-螺鈿の葬列- 18
雪がしんしんと降っている。
はらはらと舞い降りてくる、その姿を、水谷は中天を見上げて凝視した。
灰色の雲に同化していて、いずこから来ているのか見定められない。
桜の梢越しに見ると、まるで冬に、桜が舞い散っているかのように見える。
それが水谷には、何とも不思議であった。
「圭吾」
振り向くと、散華が縁側で控えめに笑っていた。
手招きするので水谷が歩み寄ると、懐中時計を目の前に差し出される。
「遅れるぞ」
「わっ、本当だ!そろそろ行かないと」
現在、水谷は、神保町にある、小さな出版社で働いていた。
詩人や小説家には憧れていたが、読むのと作るのとでは勝手が違う。
いくら詩歌や小説が好きとは言え、それを自分で生み出す才能はないと思っていた。
しかし、どうしても自分の心の支えとなってきた文学に関わりたかった為、編集という仕事を選んだのである。
ただ、扱っている作品が、官能小説なんだよね~・・・
よりにもよって、なんでそんな低俗な内容を扱ってるのかと言えば、やはり、そこは縁があったからと言わざるをえない。
憧れの詩人や小説家が立ち上げた出版社は敷居が高く、大手出版社は、偽名を名乗らなければならない事情で無理であった。
でも、まさかあんな形で入れるなんて・・・
ある日、希望した出版社に断られ、喫茶店で落ち込んでいたところ、水谷は、カウンターの隣の席に座っていた男性に声を掛けられた。
そして、世間話や文学作品について話し込んでいるうちに、何故か、その男性の勤めてる出版社に、入る事になってしまったのである。
風俗雑誌を扱ってるせいか、非常にゆるい会社であった。
身元確認などしないし、社員同士は愛称で呼び合っている。
水谷に声を掛けた男性は、編集者でなく会計係だったのに、いきなり文芸部に乗り込んで、「明日からココで働くそうだよ」と言い出して、部長も「あ、そうなの?」という始末であった。
ハッキリ言って、ヒドい・・・そして、便乗した自分もなかなかだよな~・・・
ただ、こういう成り行きだからといって遅刻して良いワケではないし、仕事が出来なければ当然怒られる。
水谷は迫りくる締切の事を思い出し、重々しい溜息をついた。
「校閲、終わりそうか?」
水谷が泣きそうな顔でうな垂れると、散華はおかしそうに笑った。
しかし、一緒に笑える余裕は、水谷には無い。
「お前は、細かい仕事が苦手だからな」
「遅いって、ずっと怒られてます・・・」
「丁寧だからだろ」
「そうやって励ましてくれるの、散華さんぐらいですよ~・・・」
水谷が更に溜息をつくと、散華は軽く肩を叩いてきた。
『瘴気』を払ってくれたかように、水谷は、ほんの少し体が軽くなるのを感じる。
しかし、締切のプレッシャーから、憂鬱な気分は完全にはぬぐえず、うめきに近い溜息をついた。
「じゃあ、行ってきますね~」
散華から傘を手渡されると、水谷は踵を返した。
革靴が、わずかに積もった雪に沈む。
「勘三郎」
急に本名を呼ばれ、心臓が飛び出るほど驚いた。
水谷が慌てた様子で振り返ると、散華が裸足で降りて来る。
水谷の肩に両手を置くと、眉間にシワを寄せて目を細めた。
「ど、どうかしました・・・?」
散華のヒドい仏頂面に、水谷は大いに戸惑った。
何か余程の事をしたのかと、冷や汗が出る。
「笑顔だ」
「え?」
「笑顔を見せろ」
水谷がきょとんとしていると、散華は目元を引きつらせた。
その顔がおかしくて、水谷は吹き出すように笑う。
「散華さん、励ましてくれるのは嬉しいんですが、そんな顔じゃ笑いづらいですよ~」
「あ・・・」
「散華さんも笑顔ですよ~」
水谷がケタケタと笑うと、散華は控えめに口元をほころばせた。
新緑に隠れる桜のように、こんなに静かに微笑む人を、水谷は他に知らない。
「頑張って来ます」
水谷がふんわりと微笑むと、散華は、水谷の頭に積もった雪を軽く払って苦笑いを浮かべた。
そして、足を冷たそうにして縁側に上がる。
「体、壊すなよ」
「はい。いってきます!」
水谷は散華に背を向け、雪原のような庭へと歩いて行った。
縁側から等間隔に、足跡が点々と出来ていく。
坂を下ろうとした所で振り返ると、予想に反して、すでに散華は部屋の奥に姿を消していた。
「散華さん・・・?」
自分やカエデ、東雲が出掛けたり帰る時は、いつも坂を下って行くのを最後まで見送る。
ところが、今日に限って、降りる前に見送るのをやめていた。
よっぽど寒かったのかな・・・
しかし、水谷は会社に遅れそうだった為、その違和感を保留にせざるをえず、足早に坂を下りて行く。
後に、その時の判断を、水谷は一生後悔するのだった。




