-螺鈿の葬列- 17
「冷たっ!」
廊下の板の間を踏むと、慣れない冷たさに『シキ』は思わず叫んだ。
足だけでなく、底冷えする寒さが、『シキ』の体全体を冷やしていく。
『シキ』は真っ暗な作業場に足を踏み入れると、キョロキョロと辺りをうかがった。
「・・・・あれ、この辺に・・・・」
『シキ』は手を壁に当て、照明のスイッチを探した。
場所は分かっていたが、いつもと視線の高さが違う為、距離感が全くつかめず、壁をなでては空振りする。
「・・・あ!」
それらしい突起を見つけて跳ね上げると、白熱電球の橙色の光が輝きだした。
お天道様みたいに光るそれを、『シキ』はワクワクとした様子で見つめる。
そして、真下まで近寄ると、そっと指先で触った。
ほんのり温かかった為、手先を温めようと、『シキ』は指先で握り締める。
「熱っ!」
人差し指が、ヒリヒリするのを眺めていると、少しずつ痛みが和らいでいった。
そんな指先の変化に、『シキ』は目を輝かせる。
「お・・・・・・面白~い!」
玄関の鍵を開けると、そのまま『シキ』は裸足で飛び出した。
体がフワフワと浮いているような感覚に、小首をかしげて立ち止まる。
裸足であるにも関わらず、痛みもなければ踏みしめている感覚も曖昧であった。
・・・砂利って、もっとゴツゴツしてなかったけ・・・?
違和感はあったものの、こんなものかと大して気にせず、『シキ』は縁側の方に視線を送った。
視線の先には、桜の古木が立っている。
所々色付き始めており、駆け寄ってみると、完全に色を変えた葉が地面に散らばっていた。
綺麗・・・
拾い上げてみると、雨に濡れたワケでもないのに、わずかにシットリしていた。
枯れているように見えるのに、まだ瑞々しい。
ボクたちと同じ・・・死にかけているけど、まだ生きている。
『シキ』は、ほのかに微笑を浮かべた。
そして、いとおしい者を見つめるかのように、桜の古木を見上げる。
こうして真下から見上げていると、桜と見つめ合っているようで、水谷も『シキ』も、心が安らかになるのであった。
そう言えば、散華さんの作品も、桜が多いな~。
金粉をまぶして描いた蒔絵の桜は、神々しくて、心が洗われるようであった。
ただ、散華の作る荘厳な世界に躍り出たい気持ちはあっても、『シキ』は、いつもジッと遠くで眺めている。
桜の花びら一つ揺るがすだけで、散華の作り上げる世界を台無しにしてしまいそうで、怖かったからであった。
でも、その中途半端な干渉が、美しい世界に妥協点という欠陥を生み出し、駄作という烙印を押させてしまっているのである。
作品が破綻して、散華が少なからず気落ちするのも、本当にいたたまれなかった。
―――でも、今は違う
ふいに、『シキ』の口元が、わずかに吊り上がった。
成り代わった今なら、『無害化』する事は不可能であり、水谷と『シキ』が、ココに居続ける理由もない。
あとは、ボクたちが居なくなればいい。
しかし、坂に向かって歩き出そうとしたところで、ぐらりと視界が揺らめいた。
『シキ』は、何とか倒れ込むのをこらえ、桜の古木にしがみ付く。
思い通りにいかない体に、『シキ』は小さく舌打ちした。
もしかして、このフワフワするの・・・睡眠薬のせいかな
水谷は、『隠世』の恐ろしさに眠れず、医者に先ほど飲んだ睡眠薬を処方してもらっていたのである。
ココに来てからは、しばらく飲んでいなかった。
カエデから受けた鍛錬による自信と、散華という強力な助っ人がいる安心感から、薬に頼らずにすむようになったからである。
この半年間の事を思い出し、焦点の合わない視界が、更ににじんだ。
帰るぐらいなら・・・死んだ方がいい
瞼を閉じて桜の幹に顔をすり付けると、その感触が、急にハッキリと頬に伝わって来た。
ごつごつとした表面は、どこか温かかく、『シキ』は爪を立ててしがみ付く。
