-蛇落の褥- 1-1
――大正十一年 東京府
「東雲さん、この格好、変じゃないかな?」
着慣れぬ背広を身にまとって、幹久は、横にいる侍女に尋ねた。
すると、欧州のメイド服に身を包んだ東雲は、恍惚とした笑みを浮かべる。
悩まし気に頬に手をあてると、東雲の黒く長い髪がさらりと揺れた。
「嗚呼・・・幹久様!!かような御姿を見ますれば、世の女どもは狂喜して、その額を地べたに擦り付けましょう!」
「あ、ありがとう・・・」
「普段の学生服姿の幹久様も素敵でございますが、背広姿になるだけで、こうも大人の色気が出るとは、感慨無量でございます!!」
「そ、そう・・・?」
「幹久様・・・そのカラスの濡れ羽を思わせる艶やかな瞳に見つめられるだけで、ワタクシの胸の灯が烈火の如く燃え上がるのでございます。願わくば、貴方様の陶磁器のような、その肌で苛ますれば、恐悦至極に存じますわァアああああ!!」
「し、東雲さんっ!?なんか、言ってることが滅茶苦茶だよ!!」
「そんなことありません。私の中で幹久様は【ドS】でございます」
「僕の何処に【ドS】要素があるのさ・・・」
「お聞きなさいますか?」
東雲が半歩乗り出してきた為、幹久は思わず半歩下がった。
こういう時の、彼女の妄想は計り知れない。
幹久は、恐れおののくように表情を引きつらせた。
「・・・と、とりあえず、制服に着替えるよ」
「えぇ!?何故でございますか!?」
「姉さんが正装で来いって言うから背広にしたけど、分不相応な気がしてきた・・・」
幹久は、あからさまに残念そうな表情を浮かべる東雲を、部屋から追い出した。
ネクタイを外し、小さく溜息をつく。
「東雲さん、悪い人じゃないんだけどなぁ・・・」
まるで十四、五歳くらいの少女のような見た目に反し、東雲の仕事は、丁寧かつ迅速で、献身的であった。
帰りの電車が、故障で遅延した時も、最寄り駅までわざわざ来て、何時間も待つくらいである。
ただ、先程のような、いかがわしい香りのする妄想癖が問題であった。
他の家族には普通に接するのに、いつも幹久にだけ『あの調子』なのである。
しかも、何故か気の弱い幹久を【ドS】扱いするのであった。
「はぁ・・・」
幹久は溜息をつくと、ホック式の学ランの前を留め、壁の時計に目をやった
午後四時二十分
約束の刻限が迫っている。
――おしゃれなカフェで、たまには食事でもしましょ
そう誘ってきた幹久の姉は、何か企んでいる時の上機嫌な笑顔であった。
その微笑を思い出し、幹久は暗澹たる気持ちとなる。
遅れれば、それこそ【ドS】な仕打ちを受けると思い、幹久は足早に部屋を後にしたのだった。