-媼主の速贄- 29
常闇の森に、巨木の根が縦横無尽に広がっている。
その、人の身長の倍はあるかという高さの根に、漆黒の獣の影が彗星の如く走り去っていく。
根のあちこちから、次々と突き出して来る鋭い枝先が、その影を捕らえようと、容赦なく天に向かってそそり立った。
――すばしっこいのぅ・・・
目の前に立ちふさがった幹のような枝先に、漆黒の獣は足を止めた。
大きく飛び上がると同時に、その姿が人型を成す。
黒い狐の面を被った姿に変化した水谷は、漆黒の生地に瑠璃色の紋様の入った着物をひるがえし、手に持った香炉を天にかざした。
刹那、厳かな沈香の香りが辺りに立ち込め、周囲の枝先が次々に枯れていく。
その懐かしい姿に、『裏御前』は喜悦をにじませた声を上げた。
――嗚呼・・・・あの男も・・・美しい死に様であったなぁ
枯れ果てた枝先の後から、新たな枝先が次々とその手を伸ばす。
その瑠璃色の紋様の着物をえぐられそうになると、水谷は上体を反らした。
伸びて来た枝が檻のように水谷の周囲を取り囲むと、まるで押し潰そうとするかのように枝先が狭まる。
しかし、絡まり合った枝がギシギシと軋む音を上げると、突如、木っ端微塵に木片が宙を舞った。
「何が美しいものか!このウツケがぁあああ!!」
中から現れた人影は、長い滝のような黒髪を振り乱し、妖艶な姿態を雄々しく構えた。
あらわになった脚で大きく踏み出すと、右手に持った日本刀をしなやかに薙ぐ。
ザンッ・・・
瞬間、大気が大きく打ち震え、『瘴気』の波動が、鋭く伸びる枝の軍勢を切り倒す。
同時に、紫色の炎が切り口から燃え上がり、無造作に伸びる枝先を焼き払った。
その鮮やかな身のこなしに、『裏御前』は高らかに笑う。
――ほんに・・・楽しぃわいなぁ
『裏御前』の周囲に、鋭い枝先が新たに伸びた。
その先端を水谷に向けると、それは互いに絡み合い、大樹の幹ほどの太さとなって、まるで荒れ狂う龍の如く、水谷に襲い掛かる。
真正面から襲い掛かって来る猛威に、水谷は日本刀を上から振り下ろし、二枚おろしにするかのよう真っ二つに切り裂いた。
しかし、伸びて来る枝の勢いは衰えることなく、途中で向きを変えて、背後から水谷に襲い掛かる。
シャン・・・
錫杖の甲高い音が響くと、二手に分かれた枝先はピタリと動きを止めた。
その隙を突いて、水谷は旋回して薙ぎ払う。
すると、枝先はドス黒い霞となって、淀んだ風に流されて行った。
――お主・・・・面白いのぅ
『裏御前』が真っ赤な口を吊り上げると、水谷は自らの姿に戻り、怒りに満ち満ちた視線を送った。
それが、あまりに心地良いとばかりに、『裏御前』は恍惚とした声を上げる。
――なるほどのぅ・・・カエデが気に入るのも無理ない
「アンタに気に入られても、全然嬉しくないよ」
――お前、魂魄であるのに、まるで『鬼』のように『瘴気』をまとっておるなぁ
「・・・!?」
――『瘴気』を帯びられるのは、『鬼』だけぞぇ
「・・・師匠・・・・カエデさんも『瘴気』を操ってた」
――アレは、『きらら』の『瘴気』を操っておるのだ。カエデが『瘴気』をまとっているのではない
「・・・・っ」
――お主・・・生まれつき、眠ると『隠世』に来てしまっていたのではないかぇ?
『裏御前』の問い掛けに、水谷は一瞬息が出来なくなった。
落ち着こうと自分に言い聞かせるも、瞳が痙攣して、焦点が定まらない。
――出産の直後に、赤子が『鬼』に成り代わっておると、そうなる事があるのだ
水谷は大樹の根に降り立ち、中心にある幹に向かって飛ぶように走った。
杭のように伸びた枝に、次から次へと飛び移りながら、水谷は駆け上がる。
時折、横から下からと、不意打ちで突き刺そうとしてくる別の枝に、着物の裾がえぐられた。
――『鬼』が、魂魄に先立って名付けられてしまってなぁ
「・・・・」
――肉体が、魂魄を『鬼』と認識するのだ。魂魄に名が無い故に、自分の『瘴気』にも侵されやすい
「・・・うるさい」
――自分の『鬼』の『瘴気』に侵され、毎夜、肉体まで奪われるとは・・・哀れよのぅ
水谷は大きく屈み込むと、真上にある枝先まで一気に跳ね上がった。
同時に巨大な漆黒の狐の姿となり、一気に上り詰める。
そして、雛人形のように鎮座する『裏御前』の目の前に、大鎌のような牙を光らせた。
「ボクと『シキ』は兄弟同然だ!・・・哀れなんかじゃない!!」
口から炎を立ち上らせ、水谷は『裏御前』に紫色の炎を吹き出した。
艶やかな炎が、『裏御前』に轟々と音を立てて襲い掛かり、きらびやかな十二単は、高々と火柱を上げる。
目を見開いた『裏御前』であったが、にわかに三日月のような口元が、更に吊り上がった。
――楽しいわいなぁ
紫色の炎が爆ぜるようにかき消え、火の粉を散らして風に消えた。
同時に、真下から伸びて来た枝先が、黒い獣の体を貫く。
「・・・・っぁ・・・・ぐぅ・・・・・!!」
――魂魄に名が無いと、普通は大して生きられぬ・・・
「・・・っい・・・・ぁぐっ・・・・」
――だが、こうして生き残っておるという事は、カエデが名を付けさせたのであろう?
