名前を呼んでよ
今日は、呼んでくれるだろうか。
*
「志穂、今日どうすんの? おれ、部活ないけど」
志穂のクラスのドアの前、二年五組の教室で立ち止まって、おれは志穂に放課後の予定をきいた。少し前にいろいろ騒がれたけど、志穂とは前みたいに、一緒に学校に来て帰るようになった。
じつをいうと、おれは、志穂の携帯の番号とかアドレスとかを知らない。幼なじみで家が近いっていうこともあるけど、わざときいていない。そうしたら、志穂の顔を見に教室へ行ける。ちょっとの間でも話ができるから、おれはききたいことができると――いや、ききたいことをつくって――、志穂の教室へ行くんだ。
「うん、あのね――、お茶会が近いから今日もまたクラブあるんだ。だから、先に帰っててくれていいよ?」
志穂はなんだか、そのことを口にするのを迷っているようにみえた。
志穂の額にかかる短い前髪を見ながら、おれはきいた。
「何時になんの?」
「えっと、わからない。この前みたいに、六時くらいになるかも。今日は五時間目までしかないし、あの、だから先に帰っててね?」
先に帰っていいって、二回も言われるとなんか傷つく。この前みたいに、待っていたらダメなんだろうか。
少しの間、黙ったおれをどう思ったのか、志穂は慌てたように言った。
「あのね、三時間くらい時間が空くよね? だから、悪いよ。宿題だってあるんだし」
そう言っている志穂の声は、なぜかどんどん小さくなっていった。
「宿題は待ってる間にできるじゃん。図書室だったら静かだしさ」
「でも、三時間もかからないよね? お腹もすくし」
うつむき加減だった顔をぱっとあげて、志穂は一生懸命な感じでそう言った。
…………迷惑なんだろうか、これって。
騒がれた次の日の朝、前にしてたみたいに公園の入り口で志穂を待った。いつもは入り口の低い黄色い柵に寄りかかって待ってたけど、その日は緊張していて、寄りかからずに、おれはしゃきっと立っていた。久しぶりに早く起きて用意したから、制服をちゃんと着られていなくて、髪もたぶんボサボサだった。志穂が入り口の前に、おそるおそるっていう感じでやって来て、足をとめた。
――――あ、あの。おはよう、優くん。
――――お、おはよう、志穂。
おれは、つかえて返事をした。志穂はいつもみたいに、セーラー服をちゃんと着ていた。襟とおなじ色の、なんだあれは、リボンっていうのか? たぶんリボンだ。今日の天気みたいにどんよりしたグレーの色だ。その色のリボンをきれいに締めていた。
……志穂って、なに着てもかわいいよなあ……。
たとえどんよりした色の服だって、志穂が着てたらちがうものに見える。
そんな志穂からきくおれの名前って、正直言おう。なんかキラキラして聞こえる。
こんなこと、クラスのやつらに絶対言えねえけど。
志穂の目はくりっとしていて、鼻はたぶん、そんなに高くないけど唇はぷくっとしている。肩にかかっていない髪型は、セーラー服によく似合ってると思う。黒い髪が風に吹かれてサラサラって揺れる瞬間なんて、たまらなく好きだ。そういう瞬間を見ると、志穂に手を伸ばしそうになっている自分がいる。
髪とか、手とか触ったら、どんな感じなんだろう。
そんなことを考えて、おれはずいぶん、ぼさっと突っ立っていたんだろう。志穂が少し不安そうな顔でおれを見ているのに気づいた。それもあって、その日は気にしなかった。緊張もしていたし。
でもあとから考えたら、志穂はなんか困っているようにみえた。それに、それにその朝を最後に――――……。
「あのね、今日は忘れ物ないから、だいじょうぶ。いつも、ごめんね。遠いよね、ここまで来るの」
もやもやと考え込んでいたおれは、志穂の声ではっと気づいた。
「そっか、わかった。でも、おれさ」
遠いなんて思ってない――――、そう言ったけど、別の声がそれを消した。
「なあ垣田さん、漢字の宿題やった? おれ自信ないとこあってさ、あとで答え合わせしない?」
「え? あ、戸波くん」
いきなり志穂とおれの間に割って入ったそいつは、志穂と同じクラスで、席が志穂の前の戸波だった。志穂のクラスはこの前、席替えがあったみたいで、この戸波ってやつは志穂の席の前になったらしい。なんでそんなこと知ってるかって? こいつはいつも志穂に話しかけてんだよ。おれが五組の教室に行ったら、絶対、こいつと志穂が話してる。
