-蛇落の褥- 4-4
翌日まで間もない、夏の深更。
恭一郎の母親は、落ち着きなく台所を行ったり来たりしている。
恭一郎も、まだかまだかと、ジッと玄関を見すえていた。
すると、突然ガタガタと、引き戸が大きな音を上げる。
勢いよく戸が開くと、おぼつかない足取りで恭一郎の父親が入って来た。
「・・ぁあ・・おかえりなさい、アナタ」
恭一郎の母親が近寄ると、恭一郎の父親は、その華奢な肩を強く突き飛ばした。
恭一郎の母親は恐怖をにじませ、顔を伏せて勝手口から外に出ると、井戸の方へと小走りで向かう。
恭一郎が、そのやり取りを黙って見ていると、恭一郎の父親は不機嫌そうに恭一郎を睨みつけた。
「まだ起きてたのか」
「・・おかえりなさい」
「小鈴と小梅は?」
「もう、とっくに寝てる・・」
恭一郎の父親はニンマリと笑うと、小鈴たちの寝ている部屋の方へと歩き出す。
嫌なモノを感じ、恭一郎は咄嗟に行く手をはばんだ。
「そこをどけ」
「二人とも寝てる。起こしたら可哀想だ」
「顔を見るだけだ、どけ」
「どかない」
不意に、右の拳が、恭一郎目掛けて勢いよく飛んできた。
恭一郎は一歩後ろに下がり、ギリギリのところで避ける。
それが余計に気に食わなかったのか、恭一郎の父親は、今度は右脚で蹴り上げて来た。
しかし、それも脇にそれて避けられると、いよいよ顔を真っ赤にして激昂する。
なんとか、酔いがさめるまで・・・
恭一郎の父親とは言え、このように暴れ回っていれば、そのうち酔いがさめるか、疲れて動けなくなる。
恭一郎は、それを狙って、間合いを取りながら、大槌のような拳を後ろに跳んで避けた。
しかし、着地と同時に、囲炉裏の周りにあった円座に足を取られ、ガクンと身がよろける。
「―――!」
後ろに倒れそうになると、恭一郎の父親は恭一郎の胸倉を掴んで引き寄せた。
そして、恭一郎を軽々と宙に持ち上げ、ギリギリと首を絞めつける。
恭一郎がうめき声をあげると、柱に向かって思い切り投げ飛ばした。
「―――っぁ!」
柱の手前で、叩きつけられるように床に落ちると、ザルがひっくり返り、持ち帰った蝉の抜け殻が辺りに飛散した。
その大半が、落ちてきた恭一郎に潰つぶされて砕け散る。
恭一郎は、なんとか起き上がろうと身を起こしたが、目の前がぐらりと揺れ、再び床に倒れ伏した。
板の間の目地から、赤い筋が川のように流れて来ると、砕けた蝉の抜け殻が、流れてきた液体に浸っていく。
さながらバラバラ死体であった。
自分も同じようになるのかと、恭一郎は口元を吊り上げる。
「小鈴・・・小梅・・・」
しかし、更なる制裁が下されるかと思いきや、恭一郎の父親は襖を開け、寝床へと足を踏み入れた。
物音一つしない室内に、唸るような声を響かせる。
「・・・おい・・・なんで起きない・・・」
これでは、文字通り叩き起こされる。
否、殺されたことすら気付かず、事切れるに違いない。
そんな小鈴と小梅の姿を想像し、恭一郎は蒼白となった。
しかし、全く思い通りにならない体は、起き上がる事すら出来ない。
――誰か・・・親父を止めてくれ
カタリ
乾いた音を上げ、目の前の蝉の抜け殻が躍動した。
血にふやけたのかと思いきや、血だまりの中から明らかな意思を持って、次々と這い出て来る。
何十という蝉の抜け殻の大群が、地獄の底から湧わいて来たかのようにうごめいていた。
そのうちの一匹と目があった瞬間、カタリと軋む音を上げ、全ての抜け殻が、目にもとまらぬ速さで駆け抜ける。
同時に、耳をつんざくような叫び声が、家中に響き渡った。
「っひぃ・・く、来るなぁあああ!!」
恭一郎の父親の体に、無数の紅い蝉の抜け殻がたかっていた。
必死に振り払って床に落とすが、次から次へとまとわり付く。
恭一郎の父親は恐怖に顔を引きつらせ、大声で叫びながら家を飛び出した。
「どうしたの!?」
驚いた恭一郎の母親が、勝手口から駆け付けて来た。
そして、恭一郎の惨状に気が付き、絹を裂くような叫び声を上げる。
血相を変えた恭一郎の母親は、恭一郎の父親に続いて家を飛び出した。
あぁ・・・最悪だ・・・・なんで・・・・・・
刻々と体が鉛のように重くなり、目の前の血の海が広がって行く。
独り取り残された恭一郎は、まるで泥に身を沈めるように意識を失ったのであった。




