-蛇落の褥- 3-6
格式ある門をくぐり、アヤメは自宅の庭園を独り歩いていた。
綺麗に刈り込まれた松の木や、月の影を映した小さな池は、どちらかといえば着物を着て歩きたくなる美しさである。
その為、真っ赤なワンピースをひるがえし、白く艶やかなハイヒールで優雅に歩くアヤメは、完全にその景色から浮いていた。
「ただいま戻りました」
アヤメが玄関で声を上げるも、返事はおろか物音一つなく、家の中は静まり返っていた。
屋敷が広すぎるせいもあるが、あまりに静かな為、アヤメはわずかに不安を抱く。
「幹久、東雲さん、いらっしゃらないの?」」
アヤメが靴を脱いで居間へと歩いて行くと、幹久がソファに座っているのが視界に入った。
しかし、右手で顔を抑えて下を向いており、アヤメに気が付いて顔を上げても手を放さない。
「どうしたの、幹久?」
「おかえりなさい・・・姉さん」
どうも元気がない様子に、アヤメが問いただそうとした時、東雲が救急箱を持って居間に現れた。
子供用のセーラー服のワンピースに、フリルがほどこされた真っ白なエプロン。
まるで、欧州の児童文学に出てきそうな愛らしい姿であった。
かつて、自分もこんな服を着ていた事を思い出し、アヤメは懐かしい気持ちになる。
「おかえりなさいませ、アヤメ様。お出迎え出来ず、申し訳ございません」
「どうかなさいまして?」
「はい、幹久様が、急に『ものもらい』をわずらいまして」
幹久が右手を下すと、右目が痛々しく腫れ上がっていた。
東雲は手慣れた様子でガーゼを当てて、包帯で固定する。
「さすが、元看護婦だけありますわね。手際が良いわ」
「もったいない御言葉でございます」
「それ、お医者様に見せられるかしら・・・」
「行きつけの病院に眼科が入っております。事情を説明してワタクシが補助いたしますから、ご安心下さい」
東雲は、家族以外で唯一、幹久が触れる事の出来る他人であった。
幹久の父が、さる高名な政治家に紹介してもらい、宝条家に仕える事になったのである。
幹久が病気となれば、病院で脈をみる事すら不可能な為、必ず東雲が付き添い、代役を買って出ているのであった。
「東雲さんが来て下さって、本当に良かったですわ・・・もう何年になるかしら?」
「幹久様が十二の頃でございますから、五、六年といったところでございましょうか」
その年数に、アヤメは心の中で溜息をついた。
それはつまり、五、六年経った今も、幹久が立ち直っていないという事である。
ただ、東雲が来る前の酷い精神状態を思うと、ここまで回復したこと自体が奇跡であった。
暴れる、叫ぶなど当たり前で、自分の部屋から出る事すら出来なかった幹久が、学校に登校できるようになり、アヤメの出版社で問題も起こさず働いているのである。
「・・・ごめんなさい」
幹久が瞳に暗い影を宿して、アヤメを見上げた。
自分の心の機微に気付いたのだと、アヤメは思い至る。
このとんでもない観察力が良い方に行けば良いのにと、アヤメは上品に苦笑いを浮かべた。
「謝ることなんてありません」
「・・・でも、心配ばかり掛けて」
「いつも言っていますが、明けぬ夜などありません」
アヤメが凛とした瞳を輝かせて微笑むと、幹久はハッとしたような顔をした。
そして、控えめに口元をほころばせて、小さな声でつぶやく。
「姉さんを見てると、地獄に瑞光が差した気分になるよ」
「その例え・・・誉められてるのに喜べないわ」
幹久の、どこかズレた誉め言葉に、アヤメは吹き出すように笑った。
その笑みにつられるように、幹久も可笑しそうに微笑む。
「ところで、姉さん。夢彦さんの原稿は、どうなったの?」
「結局、今日は間に合いませんでした。明日、出勤前に取りに行く事になりましたの」
「・・・夢彦さん、大丈夫かな」
