衛的でありながら上品な和洋折衷を演出している。


 姉が好きそうな雰囲気だと、幹久は店内を見回した。



 しかし、当の本人は、まだ来ていない。


 仕事が立て込んでいるのだろうかと、幹久は窓の外を見やった。



 幹久の姉は、女性誌の編集者であった。


 流行り物が大好きで、女学校を卒業したら絶対に女性誌を作ると言って、見合い話を全て断って就職してしまったのである。


 その為、父も母も嫁に行き遅れると、(いま)だに心配していた。




 ――まだ十八の、うら若き乙女ですわ




 そう言うが、今月の誕生日で、もう十九になる。


 女学校時代の友達は既に結婚して、子供までいるらしい。


 そろそろ、危ういのではないか・・・。


 容姿は問題ないだろうが、あの大胆で刹那(せつな)主義の性格では、相手は菩薩(ぼさつ)くらいの寛容な心の持ち主でもない限り、難しいだろう。



 それが、幹久の本音であった。



「う・・・」



 そんな事を考えながら、入口の方をチラチラと見ていると、レジの前にいる女給と目が合った。


 あちらも、幹久の挙動不審が気になるらしく、チラチラと様子をうかがっている。


 何度も目が合っては気まずいと、幹久はカバンから小説を取り出して読むことにした。



 『吉原(よしわら)奇譚(きたん) 空蝉(うつせみ)(うたげ)



 華族の放蕩(ほうとう)息子が、浅草にある遊郭街『吉原(よしわら)』と、もう一つの世界である『(うら)吉原(よしわら)』を行き来し、怪事件を解決するミステリー作品である。


