-媼主の速贄- 18
満天の星空の下、小高い丘の上に、一本の桜の古木が立っている。
麓を見下ろすようにたたずむ姿は、まるで地上をのぞき込む天人を思わせた。
ほとんど葉桜となっており、新緑の隅に咲き残った桜の花が、チラリと顔をのぞかせている。
そんな桜の根元に、まるで墨を落としたような黒い影が座り込んでいた。
チン・・・・・カチン・・・・・・
その側に、薄緑色の燐光を閉じ込めたガラス瓶が、地面の上に置かれている。
しばらく、こもった甲高い音を上げていたが、『露光』は疲弊した様子で、弱々しく明滅した。
「やるだけ無駄だよ。静かに桜でも見てたら?」
そう言うと、水谷は手元の本に視線を落とした。
黒い狐の面を付けたままでは、どう見ても読みづらそうである。
『露光』は何を読んでいるのかと、ジッと水谷を見つめた。
「この本は雰囲気だよ。もう好きな詩歌なんて頭の中で覚えてるけど、本になってる方が、読んでる気がするでしょ」
チン・・・
「キミ、好きな本は?『彩雲の民』の経典とか?」
『露光』は怒りを込めたように、激しく明滅して体当たりした。
ガラス瓶が、こもった音を上げ、ほんの少し揺れる。
カチン・・・・カチン・・・・
『露光』が、こもった鈴の音を鳴らし続けると、水谷は『露光』を無言で凝視した。
怒らせてしまったのかと思い、『露光』は弱々しく身を光らせる。
「・・・キミ、和歌が好きなの?」
チン・・・
「十五番?・・・なんの?」
カチン・・・
『露光』の言葉に、水谷はポンと手を叩いた。
桜を見上げると、面の下で、ゆったりと息をつく。
「君がため 春の野に出でて 若菜つむ 我が衣手に 雪は降りつつ」
水谷が和歌を詠みあげると、『露光』は、その抑揚に合わせるように、ゆっくりとした明滅を繰り返した。
その儚い光が、夜桜に映える。
水谷も息をつくように笑うと、感慨深げに、その旋律を味わった。
「相手の長寿を願って、春の野原に野草をつみに行くとか・・・・いいなぁ」
チン・・・
「・・・へぇ~、意外。『虚』、和歌の話が出来るんだ~」
カチン・・・
「いいな~。ボクのお姫様は、日本刀を振り回す、戦国武将みたいな人だったから羨ましい」
水谷はクスクスと笑い出すと、懐かしそうに、桜の近くの一軒家を見やった。
縁側に朧な人影が二つ、コチラを向いて口元をほころばせている。
水谷がハッとして、まばたきをした瞬間、何者もいなかったかのように、その姿が消えた。
チン・・・
『露光』の、こもった風鈴のような音が響くと、水谷は、我に返ったように目を見開いた。
そして、着物の胸元を握り締め、悲哀のにじんだ声を上げる。
「・・・いけない・・・話し込んじゃった」
水谷はガラス瓶を持って、ゆらりと立ち上がり、桜の古木を見上げた。
悲哀に満ちた瞳に、凍りつくような冷たさが宿る。
次第に、辺りの景色は泥のように流れ出し、血の海のような曼殊沙華の群生に沈んでいったのだった。




