吸血鬼の気まぐれ
深夜。繁華街を外れた静かな路地裏。
噎せ返るような血の匂いの中、女がのたうちまわっていた。
尋常な様子ではない。彼女は何かに耐えていた。狂ったように、呻き、あがくその姿に、人間としての尊厳など感じられない。
その姿を長身の男が見下ろしている。
「随分と頑張るな、こいつは」
うずくまる女の傍らでそうつまらなげに呟いた男は、人間ではない。吸血鬼である。
彼らは広く知られている通り、血を啜る。
吸血鬼の多くは、夜な夜な人を襲う化物達だ。
血を吸われた人間は吸血鬼の眷属となる。眷属は吸血鬼とは別のまがい物。吸血鬼ほどの力もなく、ただ衝動に流されるまま血をすするだけの化け物である。
人外としての力もなく、ただ耐え切れない吸血衝動にさいなまれる哀れな贋作。
目の前の女はそれだった。
女は断続的に、不規則な呼吸で喘ぐ。喘ぎながら、自分の腕に牙を立てる。自らの血では、衝動は収まらない。収まらないが、そうしなければ、他の人間を襲わずにはいられないだろう。
女が口を開く。
にげて、と形作っているようだった。周囲には他に人間はいない。どうやら、男に対して言っているらしい。
吸血鬼は、それを無表情で見下ろしている。
女を吸血したのは、彼ではない。彼はたまたま、この場に居合わせたに過ぎない。同族の匂いを感じ取り、この場所へと足を運んだだけだ。
男は吸血鬼ではあるが、血を吸わない。衝動を制御することの出来る例外中の例外、数少ない本物の吸血鬼、所謂真祖である。真祖にとって吸血は、生きるためにするものではなく、己の眷属を増やすため、そして快楽を得るための手段にすぎない。他の真祖とは異なり、彼は他者を吸血したことはない。それはやはり、目の前の女のような存在を、生み出したくは無いからなのだろう。
同族が生み出した哀れな贋作が、人であることに固執するその姿。
彼にとっては見慣れたものだ。
贋作にとって、衝動は地獄の苦しみに他ならない。男が見てきた限り、全ての贋作は結局は耐えられず、人の血を啜った。人を襲う怪物に成り果てて、第二の生を謳歌する。
それを責めるつもりはない。怪物には、怪物の理がある。人が生きるために他種生物を捕食することを容認するように、男は吸血鬼が生きるために人を食らうことを摂理として認めている。生きることは、罪ではないと、そう思わなければこれまでやってこれなかった。
贋作とは、なんと弱く、哀れな生き物なのだろう。そして、そんな存在を生み出してしまう吸血鬼という生き物は、一体何なのか。贋作を見るたびにそう思う。
それにしても、これほど状態の酷いのは初めてだ。あまりに分不相応な器に人外の力。相当長い間耐え続けてきたのだろう。
このままでは衝動に潰される。傍目にも解るほどに、限界は秒読みだった。衝動に従い怪物になるか、そんな自分に耐え切れず、自ら命を絶つか。
(――怪物になる、だと)
男は、自分の愚かさに苦笑する。
女はもはや怪物だ。人の血を求め、狂う。このような生物が怪物でなくて何だというのか。
キン、と路地裏にいやに澄んだ音が響いた。女の歯だった。腕を強くかみすぎていたせいで、外れてしまったのだろう。
そら、見たことか。と吸血鬼は思う。こんな醜態を晒す生物は最早人間ではないだろうに。
見苦しい。
目障りだから、彼は彼女を解放しようと思った。
「辛いだろう。飲め」
男は呼びかけ、自らの腕を差し出す。
女はそれに目を奪われたが、すぐに逸らす。自分の腕を噛む力を更に強くしたようだった。
ずず、と血を啜る音が路地裏に響く。
女の口の周りは血塗れで、まるで下手なピエロのメイクのようだった。滑稽ですらあるその姿を、男はやはり、つまらなげに見つめる。