『裏吉原』の住人である『あやかし』たちは、個性的でありながら、まるで本当に存在するのではないかと思わせる位に人間臭く、親近感があった。


 また、予想だにしなかった逆転劇が繰り広げられながらも、繊細な情景描写、登場人物たちの機微に富んだやり取りが、とても魅力的な作品だと、幹久は評価している。


 ただ一つ、難を言えば、『官能小説』という点であった。


 これだけミステリー作品としてクオリティの高い作品であるのに、『そういう事』がメインなのである。


 正直、幹久にとって、そこだけが、非常に辛かった。


 なぜなら、『そういう事』が本当に苦手だったからである。


 読み飛ばしてしまいたかったが、悲しいかな、『そういう事』の中にも(たく)みに伏線を引いてくるので、後々の展開の為には、読み込まないといけなかった。


 そして、伏線を確認する為に、また戻って読まされるという、魔のサイクルを繰り返すのである。




『空蝉の宴』は、まだマシな方だけど・・・




 幹久は、小説のタイトルを眺めると、大きく溜息をついた。


 この『吉原奇譚』はシリーズもので、『空蝉の宴』は第一作目であり、作者の処女作なのである。


 まだ何処か文章に(つたな)さがあり、気合を入れなくても、どうにか読めた。


 だが、この後が、どんどんキツくなっていくのである。


 とても、こういう場所では読めない作品となっていき、より暴力的で過激な性描写が展開された。



 それでも、読まずにはいられない。



 その過激さに絶望する一方、幹久は、このシリーズを信仰とも言えるくらいに愛読していた。


 どんなに鬱屈(うっくつ)した日でも、主人公が『裏吉原』に――享楽と煩悩(ぼんのう)の世界に連れ出してくれるのである。


 辛いのは自分だけじゃないと慰められ、涙と共に心が洗い流されていくのだった。




 本当に、どうして官能小説として出されているんだろう・・・


 ブックカバーをしてても、横から見られているかもと思うと恥ずかしいよ・・・




 実のところ、幹久は、こういった公衆の場に、この小説を持って来たいワケではなかった。


 しかし、所持してないと非常に不安な気持ちになってしまい、一日落ち着かなくなるのである。


 こういった人の多い場所では、読まないとパニックを起こす事もあった。


 世間的には有害図書でも、幹久にとっては護身符(ごしんぷ)か写経を持ち歩くようなものなのである。


 ただ、それを胸を張って言えるほど、世間ずれしていない羞恥心は健在という、複雑な精神状態だから救いようがなかった。



「お待たせいたしました。コーヒーでございます」



「うわぁ!!」



 すぐ側まで来ていた女給に気が付かず、幹久は驚いて声を上げた。




 ガチャン




 甲高い食器の音が響き、黒い液体が幹久の(ひざ)に盛大に掛かる。



「も、申し訳ございません!今、お()きいたします」



「えっ!?・・・いや、ちょっと待ってっ・・・」



 女給は、エプロンのポケットから布巾を取り出して、幹久の膝に手を添えた。


 同時に、幹久は恐ろしいものを見たかのように、目元を引きつらせる。



 ぐらり、と幹久の体が揺れた。


 目の前が真っ暗になり、何も聞こえなくなる。





 ――くるしい






 呼吸が浅くなり、乱れていく。




 ダメだ、落ち着け。




 幹久は、大きく息を吸い込んだ。


 きつく目をつむり、視界を遮断する。


 遠のいていく意識を手繰り寄せ、迫ってくる重圧を払いのけようと手を伸ばした。




 ガタンッ




 不意に、重い物が床に落ちる音がする。


 ふと、幹久が我に返ると、女給が(おび)えた目で座り込んでいた。


 自分の手に軽い痛みを感じて、幹久は、無意識に彼女を突き飛ばしたと気付く。




「・・・ぁ、あの、すみません!・・・わ、ワザとじゃないんです!!」




 手を差し伸べたかったが、幹久は、体がこわばって動けなかった。


 かなり強く突き飛ばしたのか、女給は蛇に(にら)まれた蛙のような顔をしている。


 幹久がパニックに陥ってると、横から細くて白い手が、女給にスッと差し伸べられた。



「大丈夫?」



 落ち着いた、優しい声。


 その声の印象に違わぬ、線の細い男性が目の前に立っていた。


 黒髪交じりの白髪が、シャンデリアからの光を受けて絹糸のように輝いている。



 男性の顔を見て、幹久はハッとした。



 壮年の男性かと思ったら、自分より少し年上ぐらいであった。


 絵に描いたような整った顔立ちで、容姿端麗。


 そして、何より驚いたのは、その瞳の色であった。



 ―――銀色



 父の仕事の関係で、海外からの客人を見かける機会の多い幹久であったが、初めて見る色合いに釘付けになった。


 髪の色も相まって、幻想的な雰囲気を醸し出している。


 『色男』『美人』なんて言葉じゃ俗っぽい。


 『綺麗な人』という言葉が似合うと、幹久は感動の眼差しで、男性を見つめた。



 手を差し出された女給も言葉を失っており、男性は少し困ったように笑い出す。



「横から出てきちゃ、まずかったかな?」



「「い、いえ!」」



 幹久と女給は、同時に同じ返事をした。



 幹久は赤面し、女給も恥ずかしかったのか、急いでテーブルと床を拭く。



「新しいコーヒーをお持ちしますっ」



 しどろもどろに言うと、女給はカップを持って裏方に戻った。


 慌てふためく二人を見て、男性は控えめに吹き出す。



「お、お騒がせして、すみません・・・ありがとうございますっ」



「制服、拭かなくて大丈夫?」



「え?・・・あぁ、シミになるっ!」



 幹久は、慌てて手元にあった布巾で水気を拭き取った。


 その慌てぶりに、男性は、どこか慈悲深い眼差しで微笑を浮かべる。



「キミ、幹久君だよね?」



「・・・へ?」



 思いがけず名前を呼ばれて、幹久は間の抜けた返事をした。


 しかし、そんな事は気にならなかったのか、男性は穏やかに口元をほころばせる。


 幹久は、頭がこんがらがった状態で、かなり勇気を振りしぼって男性に尋ねた。



「あ、あの・・・な、なんで僕の名前を知っているのですか?」



「え?」



 男性も思いがけない返事だったのか、戸惑いの色を浮かべた。


 しかし、それは一瞬の事で、苦笑いをにじませながら楽し気につぶやく。



「しまった。怒られるなぁ」



「怒られる?」



 くつくつと、湯が静かに沸騰しているかのような、独特の含み笑いを男性は浮かべた。


 すると、威勢よくカフェの扉が開き、甲高いベルの音が警報のように鳴り響く。


 幹久と男性も含め、店内の全員が、入口へと視線を向けた。



「ごめんなさい、幹久!!遅くなりました・・・わ」



「あ、姉さん・・・」



 真っ赤なワンピースの(すそ)を持ち上げると、幹久の姉は素早い足取りで向かって来た。


 そして、幹久の側にいる男性の前に立ちはだかると、ふくれっ面で睨みつける。



「なんで、幹久に声を掛けているのかしら?」



「すまない、アヤメさん。なんだか困っていたから、助け船を出してしまった」



「助け船?」



「幹久君が、女給さんを突き飛ばしてしまってね。困っていたんだ」



「突き飛ばした!?」



 幹久の姉――アヤメは、鬼の形相で幹久を睨みつけた。


 閻魔(えんま)大王も委縮しそうな顔に、その場にいる全員が凍り付く。



「落ち着いて、アヤメさん。女給さんが、こぼしたコーヒーを拭こうと、幹久君に触れてしまったのだよ」



「・・・あぁ」



 男性の弁解を聞いて、アヤメはガックリとした表情で幹久を見やった。


 あまりに気まずくて、幹久は視線をそらす。



「そのくらいも、アウトなのですか?」



「ご、ごめんなさい」



「はぁ~・・・」



 あまりに深い溜息に、幹久は更に縮こまった。


 それを見かねて、男性はアヤメの肩を優しく叩く。



「とりあえず、飯でも頼もう。アヤメさん」



「そうですわね・・・」



 男性は、幹久にも菩薩のように穏やかな笑みを投げ掛けた。


 地獄で仏とはこの事だと、幹久は、しみじみ思うのだった。

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