「『シキ』」
聞きなれた声に呼び掛けられ、『シキ』はハッと顔を上げた。
散華が縁側に立っており、神妙な顔でジッと『シキ』を見つめている。
その無機質な表情に、『シキ』は、初めて名を呼ばれた嬉しさが、急速に鎮まりかえった。
そんな『シキ』の心境を読み取ったのか、散華はいつもの苦笑いを浮かべる。
「上がって来い。体が冷える」
「怒らないんですか?」
「怒らせるような事をしたのか?」
しばらく散華の顔色をうかがっていた『シキ』であったが、散華の寒そうな様子に、慌てて縁側に駆け寄る。
「あ~ぁ・・・足が泥だらけだぞ」
縁側に上りかけ、『シキ』は慌てて止まった。
すると、散華は吹き出すように小さく笑うと、寝室から作業場の方へと出て行く。
ほどなくして、その手に雑巾を持って戻ってくると、『シキ』に拭くよう手渡した。
「・・・・ふ~んっ!・・・」
しかし、意外と足に付いた泥というものは取れなかった。
皮膚の溝に入り込み、こすっても汚れが伸びるだけである。
雑巾を片手に『シキ』が奮闘していると、その横で、散華は火鉢に火をつけ始めた。
『シキ』が、ジッと炭火を眺めていると、散華は呆れ顔でつぶやく。
「絶対に炭に触るなよ」
「どうして触ろうとしたのが分かったんですか?」
「目がワクワクしてる・・・」
「全部お見通しなんですね~」
『シキ』がケタケタ笑うと、散華は溜息交じりに苦笑いを浮かべた。
側にあった布団を手に取ると、落とすように『シキ』に掛ける。
「火鉢抱いて布団被ってろ」
「あの・・・体を取り返しに来たんですよね?」
「いいや、様子を見に来ただけだ」
「・・・えぇ?」
「俺が、どうこう出来る問題じゃない。返せと言ったところで、返さないだろ」
「でも、散華さん・・・『鬼喰らい』じゃないですか」
「東雲にも言っているが、『鬼喰らい』が人の心を救えるなんておごりだ」
「そんな事・・・」
「それより、東雲に何か言われたな?」
『シキ』は、目を見張って散華を見た。
そして、叱られた子供のように、しょんぼりとつぶやく。
「具合が良くなったら、帰れって・・・」
「まったく・・・それが、俺やお前の最善だとか言われたんだろ?」
「え・・・あ、はい・・・」
「俺達を心配して言ってはいるが、アレは、アイツにとっての最善だ」
「姐さんにとっての最善・・・?」
「アイツは最悪の事態を常に考えているからな。お前が殺されないかと心配しているんだ」
「『裏御前』に・・・ですか?」
「カエデにだ」
『シキ』は息を呑んだ。
散華は、『シキ』から視線をそらすと、赤々と燃える火鉢の炭を凝視する。
その光が、暗澹たる瞳を際立たせた。
「カエデは、『裏御前』の制裁役・・・人殺しだ」
炭火が爆ぜると同時に、『シキ』の鼓動が、嫌な音を立てて体に響いた。
散華も苦心しているのか、額に手を当てて小さくうめく。
「だから・・・姐さんは、帰れって・・・」
「まして、お前はカエデに惚れてるからな。好きな女に殺されるなんて、最悪だろ」
『シキ』は、きょとんとした顔を散華に向けた。
すると、散華は不思議そうな顔で見返す。
「なんだ?」
「え、今・・・なんて」
「好きなんだろ?カエデの事が」
『シキ』は、顔を真っ赤にして慌てふためいた。
そんな様子に、何を今更といった風に、散華は目を細める。
「変化でカエデの姿になっただろ?あの出来栄えを見れば一目瞭然だ」
「な、な、なんで!?」
「本人より品があって美人だった」
そう言うと、散華はイタズラっぽく、ほくそ笑んだ。
『シキ』は恥ずかしさのあまり、布団を手繰り寄せて顔を隠す。
「まぁ、来た時から気付いてたけどな。だから俺は、端から諦めてた」
「諦めてた、って・・・?」
「俺が断って追い返したところで、お前をカエデから引き離すのは無理だってな」
『シキ』は、ますます顔を真っ赤にした。