「どうでしょう・・・今頃、恭一郎という方と、会っていらっしゃるはずですが」
二人が深刻な顔で唸っていると、東雲が心配そうに幹久とアヤメを見つめて来た。
その視線に気が付き、幹久は一瞥する。
「夢彦様が、どうかなさったのですか?」
「それがね・・・」
幹久は、今日あった事を東雲に説明した。
赤軍思想の事なども要領よく噛み砕いて話せており、アヤメは幹久の説明能力に感心する。
「と、いうワケなんです」
「・・・それは、随分と厄介な事態でございますね」
「また、言い争ってないとイイけど・・・」
「その方は、ずっと陸軍兵卒として、訓練や出兵をされていらっしゃったのですね」
「うん、そうらしい」
「そして、五年も音信不通であったのに、急に夢彦様の所にいらっしゃったと・・・」
東雲は、急に眉間にシワを寄せた。
しかし、アヤメの怪訝な表情に気が付き、いつものようにニッコリと微笑む。
「何でございましょう?」
「何か、気になる事でもありますの?」
「いえ、何でもございません」
「そうは見えませんでしたわ」
「あぁ、アヤメ様の探偵趣味に火が付いてしまわれたようですね」
「・・・推理小説は、仕事で夢彦さんのを読む以外、読んだ事がありません」
「困りました。私のような卑しい身の上が、お話し出来る内容ではございませんので」
「幹久には、セクハラまがいの妄想を暴露しているではありませんか・・・」
東雲はクスクスと笑い出した。
しかし、ココは逃すまいとアヤメは凝視する。
すると、東雲は観念したかのように、姿勢を正して涼やかに微笑んだ。
「戦地という場所に身を置く方々というのは、色々と『悪いモノ』を持ち帰って来るのでございます」
「『悪いモノ』?」
「はい。病気や危険思想への傾倒は、その『悪いモノ』から身を守るための自己防衛反応と言えます」
「ごめんなさい、よく分からないわ」
「『悪いモノ』を説明するのが難しいのですが、そうですね・・・怪奇小説でいう所の『邪気』や『瘴気』みたいなものです」
「えっと・・・たしか、夢彦さんの小説にあったわ、そんな単語」
「自然や人の心から生まれる、災いを起こす気の事だよ」
突然横から入ってきた幹久に、アヤメは意表を突かれた。
見ると、幹久は珍しく興奮した様子で、瞳をキラキラと輝かせている。
そう言えば、オカルトや宗教といった方面が大好物だったと、アヤメは呆れ気味に幹久を見つめた。
「えっと・・・ファンタジーな内容はイマイチ呑み込めませんが、屈折した感情が、場の空気を悪くするって事かしら」
「左様でございます。人を殺すことが当たり前の環境に居続ければ、自然と心が歪みます。夢彦様の元へ急に訪れたのも、そういった『悪いモノ』が飽和状態にあるからでしょう」
「夢彦さんに会って、解決するものなのかしら・・・」
「気の置けない方と話す事で、ある程度の効果は期待できましょう・・・しかし」
東雲は、急に表情を曇らせた。
そして、真剣な眼差しで、アヤメに視線を送る。
「アヤメ様・・・明日は、少し早めにお伺いいたした方が宜しいかと存じます」
「え・・・?」
「もし、何かありましたら、ワタクシにご連絡下さいませ。善処致します」
そう言うと、東雲はニッコリと笑って、救急箱を持って居間を出て行った。
残された幹久とアヤメは、不安げに顔を見合わせる。
「姉さん・・・」
「大丈夫です。それよりもアナタは、必ず明日の朝、眼科へ行ってらっしゃい」
「・・・うん」
そう言ったものの、会った事もないのに、恭一郎という男が悪鬼の如く感じられ、アヤメは、ただならぬ不安に苛まれた。
すると、そんなアヤメの心を表すかのように、朧月が陰り、窓の外に見える日本庭園が深い闇に包まれる。
しかし、明けぬ夜はないと、アヤメは自分の心に強く言い聞かせるのであった。