突き刺されたまま、高々と上空へと持ち上げられ、水谷は狐の四肢をよじった。
しかし、無数の枝が体全体を貫いている為、身動きが取れない。
刻々と失われる『瘴気』と激しい痛みに、水谷は焦燥を覚えた。
――少しは楽しく・・・生き長らえたかぇ?
『裏御前』が笑うと、突然、口の端が耳の付け根まで裂けて行った。
水谷は、あまりにも禍々しい笑みに恐怖し、全身が粟立つのを覚える。
加えて、内側から侵食してくる『瘴気』の猛威により、ぐらぐらと体内が沸き立つように熱を持った。
耐え切れずに上げた悲痛な獣の咆哮が、常闇の森に響き渡る。
ぐちゃ
突然聞こえた肉を貫く音に、水谷は目を見張った。
『裏御前』の胸から、鈍く金色に輝く錫杖の先端が突き出ている。
ゴポゴポと煮えるような音を上げ、『裏御前』は口の中から、湧き水の如く血反吐を吐き出した。
「貴様が・・・・早く死ね!!」
背中から、赤褐色の液体が錫杖を伝い、『虚』の手を紅色に染めた。
『裏御前』は、ゴボッと大きく血反吐を吐き出すと、引きつった笑い声を、高らかに常闇の森に響かせる。
すると、錫杖を伝う血の量が一気に増え、『虚』の裳付衣をドス黒く濡らした。
――嗚呼・・・アァ・・・・・・
『裏御前』は、恍惚とした顔で天を仰いだ。
その気色悪さに、『虚』は錫杖を引き抜こうと力を込める。
しかし、『裏御前』は腹から突き出した錫杖を握り締め、逆に自分の方へと引き寄せた。
――もっと刺さぬのか?・・・恭一郎
刹那、錫杖にまとわりついていた血液が、生きているかのように動き出した。
まるで火花が散るような勢いで広がると、『虚』の手足、腹、首へと絡みつく。
操り人形の如く、あちこちに紅い琴線が巻き付くと、ギリギリと音を立てて『虚』を締め付けた。
「・・・・ぐぅ・・・・」
――肉体が、妾の元にあるのを・・・忘れたかぇ?
「フン・・・・やせ我慢しようが、魂魄は傷付いておるぞ・・・もうろくババア!」
――かまわぬ・・・老い先短いこの身・・・こんなに楽しければ、命などいらぬわ・・・
炯々と光る瞳に、水谷は、喉に込み上げるような不快感を感じた。
その紅色の口元から、引きつった笑い声が漏れ出した瞬間、自分を突き刺していた枝が歪み、ギリギリと体を締め付け始める。
四肢がもぎ取られそうな痛みに、水谷は、あられもなく叫び声を上げた。
赤子のような甲高い獣の声が、『隠世』の大気を打ち震えさせる。
――妾は・・・戦が好きなのだ・・・・あの、幕末の血生臭い時代が懐かしい
「・・・・貴様・・・やはり・・・・」
『虚』が苦悶の表情で、かすれた声を上げると、突如、『裏御前』の首が真後ろを向いた。
あまりにおぞましい姿に、『虚』は前髪の奥で目元を引きつらせる。
――討幕だと沸き立ってた頃、なんと人の命が輝いていた事か・・・
「あの時代を再現する気か・・・『裏御前』!!」
――再現ではない・・・あの頃以上に、この日本を輝かせるのだ
「―――!?」
――関東大震災のおかげで、東京は見事に、空襲で火の海になったであろう?
「・・・まさか、その為に・・・御堂カエデを・・・」
――震災時の火災や風向きのデータを、米軍が調べるのは当然であるからなぁ
「東京が大火災を起こすと、どうなるか・・・敵国に披露したというのか!?」
水谷は、怒号を含んだ咆哮を上げた。
もはや、我を失ったように喚く水谷に、『裏御前』は狂喜する。
――紅に染まった東京は・・・・美しかったぞぇ
言うか否や、『裏御前』は『虚』の四肢を締め上げている琴線を弾いた。
鳴動すると、『虚』の全身が、爆ぜるように鮮血を吹き出す。
錫杖を掴んだ手が力なく下がり、手足の先からしたたる血が、大樹の根元へと吸い込まれるように落ちて行った。
傷口からは、ドス黒い霞が立ち込め、皮膚には青アザが浮かんで白い肌を蝕んで行く。
「・・・・っ・・・・・・ぃ・・・・・」
――『露光』と仲良く・・・・・速贄におなり・・・・
『裏御前』は、紅色の琴線で絡め取ったまま、『虚』を鋭い枝先で貫いた。
胸の中心を貫かれた『虚』は、首をかしぐとグッタリとうな垂れる。
その惨状に気が狂ったかのように、薄緑色の燐光が、いっせいに鈴の音を鳴り響かせた。
リン・・・リン・・・リリン・・・
リン・・・リン・・・
リリン・・・リン・・・
しかし、それに応える様子もなく、蝉の翅を模した耳飾りが、淀んだ風に揺れる。
悲痛な鈴の音と共に、『裏御前』の狂喜した叫び声は、常闇の森に高らかに響き渡ったのであった。




