-媼主の速贄- 27
こぼれ落ちて来そうな星空の下、一本の桜の古木が、小高い丘の上に立っていた。
重なり合う梢には、新緑が覆い茂り、隠れるように咲き残った花が、根元の人影を不安そうに見下ろしている。
葉擦れのささめきが静かに聞こえる中、脇腹を抑えてうずくまる犬飼に、『青蘭』は血の気の引いた顔を向けた。
「犬飼・・・」
「心配すんな・・・こんな・・・・・・好条件・・・もう二度とない」
「何言ってんのよ!もろに『瘴気』を魂魄にくらったのよ!!」
『青蘭』が、犬飼の手を無理矢理払いのけると、血濡れたシャツから、ドス黒い霞が立ち上っていた。
明らかに『瘴気』に侵されている様子に、青蘭は一層、顔を青くする。
「『鬼』が『瘴気』に侵されるのとは全然違うの!『鬼』は自分の『瘴気』で魂魄を包んでいるから、相当な怪我を負わない限り寿命は減らないけど、魂魄のアンタは、『瘴気』の影響が寿命に直結するのよ!?」
「大丈夫、大丈夫・・・・俺、百歳まで生きる気満々だから・・・」
「アンタ、バカじゃないの!?」
「ホントだ。今まで気が付かなかったわ」
おかしそうに笑う犬飼を、『青蘭』は胸倉を掴んで、桜の幹に抑えつけた。
怒りに満ち満ちた瞳が、涙目になっている。
そんな『青蘭』に、犬飼はヘラヘラと笑い出した。
「また泣く気か?」
「・・・っ・・・・!」
「・・・いや、マジで泣くなっ・・・・・・今、必死に暴いてんだからよ」
『青蘭』は、怪訝な顔を犬飼に向けた。
そんな『青蘭』に、犬飼は、いつもの軽薄な笑みを浮かべる。
「『裏御前』の本名だ。名前を暴けば、あのクソババアに『瘴気』をブチ込みやすくなるだろ」
「暴くって・・・どうやって」
「良く分かんねぇけど・・・俺は、『瘴気』から相手の名前が読み取れんだよ」
驚きのあまり、『青蘭』は目をしばたかせた。
犬飼は不敵に笑って見せるも、苦痛に顔を歪ませる。
「だ・・・だいじょうぶ!?」
「うるせぇっ・・・しばらく黙ってろ」
目を見開いて地面を凝視する犬飼を、『青蘭』は、固唾を呑んで見守った。
長い沈黙に、自然と息が上がる。
そんな『青蘭』を尻目に、犬飼は水の底を探るかのように、瞳をせわしなく動かした。
「・・・・っい・・・・・・・」
犬飼が、苦痛に思わず声を上げると、傷口の黒い霞が、更に立ち込める。
額に脂汗が浮かび、ビキビキと嫌な音を立てて血管が浮き上がった。
血走る瞳から、今にも血の涙が流れそうである。
目に見えて危険な様子に、『青蘭』は、再び犬飼の傷口に手を伸ばした。
「・・・おいッ!」
「『瘴気』が多すぎるのよ!減らすから待って!!」
犬飼のシャツをたくし上げると、ドス黒い霞が煙のように立ち込めた。
あまりの『瘴気』の威力に、『青蘭』は顔をしかめる。
「だがよ・・・こんな形のない奴・・・・・・どうやって」
「形が一定じゃないものは、移すしかないのよ」
そう言うと突然、『青蘭』は傷口に喰らいついた。
大型の獣に噛まれたような強烈な痛みに、犬飼は絶叫する。
どうにか引きはがそうと、『青蘭』の一つにまとめた髪を容赦なく引っ張ると、さらに強く噛みつかれ、激烈な痛みに襲われた。
「痛ぇ!!!マジで痛ぇ!!!」
「・・・・んっ・・・・っ・・・・・・」
「離せっ!!・・・死ぬほど痛てぇ!!本気で痛ぇ!!!」
『青蘭』が、ようやく口を離して後ろに倒れ込むと、犬飼は桜の幹にもたれかかった。
息を切らして傷口に手をやると、あったはずの傷口が無くなっている。
全身の気だるさが抜けていくのに気が付き、飛び上がるように身を起こした。
「・・・・あぁ・・・・はあぁっ・・・・・・・・」
仰向けに倒れた『青蘭』は、体を細かく震わせ、時折、ビクッと大きく痙攣した。
手先や首元に青アザが広がっていき、血の気がじょじょに失われていく。
ぐったりと力なく横たわる『青蘭』に、犬飼は這うように近寄った。