穴があったら布団ごと隠れそうな様子に、散華は小さく息をつくように笑う。
「わ、笑わないで下さいっ・・・」
「すまない。ただ、あの空気読めない女じゃ、苦労するだろうと思ってな」
「・・・やっぱり、そう思いますか?」
「『きらら』を『無害化』するのは、本当に苦労した・・・まとまらないんだ。好き勝手で、やりたい放題だからな・・・」
「・・・ボクと真逆ですね」
「それでも、俺が完成まで漕ぎつけられたのは、そうまでさせる何かが、アイツにあったからだ」
そう言うと、散華は、かすかに口元をほころばせた。
『無害化』の最中、『シキ』がほんの少し前に出て来た時に見せる、静かな笑みであった。
「『シキ』、俺が今までに他人を『無害化』した人数、当ててみろ」
「・・・え、え~っと・・十人くらい、ですか?」
『シキ』の答えに、散華は苦笑いを浮かべた。
さすがに少な過ぎたかと思い、『シキ』は申し訳なくなって身をすくめる。
「カエデと東雲だけだ」
「・・・え?」
「俺が滅多に外出しないせいもあるが、十年に一度ぐらいしか、自分から『無害化』したいと思える人物に出会わない」
「―――」
「『シキ』―――お前も、その一人だ」
不意に、『シキ』は瞳からポロポロと涙をこぼし、呼吸が上手く出来なくなった。
人の体の不可思議さに、『シキ』は大いに戸惑う。
「お前も絶対に完成させてみせる。そうさせるモノが、お前にはある」
「・・・嘘だ」
「嘘じゃない」
「・・・体を返させたいだけですよね・・・だって・・・皆、ボクを・・・」
『シキ』は、ゆらりと立ち上がって、被っていた布団を、頭から落とした。
眼鏡を外し、畳の上に放り投げる。
その瞳に暗い影を落とすと、散華からわずかに距離を置いた。
「師匠も・・・姐さんも・・・・・・散華さんも・・・」
「『シキ』?」
「ボクがココに居るべきじゃないって・・・思ってますよね!!」
床に手を付き、『シキ』は上体を低く構えた。
そして後ろ足を大きく蹴り上げ、勢いよく散華に飛び掛かる。
倒れ込んだところを抑え込み、首元目掛けて犬歯を剥いた。
「―――っ!!」
寸でのところで、散華は掌で、『シキ』の顔を抑え込んだ。
噛みかかろうとする『シキ』を、両手に力を込め、必死に押し返す。
「ココに連れて来たのは・・・間違いだって・・・皆、思ってるんですよね!?」
「『シキ』・・・落ち着けっ!」
「助けられたらいけないんですか!?それって、死ねって事じゃないですか!!」
「誰も、お前が死んでいいなんて思ってない!!」
「だからっ・・・だから、これ以上、自分たちに関わるなって思ってるんでしょ!?」
掴まれた顔を突然離され、『シキ』は体勢を崩した。
危うく顔面から床に落ちそうになるところを、散華に締め上げられて紙一重で助かる。
起き上がろうともがいたが、締め付ける腕の力が思いのほか強く、全く身動きが取れなかった。
文字通り手も足も出ず、『シキ』は苛立たし気に、散華の耳元で喚き散らす。
「だからあの時、謝ったんですよね!?」
「―――!?」
「師匠を連れてきた事じゃなく、こんな事に巻き込んで、すまなかったって!」
「あぁ、そうだ!こうなる予感がしてたのに、黙ってるべきじゃなかったからな!」
「やっぱりそうじゃないですか・・・後悔してるじゃないですか!!」
『シキ』は身をよじると、散華の肩に思い切り噛みついた。
ジクッとした感触と共に、口の中に血の味が広がるのを『シキ』は感じる。
ぎこちなく動く散華の右腕が、痛そうに『シキ』の頭に伸びた。
「俺は、浅はかで自己中心的で薄情だ!だから、お前に帰れなんて言わない!!」
『シキ』は、スイッチを切られたかように押し黙った。
微動だにしないでいると、頭に大きな手が添えられる。
「お前の言葉を借りれば、『裏御前』ごときで、十年来の幸運を手放すか」
