-蛇落の褥- 3-3
喫茶『ハルジヲン』に着くと、幹久、夢彦、恭一郎の三人は、ステンドグラスがほどこされた扉を開けた。
あの時に突き飛ばしてしまった女給が、幹久を見て一瞬青ざめたが、後ろに控えている厳つい陸軍兵卒の姿を見て、さらに蒼白となる。
そんな彼女の顔色を見て、暴力学生と陸軍兵卒と官能小説家の集まりなんて、考えてみればちぐはぐ過ぎると、幹久は苦笑いした。
「こちらの席へどうぞ・・・」
ぎこちない様子の女給に、三人はテーブル席へと案内された。
荷物が多く、ひと際ガタイの大きい恭一郎が独りで座わり、幹久と夢彦が並んで対面に座る。
夢彦は幹久に触らないようにと、窓際ギリギリまで寄り、幹久も通路ギリギリまで離れた。
「何にする?」
「何もいらん。食欲がない」
まだ、ふくれっ面の夢彦は、腕組みをしてそっぽを向いた。
恭一郎は小さく溜息をつくと、幹久に視線を向ける。
「お前は?」
「えっと・・・コーヒーで」
「じゃあ、適当に頼むから、遠慮せずに、お前もつまんでくれ」
そう言うと、恭一郎は女給に、コーヒーと幾つか軽食を頼んだ。
女給が居なくなると、急に空気が重苦しくなり、長い沈黙が続く。
幹久が縮こまっていると、夢彦が重苦しい口調で口火を切った。
「で、何の用で来たのだ」
「別に用はない」
「・・・五年だぞ」
「いや、四年と十か月だ」
「それを、おおかた五年と言うのであろうが!!」
「だな」
「『だな』ではない!もう我々も二十二だぞ!?四半世紀が目前だ!!」
「一世紀なんて、意外と短いものだな」
「お前の妹の小梅が、もう小学生だぞ!?」
「もう、そんな年か」
「それだけじゃない、上の妹の小鈴なんか、大西の家に嫁に行った!」
「へぇ、あの辺の地主の・・・ハハッ、玉の輿だな」
「笑い事ではない!」
「どうして。貧乏農家の娘じゃ、嫁の当てがないかと心配だったのに、ちゃっかりしてるじゃないか」
「小鈴は可愛らしいから、誰も放っておかぬよ」
「お前だって美人じゃないか。結婚したか?」
「誰が美人だ!!こんな顔、そこら辺にゴロゴロおるわ!」
「―――」
「・・・なんだ?」
「お前、自分の容姿に自覚ないのか?」
「何の話だ?」
「・・・その様子だと、嫁どころか女もいなさそうだな」
「余計な、お世話だっ!お前だって金欠兵卒で嫁の当てもあるまい!」
「確かに」
「小鈴が嫁に行って、お前まで入営してるもんだから、お袋さんは、まだ手のかかる小梅をみながら、女手一つで働いているんだぞ!」
「仕送りしといて良かった」
「金の問題ではない。一度帰ってやらねば気の毒だ!」
「お前だって帰ってないんだろ?お袋の手紙に書いてあったぞ」
夢彦は、ぐうの音も出ないと口をつぐんだ。
眉間にシワを寄せると、座席に寄り掛かってテーブルの隅に視線を落とす。
「あんな非道な連中と・・・どうして一緒に暮らせる」
「皆が皆、そういうワケじゃないだろ」
「お前が軍に志願するのを、誰も止めなかった!」
「お袋以外に話してないし、そもそも、国へ貢献するのを止める理由がないだろ」
「お国の為という信念があればな!お前は、借金の帳消しの為ではないか!!」
「借金の為だけじゃない」
「村の上の連中が、どうして借金の帳消しをしてまで、お前を行かせたかったと思う」
「さぁ」
「他の働き盛りの連中が、徴兵されないようにする為だ!!」
「あぁ、志願者が出れば、強制的に徴兵される人数が少なく済むな」
「有能な働き手を失うのが、村の損害なのは分かる・・・でも、何でお前なんだ!」
「村で一番の赤貧で、金もなければ教養もないからだろ」
「その考え方が、気に食わぬというのだ!」
「だからって、お前が家出する事ないだろ・・・せっかく、医学専門学校に通ってたのに」
「必死に勉強して医者になった挙句、軍医に志願しないかと言われるのがオチだ!」
恭一郎は大きく溜息をつくと、急に立ち上がった。
そのまま、自分の荷物に手を掛ける。
「恭一郎?」
「大体分かった。時間を取らせたな」
「何処に行く?」
「陸軍基地だ。面倒な事務手続きがあるからな」
「・・・なっ・・・!」
「原稿、片付けといてくれ。夜に出直す」
「待てっ・・・恭一郎!!」
夢彦の制止も聞かず、恭一郎はテーブルにお金を置くと、入口へと歩き出した。
軽食を運んできた女給に軽く会釈すると、無駄のない足取りで店を出ていく。
思わず立ち上がった夢彦であったが、幹久が横にいたせいで席から出られず、見送ることとなった。
思いもしなかった展開に、幹久は不安げに夢彦を見上げる。
「ゆ、夢彦さん・・・」
夢彦は深く呼吸をすると、銀色の瞳を潤ませた。
やるせない表情に、幹久は胸を締め付けられる。
「・・すまんね」
しかし、悲哀のこもった眼差しで、夢彦は幹久に微笑んだ。
席から出ようとしたので、幹久は立ち上がって道を譲る。
すると、憔悴しきった様子で、夢彦は幹久に囁いた。
「私は、先に戻らせてもらうよ・・・」
そう言って歩き出すと、夢彦は肩を落として店を出て行った。
掛ける言葉が見つからず、幹久は拳を強く握り締める。
窓から見た街並みが、この時の幹久には、色あせた物悲しいものに見えたのだった。




