-蛇落の褥- 4-5
辺りは真っ暗で、景色と呼べるものがなかった。
そもそも、天地と呼べるものがあるのかどうか、それすら分からない。
意識はあるものの、恭一郎は自分の体を見ようとしても、かざす腕の感覚も、踏み出す足の感覚もなかった。
あの砕けた蝉の抜け殻のように、バラバラになってしまったのではないかと不安がよぎる。
すると、闇の中に、紅い一点が目についた。
血の色をした蝉の幼虫が、足元かも分からない暗闇をゆっくり進んでいる。
いや、幼虫じゃない・・・
目の前の紅いモノは、殻であった。
ただ、普通の抜け殻と違い、背中は割れておらず、水のようなモノが入っているのか、歩くたびに水面が揺れている。
目で追って行くと、遠くに何十匹という大群が寄り集まっており、恭一郎はおぞましものを見たかのように、息を呑んだ。
・・・!
その中心に、何やら白い影が浮かんでいる。
ゆっくりと近づくと、見間違えようがない顔に、恭一郎は肝を潰した。
「夢・・・彦・・・?」
紅い空蝉と戯れる夢彦は、恭一郎の方へと視線を向けると口元をほころばせた。
しかし、いつもの温和な笑顔ではなく、夕刻に見せた射るような鋭い眼光が、その瞳に宿っている。
「夢彦・・・なんで、お前がココに・・・」
「これでもう、心配いらんな」
「・・・え?」
「お前の親父さんなら死んだぞ。殺してやった」
嬉々とした笑顔に、恭一郎は寒気を覚えた。
まさか、この紅い空蝉たちを襲わせたのは、お前なのか?
そう問いただしたくても上手く呼吸が出来ず、言葉を呑み込む。
「どうした、恭一郎。心配事が無くなって嬉しいだろう?」
「なんで、こんな事・・」
「誰か親父を止めてくれって、思ったじゃないか」
「だからって・・・殺してほしいなんて」
「あぁ、すまぬ。俺はてっきり、息の根を止めて欲しいのかと思ってなぁ」
この上なくハッキリとした違和感を感じ、恭一郎は目を見張った。
急に、頭が冴え冴えとしてくると、地獄の底から呼びかけるような声を上げた。
「おい」
「どうした?恭一郎」
「馴れ馴れしく名前を呼ぶな」
「そんな悲しい事を言わないでくれ・・・怒っておるのか?」
「アイツは絶対に、自分を『俺』なんて呼ばない・・・見え透すいた茶番はやめろ」
夢彦の姿をした『ソレ』が、目を見開いて口元を吊り上げた。
途端、皮膚がザワザワとうごめき、雪崩のように崩れ落ちる。
再び『ソレ』が形を成すと、巨大な深紅の空蝉の姿となった。
殻の中は赤黒く、ぬちゃりと音を立てて波立っている。
「お前が夢彦に、あんな事を言わせたのか?」
「さぁ・・・どうであろうな」
「夢彦は、人を殺そうなんて思わない」
突然『ソレ』は、カタカタとおかしそうに身悶えた。
殻の軋む音と、淀んだ水の爆はぜる音が響く。
「俺は、ほんの少し背中を押してやってるだけだ。アレは、夢彦の本心に相違そういない」
「嘘だ!」
「嘘ではない。他人の心とは思うようにならんな、恭一郎」
「うるさい!!夢彦の元から離れろ!!!」
「俺が自らの意思で、夢彦に憑ついているワケではない。夢彦が、俺を望んだのだ」
「デタラメを言うな・・・」
「健気ではないか。友の為なら、身を誤る事もいとわないなど」
「誤られても迷惑だ」
「あまり邪険にしては可哀想だぞ」
「邪険になんかしていない!アイツの為だ!!」
「その態度が、夢彦を、あのような心持ちにさせておるのだ」
「――――」
「お前だって本当の所は、すがりたくて仕方ないのであろう」
「小さいガキみたいに言うな」
「そう、いきり立つな。親父は『俺』が殺したんだ。それで、良いではないか」
「・・・本当に・・・殺したのか?」
「あぁ」
「どうして殺した・・・」
「俺が手を下すのが、一番良い落とし所であろう?お前でもなく、夢彦でもなく」
「そうじゃない!殺す必要なんか」
「殺さなければ、お前も小鈴も小梅も、みんな死んでいた。それは、俺の望むところじゃない」
「・・・お前は一体、何だ・・・」
問いながらも、恭一郎には、なんとなく分かっていた。
目の前の空蝉は、自分の中に、ずっと渦巻いていたモノであった。
見て見ぬフリをして、ずっと仕舞い込んでいたモノであった。
「案ずるな。俺は、お前がいなければ困る」
「困る・・?」
「お前がいてこそ、俺はココにあるのだ。言われずとも、分かっているのであろう?」
「――――」
「お前を、悪いようにはしない・・・ただ」
――いつでも、お前に取って代わって良いぞ




