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灰色帝都の紅い死鬼  作者: 平田やすひろ
媼主の速贄
117/153

-媼主の速贄- 7



「ちょっと、お母さん!」



 大きな声を張り上げて、大西(おおにし)小鈴(こすず)は玄関の引き戸をけたたましく開けた。


 普通であれば、驚いて皿の一つも落としそうなものであるが、慣れきっているのか、小鈴の母親は食器を片付けながら、のんびりとした調子で返事をする。



「あら、小鈴。どうしたの?」



「どうしたの、じゃないわよ!(きょう)()ぃは!?」



「さっき、退院して帰って来たわよ」



「で、今どこ!?」



宝条(ほうじょう)さんの家に行くと言って、出てったわ」



「えぇ!?」



「何か困っていらっしゃるみたいで、お手伝いに行くそうよ」



「もう、なんで止めないのよ~!病み上がりなのよ!!」



「大丈夫よ。とても元気そうだったから」



「おかあぁさん・・・東京は空襲で焼け野原なんだよ!!また爆弾が落とされるかもしれないのに!」



 この年の五月、東京は深夜の時間帯に、三時間にもわたる爆撃を受けたのであった。


 焼け野原は死屍(しし)累々(るいるい)としていて、運よく生き残った人々は、その死体の片付けに奔走したという。


 それから二か月たった今も、毎夜、サイレンが鳴り響き、非常に危険な状態であった。



「でも、東京以外にも落とされているんでしょ?ココにも落ちるかもしれないのだから、何処にいても同じじゃないの?」



 東京で起こった惨劇は、その後、日本各地で起こっていた。


 「次は自分たちの所に・・・」と、多くの日本国民が、恐怖に震えているのである。


 ただ、自分の母親は例外のようだと、小鈴は大きく溜息をついた。



「あのね、お母さん・・・焼夷弾(しょういだん)は、雷とは違うんだよ?」



「そうね」



「そうね、じゃないよ~!分かってないでしょ!?」



「それより・・・お母さんは、今年のお米の生育の悪さの方が問題だと思うわ」



 この年、冷害型気候で作物の育ちが非常に悪かった。


 ただでさえ、軍に食料となる作物を納め、自分たちの食料に困窮(こんきゅう)している時である。


 しかも、今年の七月から食糧配給量の一割が削減されており、このままでは餓死者が出るのではと危惧(きぐ)されていた。



「恭一郎は体が大きいから、足りないんじゃないかしら・・・」



「そうね・・・ホント、よくあそこまでデカくなったよね。私、最初見た時、恭兄ぃって信じられなかったもん」



「そう?」



「だって、お母さんより小さかったのに、玄関を屈まないと入れないくらいにデカくなって帰って来たんだよ!?」



「私は、東京の病院にお見舞いに行った時、すぐに分かったわよ?」



 そういうと、恭一郎の母親は、手に持った皿に視線を落とした。


 そして、悲哀のこもった眼差しで、素焼きの表面をジッと眺める。



「あの子、私と五年ぶりに会って、最初に何て言ったと思う?」



「・・・・ただいま、とか?」



「『心配ない。大丈夫、これくらい』・・・・だって」



 すると、素焼きの皿の表面に、にわかに点々と濃い模様が浮き上がった。


 それが母親の涙だと気付き、小鈴は言葉を失う。



「左目失明して、右脚に刺し傷受けて・・・・何が、大丈夫なのかしらね」



「お母さん・・・」



「その時、気が付いたのよ・・・やせ我慢するようになったのは・・・私がすぐに、心配でオロオロしてきたせいだって」



 小鈴は掛ける言葉が見つからず、母親の肩に手を添えるのが精一杯であった。


 そして、家族で一番気が弱いのは母親だったと、改めて思い出す。



「だからね・・・もう恭一郎を心配するような事は言わないって、お母さんは決めたの」



「・・・・そっか」



 例年よりも幾分涼しい夏の空に、遅く目覚めた蝉が鳴き始めた。


 心なし弱々しい鳴き声は、子を思う母親を(なぐさ)めるように、どこか寂し気に響き渡るのだった。

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