-媼主の速贄- 39
夏の深更――
庭の手水鉢は、月の影を映し、青白く輝いている。
その青白さよりも一層白い影が、縁側にゆったりと座っていた。
尖った獣の耳は、空に向かってピンと立ち、時々楽し気にピクリと動く。
「それは大変であるなぁ、『虚』」
「・・・まったく、これほど自分が、思い通りにならないと思わなかった」
「今に始まった事では無いではないか」
「それにしたって、露光が気の毒すぎるわ!!」
苛立たし気な鋭い瞳が、月の光を受けて揺らめいた。
あまりの立腹ぶりに、『戯』は、くつくつと笑う。
「それで今日は、恭一郎の姿でいるのか」
「露光と一緒にいる時は、いつも肉体の姿で会っとる」
そう言うと、『虚』は膝の上にいる『露光』をギュッと抱き締めた。
『露光』は頬を赤らめると、『虚』にもたれかかる。
「あぁ、小童では腕も回せぬからのぅ」
「デカすぎて、逆に『露光』が子供みたいだがな・・・」
「でも、私もコチラの方が、恭一郎と話してる気がして良いと思うぞ」
「お前は迂闊だから、俺と恭一郎を間違えそうだ」
『戯』と『虚』の掛け合いに、『露光』はクスリと笑った。
そんな『露光』の清水のように流れる髪に、『虚』は頬をすり寄せる。
すると、ますます頬を赤らめて、『露光』は熱っぽい眼差しで『虚』に寄り添った。
「しかしなぁ、『虚』と記憶が共有できぬと言っても、恭一郎も、露光殿をなんとも思ってないとは思えんのだが」
「理性が邪魔しておるのだ・・・お前のように、吹けば飛ん行ってしまう、理性とは違う」
「そんな・・・人を甲斐性なしみたいに言う事もなかろう」
「よく言う・・・薫を身籠ったから結婚に踏み切ったクセに」
「アヤメさんを愛さずにはいられなかった故に、順番が逆になったのだ」
「それを、甲斐性なしと言うんだ!!」
『戯』が開き直って笑い出すと、『虚』は呆れた顔で苦々しい顔をした。
すると、『露光』が急にハッとした顔をして、不安げに『虚』を見上げる。
「どうした、『露光』」
「飢餓状態になりそう・・・」
『戯』が緊張した面持ちで『露光』を見やると、『露光』は悲哀のこもった目でうつむいた。
自分の体を抱き締めるように『露光』が縮こまると、『虚』は『露光』の肩を強く抱き締める。
「恭一郎の元に行こう」
「・・・はい」
『虚』は、仏僧姿の小童の姿になり、縁側からスッと立ち上がった。
『露光』も薄緑色の燐光となって、ふわりとその肩に乗る。
「『虚』。そろそろ私も、お暇する。仕事のネタ探しに行かねば」
「『隠世』に行くのか?」
「うむ、ケンさんと水谷殿が、風俗雑誌を出さないかと誘って来たのでな」
「『吉原奇譚』の続編を書くのか」
「あぁ、夢彦が何でもかんでも暴露してしまうのでな。下手な出版社に出さないようにして、検閲するのだそうだ」
『戯』が苦笑いを浮かべると、『虚』は吹き出すように笑った。
『露光』も、銅製の風鈴のような音を楽し気に響かせる。
「ココに来ても、夢彦は面会出来ないらしいのでな。千葉に帰ったら、作品を見せに行くぞ」
『戯』は、着物の裾をひるがえすと、白狐の姿へと変わり、月の光の下に躍り出た。
すると、絹糸のような毛並みが、青白い月光に妖しく輝く。
そして、白銀の姿態が跳躍すると、水琴鈴の音は、夏の夜空を艶やかに彩ったのであった。




