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短編集

雨と降る

作者: 東風

 激しい土砂降りの中。

 軒下で雨宿りする私の前で、ビニール傘をさした男女が激しく揉みあう。

 仕立ての良い紺のスリーピースを着た男が、仏頂面で傘を女にさしかける。広く胸の空いた白いブラウスにオレンジのタイトスカートを着た女は、男の手を邪険に払う。

 男の手が女の肩にかかると、女は綺麗に整えられた眉を跳ね上げた。


 唐突に始まった修羅場に、私は瞬きすらできず、ガン見する。

 結局、もみ合いの末、女が男の頬を叩いて去っていった。すると、一ブロック先に停まっていた車がスーッと動き出し女のそばによる。女はそれを避けるでもなく近寄って行くと、助手席のドアを当たり前のように開き、振り返ることなく体を滑りこませた。雨音が激しすぎて途切れ途切れだが、確かに女の笑い声と追従するような男の声が聞こえたと思った。

 こちらに走ってきた車のフロントから、先ほどの女と、彼女の方に腕を回し片腕で運転する男が見える。

 あぁ、本当に修羅場だ。

 何があったかわからないけど、なんとなく察することができてしまうのが、余計に気まずい。

 私はここを動けない。

 庇と傘に打ち付ける水音が、周囲に誰もいないことを知らしめる。

 私と傘の男以外。

 こういううときほど、通りすがりの空気ぶち壊しの何かが欲しいものだけど、生憎の土砂降りは無駄な外出を戒めていた。

 朝の天気予報で傘が斜めになっていた時点で、外出をやめていればよかったのだ、私も。


 表情を失い呆然とする男は、しばし立ち尽くしたあと、私に気づいた。

 決まり悪そうに頭をガシガシとかき乱すので、私は凝視していたことに今更ながらに気付き、慌てて目を下げる。

 私の視界から男が消えた。同じように、彼の視界からも私が消えればいいのに。


 傘を叩く激しい雨音が耳に障る。

 その音は数瞬の後、徐々に近づいてくる。

 ちょっと! どこに行く気? なんでこっちに来るの? 後ろにあるのは貸店舗の張り紙をした古びたシャッターだけ。私の貧しい想像力に、男がこちらに来る理由が思い浮かばない。

 静かにパニックを起こしていると、下げた視界に、男物の革靴が入った。

 何、コレ? ホラー? 世にも奇妙な何か?

 革靴は私の前にきちっと揃って止まり、動こうとしない。

 心臓が痛い。怖すぎる。今の状況が怖すぎる。

 イヤ、もしかすると、男は迷子なのかもしれない!

 ここからどうやって帰ればいいかわからなくて、道を聞きに来たのかも?

 必死に自分に言い聞かせ、この状況を打破するべく恐る恐る顔を上げると、怖い顔の男が私を見下ろしている。

 怒鳴られるのか?

 八つ当たりされるのか?

 傘で刺されたらどうしよう?

 私が鞄を胸に抱えて身構えていると、怖い顔の男は無言のまま、片手を突き出してきた。

 それは傘を持った方の手で…。


 あ、このシチュエーション、知ってる。

 私の脳裏に、幼い妹を連れた少女、雨の中ボロボロの傘を差し出すこわばった顔の少年が浮かんだ。

 子供の頃に一度は見るだろう、そして空を飛ぶことに憧れるだろうあの映画。


 私が現実逃避している間に、阿修羅の如き憤怒の男は、眼力だけで私を殺せると言わんばかりに睨み続けていた。

 やだ。やっぱり怖い。

 怖気づいて立ち尽くす私に、明らかに男は苛立っていた。

 差し出された傘に、それが親切だろうことは私にだってわかっている。

 でも! でも、だよ?

 傘を手にした瞬間に何が起こるか、わからないじゃない!

 行動と表情の乖離に、恐怖しかない!

 あのアニメのように、親切なら親切らしく、傘をおいてとっとと立ち去ってほしい!

 私は泣きそうになって、塗装の剥げたシャッターに背中を押し付けた。


 「これを使ってください。安物だから、気にしないで」

 降ってわいた穏やかな声に、びっくりして顔を上げる。

 男はまだ眉間に深いシワを寄せ、男らしい眉の下から鋭い眼光をのぞかせていたけど、さっきまで食いしばられていた口は解け、予想以上に穏やかな声を紡ぎだしていた。

 「俺は……雨に当たりたい気分なので。……理由は、わかるでしょう?」

 皮肉っぽく自嘲するさまが、痛々しい。

 男はもう私に視線を合わせようとせず、やや斜め下を向いて、傘全体に響くようなテノールの声で、ぼそぼそと呟く。

 私が恐る恐る手を伸ばして傘を握ろうとすると、男はホッとしたように顔をゆるめ(それでも眉間に二本深いのがあったけど)、傘から手を離した。

 早すぎる!