醜い、と彼は思う。
自分の欲望を否定し、避けようない破滅を知りながら、ただ無意味に耐え続けるその愚かさ。己の正体から目をそらし、未だ人であろうとするその蒙昧。
理解していないはずがない、自分がもう、人ではないのだと。それを認めないのは、一体何のためなのだろう。
「何故、血を絶つ」
わいた疑問を男は口にした。女は応えない。応えられる状況ではない。
ただ、頭をふり、後ずさる。にげて、と声にならない声をあげ、自傷する。
要らぬ世話を焼く気になったのは、答えを求めての事だったか。
吸血鬼は女を強引に引き寄せると、首筋に牙を突き立てた。
女は短く息を漏らし、痙攣する。
多くの吸血鬼は力を得るために血を啜るが、彼が今行っているのは逆だ。吸血の本質は、血液を媒介とした、生命力の移動である。吸血鬼は女に対して、器としての力を与えているのだ。
抵抗は初めだけで、害意がないのを理解したのか、女は身を委ねるように力を抜いた。
牙を離す。彼女の衝動は、ひとまずは収まった。
「あなた、なに?」
「何故、血を絶つ」
女には応えず、吸血鬼は問う。ただその答えを聞くためだけに助けたのだとでも言うように。
「なぜ、って……怖いから」
「何が怖い」
「……人の血を、吸うのが」
「―――――そうか」
そんな単純なことだったのか、と男は幾分拍子抜けしたようだった。
ただ単純に人を襲うのが怖いから、そんな有り様になっていたのか。てっきり、なにか崇高な悟りでも開いていたのかと思っていた。あまりにもつまらない理由だ。けれど、現にこうして白を黒だと言いはった女がここにいる。否定など出来るはずがない。
「……よくわからないけど、助けてくれたの?」
「違うな、人間。器を強化しても、お前の体は一生そのままだ」
そう。吸血鬼は女を助けてなどいない。むしろ逆だ。気まぐれに強い器を与えただけであり、衝動は常に付いて回る。
いっそ殺してしまえば良かったのだ。そのほうが女にとっては安らかな結末であったはずだ。恐らく、女が殺してくれと男に請えば、彼はその通りにするだろう。
しかし、人として幕を引くことも、化物として生を謳歌することも女は選んでいない。このような罪深い不正に、男は手を貸したのだ。普段の彼ならばあり得ない肩入れだ。
きっと魔が差したのだろう。
しかし構わない。長い生の、たった一つの気まぐれにすぎない。意識するまでもなくすぐに忘れるだけの不覚のはずだ。
「――けれど」
振り切るように立ち去ろうとして、出来なかった。勝手に口が言葉を紡いでいた。
「けれど、そうしてお前は今そこに生きている。どんな生き物であっても、生まれ落ちた以上、存在することは世界に許されている。だからお前も、できうる限り命を謳歌するといい」
男は、漸近する破滅を女の中に見た。いずれ、彼女も限界が訪れる。男はただその破滅を先送りにしたにすぎない。ただ、それでも今まで人として在った彼女の強さは覚えておこうと思った。
「あなた、変な人ね」
女は何を思ったのか、男に笑顔を向けた。紫陽花のような笑みだと、彼は思った。一見すれば美しいが、その実、蛆に食まれている。その危うさに心が波立つ前に、男は女に背を向けた。
遠い雑踏、人の営みの音が聞こえる。吐瀉物のすえた臭い。口に残る女の味。
不意に、心がざわついた。
それがどういう思いに端を発したものなのか理解したくなくて、男は色々なことを考えないようにした。何一つ思わず、この感情を抱き続けたくなった。今夜はいつまでも、どこまでも、疲れ果てるまで歩き続けたい。
男は雑踏を踊るように歩きながら、今夜限りの感傷に浸る。