っていうか、漢字の答え合わせ? そんなもん、ケータイか辞書で調べろよ。なんで志穂にきくんだよ。志穂をのぞいた、お前の前後左右対角線上の席のだれかにきけよ。
「戸波くん、そんなこと言って、いつもほとんど満点だよね? わたし、国語はそんなに得意じゃなくて」
志穂は自信がなさそうにそう言った。
「国語っていうか、漢字でしょ? 垣田さん、だいたい点数いいじゃん」
「そんなことないよ。それに、やっぱり国語は難しい……」
戸波はさっきから、おれの存在なんかまるで無視で志穂に話しかけている。
志穂は志穂で、おれと目を合わそうとしていないように思う。
教室のドアは、さっきから開けられたり閉められたり、忙しい。みんなどんどん登校してきて、教室にいったん入って、別の教室の友達のところにいくやつなんかもいて、周りもにぎやかになってきていた。
戸波も志穂も、それぞれ、おはよう、とか宿題終った? とか声をかけられていた。
そうだ、戸波。自分の得意な教科を、それが苦手だとわかってる人間にきくなんておかしいだろ。
志穂は、漢字がちょっと苦手なんだ。書き順がなかなか覚えられないって言って、小学生のときも漢字の練習をよくしてたんだよ。だから志穂を困らせるようなこと、するなよ。
そう思って、おれは、はっとした。
最近志穂は、おれといると困ったような顔しかしない。
それにさっきから、名前を呼ぶのは戸波ばっかりだ。
もしかして、志穂はおれに困っているんだろうか。
あの朝までは、“優くん”って名前を言ってくれていた。
でもそれを最後に、この一週間くらい、志穂がおれの名前を呼ぶのを聞いていない。
楽しそうにしている二人を見ていて、ものすごくおれはむしゃくしゃしてきた。
志穂が一緒にいて楽しいと思う相手は、おれじゃだめなのかも知れない。
そう思ったら、勝手に口が開いていた。
戸波と志穂の会話を断ち切るように、おれはそう言っていた。
「もう勝手にしろよ、志穂。おれの名前も呼びたくないくらい、おれといたくないんだろ」
周りの空気が、しん、となったような気がした。おれは志穂の顔を見れなかった。志穂はいま、どんな顔をしてる? びっくりしてる? 怒ってる? 困ってる?
おれは志穂に背を向けた。そしたら、志穂の声が返ってきた。それは、やっぱり困っているみたいに聞こえた。
「えっ……、あのっ。待って、あの……、す、優く……」
「いーよ、別に。無理に呼ばなくて。もう教室にも来ねーよ」
振り返りもせずに、おれはそう言って走った。
廊下は走るな、という声がどこからか飛んできたけど、無視して走った。
廊下を突っ切って、階段を駆け下りて、下駄箱まで息を切らした。苦しくて下駄箱に寄りかかったら、空が見えた。どんよりと曇った色だった。ああ、志穂のリボンの色みたいだな、そう思った。そしたら志穂の笑った顔が浮かんだ。
小学校六年のとき、漢字のテストの点が悪くて、クラスに志穂が居残ってたことがあった。
おれは宿題でつかう学習帳かなんかを忘れて、それを取りに行った。
志穂は一生懸命机に向かって、テストをしていた。
そのときは、志穂を好きだって自覚がなかったけど、なんとなく気になって、下駄箱にあるすのこの端に座って志穂が終わるのを待った。
すごく寒い日だったけど、ぜんぜん気にならなかった。少しして志穂が来て、おれを見て驚いていた。
“漢字のテスト、できた?”
おれがそうきくと、
“すぐるくん、待っててくれたの? すごく寒かったよね? ごめんね、ありがとう”
志穂は最初は申し訳なさそうに、でも最後は笑って、そう言ってくれた。
……志穂に、笑ってほしいな。って、この前とおんなじことを思った。
あんな風に、困ったようになんて呼んでほしいわけじゃない。
あのときみたいで、いいんだ。最近、おれがばかやって志穂にかなしい思いをさせてしまって、そこからなんかギクシャクしてるけど、志穂がおれに合わせる必要なんてないんだ。
困ってたら、ごめんな志穂。朝、公園で待ってたり、いちいち教室に行ったり、クラブの帰りが何時か聞いたり。
“勝手にしろよ”なんて言ったあとに、やっぱりおれは、志穂の名前を言っていた。
それは、おれは志穂が好きだから、名前で呼びたいからだ。
けど、志穂がおれのことを別に好きじゃなくったって、前みたいに、ふつうにしゃべってくれたらいい。
志穂の困るようなことなんてしないよ。だから、今までどおりでいいんだ。小学生のあのときみたいに、なにも考えずに、呼んでくれたら、いい。
だから、志穂。
名前を、呼んでよ。