「――――」
「後悔するぐらいなら、名前を聞く前に、追い返してるに決まってるだろ!」
口の中に広がる鉄の味に、『シキ』は、急に取り返しのつかない事をしたと焦りを覚えた。
発作を起こした時みたいに、うまく呼吸が出来ない。
『シキ』が嗚咽し始めると、散華は悲哀のこもった目で、天井を見つめた。
「だから・・・帰って来てくれ」
『シキ』は泣きながら、何故か不意に、亡くなった祖母の事を思い出した。
病の苦しさにたえられない時、家族に虚言癖だと罵られた時、いつも寄り添ってくれた、優しい人。
その手も、眼差しも、ひだまりのように穏やかで、自分の唯一の理解者であった。
その祖母が死んでから、ずっと独りであった。
誰も、『シキ』の存在を信じてくれない。
自分の居場所は、いずれ入るであろう霊安室だと、病院の寝台で諦めていた。
そんな事を思い出しながら、『シキ』は、かすれた声で散華に問い掛ける。
「・・・いいんですか?」
「イイも何も、帰られたら困る」
「・・・身の回りの世話が、必要だからですか?」
「馬鹿・・・『無害化』しない『鬼喰らい』なんて、生きてる価値ないだろ」
「・・・そんなことないですっ」
『シキ』は、飛び起きるように上体を起こし、散華を見下ろした。
困惑する『シキ』に、散華は苦笑いを浮かべる。
「俺に生きてる価値があると思うなら、ココにいてくれ」
あふれ出て来る涙が散華の着物に落ちていくと、そのすぐ側に、黒い影が寄り添う。
見ると、『シキ』が猫なで声を上げ、乞うように水谷を見上げていた。
水谷は、慌てて散華の上から、転がるように体を下ろす。
「散華さんっ、大丈夫ですか!?」
「あぁ」
散華が痛そうにゆっくり起き上がると、それを待っていたかのように、『シキ』は、散華の膝の上に飛び乗った。
そして、小さくあくびをすると、身を丸めて眠り始める。
我ながら厚かましいと、水谷は小さく溜息をついた。
「おかえり」
急に声を掛けられ、水谷は一瞬戸惑った。
しかし、小さく息をつくと、ぼんやりとした笑みを返す。
「『隠世』の方は、大丈夫だったか?」
「姐さんの方が、オロオロしてました」
「アイツは追い込まれると、急に弱気になるからな・・・」
「姐さんの方が気の毒になってしまって、さっきまで与謝野晶子さんの詩についてお話してました」
「お前の方が、よっぽどシッカリしてる・・・」
散華は、吹き出すように苦笑いした。
そして、昇り始めた陽の光を浴びながら、ぎこちなく体を伸ばす。
しかし、腕を真上に上げた所で、痛そうに縮こまった。
「散華さんっ・・・怪我、大丈夫ですか?」
「大したことない」
「・・・本当にすみません」
「気にするな。それより、成り代わった『シキ』が、身を誤らなくて良かった・・・」
「睡眠薬で足止め出来なかったら、今頃、神田川に浮かんでいたかもしれないですね」
水谷の言葉に、散華は目の奥に暗い影を落とした。
その表情から、水谷の死を、本人よりも深刻に思っている様子が伝わって来る。
「・・・すみません、成り代わるのが大変危険だと、身に染みました・・・」
「この身を呪わない日なんか、一日たりとも無い」
「・・・え?」
「好きで・・・独りになったワケじゃない」
そう言った散華の瞳には、暗い影が全体に満ち満ちていた。
その影が、瞳の奥で炯々と光る、強い意志を際立たせており、水谷は言葉を失う。
「『シキ』の作品は、必ず完成させる」
「――――」
「だからお前も、俺の最善に付き合え」
散華の言葉に、水谷は、今までの過ちに気付かされた。
『無害化』に失敗していたのは、散華が自分の『鬼』を出し過ぎたせいではない。
勝手に散華の人柄を決めつけ、寄り添わなかったのは自分の方だったのだと。
暁に浮かんだ散華の影に、水谷は寄り添うように距離を縮めたのだった。