「バカッ!!お前、全部持ってっただろ!!」
『青蘭』は、眉根を寄せて、うっすらと目を開けた。
そして、口元をわずかに吊り上げ、引きつった笑みを浮かべる。
「・・・言ったでしょ・・・・『鬼』と・・・魂魄本体は違うのよ・・・」
「――――」
「『鬼』は、自分の『瘴気』で、他人の『瘴気』を抑え込めるの・・・・抗う力のない魂魄じゃ・・・・絶対、無理・・・」
「だからって、全部持って行くことねぇだろ!!」
「アンタ・・・・『虚』に取り憑いた『瘴気』・・・・払ってやったんでしょ?」
「・・・あ、あぁ・・・」
「その割に・・・『瘴気』の払い方、よく分かってなかった・・・その、名前を暴く方法・・・・・・使ったんでしょ?」
「――――」
「なら・・・・無理にアンタが取り憑かれてなくても・・・・出来るんじゃない」
『青蘭』は、 射籠手の結び目を解き、襟元に手を掛けると、大きく首元をくつろげた。
斑に青アザが広がった胸元があらわになり、犬飼は虚をつかれる。
犬飼の視線を避けるように、『青蘭』は顔をそむけた。
「は、早く終わらせなさいよ・・・醜い肌になってるだろうけど・・・恥ずかしいのよ」
閉じた目に涙が伝って行くのを、犬飼は苦々しく見つめた。
ためらいがちに着物の襟を掴むと、腹の辺りまで一気に広げる。
小さく悲鳴を上げた『青蘭』の顔が、耳まで真っ赤に染まっていった。
「悪ぃ・・・」
犬飼は、みぞおち辺りの一番ドス黒く変色した所に手を触れた。
痛みなのか、触れられて驚いたのか、『青蘭』はビクンと体を震わせる。
そして、恥ずかしさに耐え切れず、腕を使って、顔を覆い隠した。
「違う・・・ココじゃない」
犬飼の言葉に嫌な予感を感じ、『青蘭』は、思わず足を閉じた。
恐怖と内から湧いてくる痛みに歯を食いしばると、体が自然と細かく震え出す。
すると、不意に腕を掴まれ、『青蘭』は顔をさらされた。
「コッチを向いて、目を開けろ」
『青蘭』が、うっすらと目を開けると、目の前に鬼気迫った表情の犬飼が、ジッと自分を見つめていた。
獲物を狩るような眼差しに、より一層恐怖が募る。
腕を抑え込まれて凝視され続けていると、不意に犬飼の口元が吊り上がった。
『裏御前』の浮かべた笑みに近いモノを感じ、『青蘭』は震撼して涙をこぼす。
「終わったぞ」
いつもの得意げな笑みを浮かべると、『青蘭』は脱力してホッと息をついた。
しかし、恐怖で忘れていた全身の痛みが一気に押し寄せ、胸を抑え込む。
すると、『青蘭』の握り締めた手に、犬飼は自分の手を添え、軽薄な口調で語り掛けた。
「あのさ、悪ぃんだけど」
「・・・?」
「ほら。『瘴気』を払うと『裏御前』が感づいて、『現世』に逃げるかもしんねぇだろ?しばらく、悶えててくんね?」
「・・・悶えるって、間違ってないけど・・・」
「イイ感じなのに、据え膳食わねぇなんて心苦しいんだけどさぁ」
「・・・アンタ、本当に最低・・・・・・」
『青蘭』が身を起こし、呆れ顔で着物を手繰り寄せると、犬飼はケタケタと笑い出した。
そして、足元に落ちてる『青蘭』の矢筒を手に取り、肩に掛けて歩き出す。
「じゃ、また後で。いや、もう会う事もないか」
「え・・・」
「だって、お前は『現世』に戻ったら、『隠世』の事なんか覚えてねぇだろ。お疲れさん、って押し掛けられても、混乱させるだけじゃね?」
「――――」
「先に帰って寝てろよ。東雲を取り返したら、『無害化』頼んでやっから」
すると、犬飼の姿は朧となり、かすかに吹く風に消えて行った。
その背中が完全に見えなくなると、『青蘭』は、手繰り寄せた襟元から手を放し、ポツリとつぶやく。
「馬鹿・・・」
桜の葉のざわめきと共に、『青蘭』の艶やかな髪が風になびいた。
吹き抜ける風が胸元を通り抜け、その冷たさに、『青蘭』は自分の体を抱き締める。
頬に掛かった絹糸のような柔らかな髪は、伝い落ちた涙に濡れていったのだった。