 私の指先で傘が揺れて落ちる。

 白い柄が描く空中の軌跡だけを追って手を伸ばす。


 ふと気づくと、私と男は地面にしゃがみこんで、お互いに同じ傘の柄をしっかりと掴んでいた。

 大きくて温かい手が、私の手を包み込むように握りしめている。

 私がその手を見て、続いてその手をなぞるように男を見上げると、男は目に見えて頬を赤らめ、私から手を離した。

 「す、すみません! しっかり確認もせずに、手を、離して、しまって」

 途切れ途切れの謝罪を口にしながら、男は自分の顔を隠すように左手で顔を覆う。

 「じゃぁ、俺はこれで……」

 男は固まった私から体ごとそむけ、雨の中に踏み出していく。

 私に向けられた男の背中は、まだ庇の下にあるのにびしょ濡れだ。

 そういえば、と手に残された傘を見る。

 男はこれを腕いっぱい伸ばして、足早に歩く女にさしかけていたのだ。

 自分を置き去りにしようとした女のために。


 深く考えたわけじゃない。

 体が勝手に動いていた。


 数歩先の男に追いつくと、私は背の高いその人の頭に届くよう、さっきの彼と同じように腕をいっぱいに伸ばした。激しい雨が背中を叩く。紺色のフレアスカートは、水を吸って黒くなっていた。

 男が振り向いて、ギョッとしたように目を見開く。

 思いの外、表情豊かな人らしい。

 男らしい太い眉は上がったり下がったり忙しく、眉間にあるシワはその本数が微増減する。大きめの口は体中に響くような豊かな声を吐き出す。上ずってても、お腹の奥にストンと落ちてくる素敵な声だ。

 私は楽しくなって微笑んだ。


 「あの、私も駅まで行くんです。ご一緒しませんか?」

 ずるいかな、と思いつつ、小首を傾げてみせると、男は思ったとおり、目に見えて狼狽えた。

 「いや、俺、一人で……」

 「お気持ちは私もわかるんですけど、ね、考えてみてください。

 同じ道をそれほど離れていない間隔で歩いているのに、片方が譲られた傘を持っていて、片方が傘を譲ってずぶ濡れで。

 なんか、いたたまれないと思いませんか?」

 男の眉間に何本もの深い峡谷が現れたけど、彼は怒っているわけではないらしい。眉が思いっきり下がっている。

 「それは……確かに」

 あ、納得しちゃうんだ、ソレで。

 拒否されたら泣いてみせようか、とまで勢い込んでいた私は拍子抜けした。

 その隙に、男はゆったりとした動作で、私の持っていた傘を私から奪う。

 了解も得ないで傘を持って行ったのに、その強引で傲慢な態度は、私の背中に傘をさしかけるためで。

 「すみません」

 しゅんと大きな背を縮めるさまが可愛らしい。

 狭い傘の中、息が届くほどに近い距離で、私は初対面の男を見上げている。

 何とも不思議な気持ちになった。


 今朝までの私は、何を考えていただろう?

 決定的になっていた別れ話。同じ職場で私たちが付き合っていたことは、部内の誰もが知っている。

 そして、彼が誰と私を二股かけていたかも。

 別れずに済む方法ばかりを、私は探していた。

 仕事に行きづらくならないように。

 今までの自分が惨めにならないように。

 これ以上、嫌われないように。

 今思うと、そこに恋情があったとはとうてい思えない。ただただ、私は惰性でこれまでの生活の続きを求めていたのだ。

 彼好みの清楚な白いブラウスに紺のフレアスカート。ダークブラウンの髪は、三つ編みで頭を囲うように結い上げている。

 本当はもっと、ボーイッシュな服装が好きだ。洗い晒しのスキニージーンズに、だぼっとしたTシャツ、髪は肩口で揃えてバレッタで留めて。

 いつの間にか、私のクローゼットは彼の好みに満たされていたけど、ずっとずっと奥の方には、まだ本当の私が息を詰めて隠れている。

 曇天の空と同じように泣き出しそうな気持ちで、待ち合わせに急いだ。

 彼は私が先に来ているのが好きだった。少しでも私が遅くくると、例えどんな理由があっても激しく詰ってくる人だった。


 今、私の目の前にいるのは、彼とは全く違う、見ず知らずの男の人。

 全然知らないのに、私を気遣ってくれる、とてもとても優しい人。


 激しい雨の中に取り残され、辛うじて駆け込んだ庇の下で遠ざかる車を眺めていた。

 少し離れたブロックで止まった車に、僅かな希望を感じていた。

 でも、その車は、その後にきた女を乗せて、私と残された男を笑いながら走り去っていった。


 ずっとずっと知っていた。

 彼が私を愛していないことくらい。

 彼が、彼女と共に、私を笑い物にしていたことくらい。

 でも、好きだった。

 好きになって欲しかった。

 心のどこかで、彼の心が手には入らないことに気づいて、とっくの昔に諦めていたとしても。


 「本当は私も、雨に濡れて帰りたかったんです。だから一緒に、歩いてくれませんか?」

 男が大きく目を見開いている間に、私は彼の手からまた傘を取り戻し、そっと畳んだ。

 頬を伝う雨は温かくて、気持ちいい。

 きつくゆっていた髪も、ゴムとリボンをはずして解いてしまう。

 頭を一振りすると、ほどけた髪からあちこちに水滴が飛び散った。

 男はどこかまぶしいものを見るように目を細めて私を見ている。

 「これじゃぁ、可愛い服がびしょぬれですよ」

 男は困ったように、呆れたように、軽く微笑んだ。案の定、眉間にはしわが刻まれたままだ。

 それでも、優しい指先が、私の頬に張り付いていた髪を払ってくれる。

 「いいんです。この服、全然好きじゃないから……」

 私も微笑み返した。


 朝の私に言ってあげたい。

 私、ちゃんと笑えてるよ、って。

 心から笑えているよ、って。


 瞼が熱くて、声は震えているけど、大丈夫。

 だってこれは、私が新しく歩き出すための準備。

 落ちていく水滴と一緒に、淀んでいた澱も流れ出すから。


 「ご一緒、してくれますか?」

 男は、眉間にしわを刻んだまま、それでも精一杯の笑顔を浮かべてこう言ってくれた。

 「喜んで」

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