表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
森紫  作者: 和久井暁
7/9

新しい職場

第7章 新しい生き方


翌朝、森紫しんしは馬車に揺られ県事長けんじちょうの屋敷まで馬車で揺られていた。 父が残した書物と両親の骨壷以外は家に置いてきた。

馬車の中は絨毯が敷いてあり、樹影の本の箱が山をなして大半を占めている。 向かいに帆光悦が座っている。

森紫は書物が入った箱を見て、父の気持ちが伝わってくる気がした。

『母さんとお前に迷惑をかけるかもしれない……』

 多分このことだったのだろう。 結局は樹影がこうむった被害のほうが大きかったのだ。

そして森紫は生かされた。 森紫はまず地方官を目指すだけだ。

 そのためには勉強が重要、父の書物だけでは足りない可能性がある。

「父が残した書物は全五十巻……」

無意識に呟くと帆氏が興味深そうに尋ねてきた。

「ほぅそこまで書いていましたか、どれ見せてみなさい」

 一巻から五十巻までガタゴトする馬車の中で見ていた。 帆光悦は最後の巻を眉を潜め、眉間に縦じわを入れて渋面になりながらも、森紫に本を返す。

「森紫嬢、この巻の最後の下りまではどうか読まないように約束してください」

「わかりました……でもなぜですか?」

 森紫は戸惑いながら本をしまう。

「あまり人が見ていいものではないからです……」

 それは哀しそうな、泣きそうな顔だった。しばらく沈黙してから馬車は止まった。

「ここで昼食にしましょう。 さ、降りますよ」

何事もなかったかのように帆光悦は言って降りる。

森紫も狭い入り口から外に出た。

馬車の籠には簾がかかっていて見えず見えなかった爽快な空と日の光がまぶしい。

森紫はクラクラする感覚を覚えながら、目の前の茶屋の椅子に座った。

「ご主人、あれを頼む。二つな」

 慣れた風に店主に呼びかけ、店の奥から顔を出してちょいちょいっと森紫を呼んだ。

 森紫は首をかしげた。が、帆光悦に付き従った。

「はい?」

緑の暖簾を手で避けて中に入る。 いたって普通の一般庶民の店だ。

「嬢ちゃん、いらっしゃい!」

森紫の肩辺りの高さの飯台と少し低めの椅子がある。

「どういうことですか? なぜ普通に庶民とあってるんですか?」

小声で鋭い口調と目で言うと、

「あぁあ、大富豪の商人で通してるからね。おっ、きたきた」

森紫はこの初老の紳士を図りかねた。

隙を見せては鋭いところがある。

きたのはワンタン麺だった。 森紫と帆氏は汁まで黙ってたいらげた。


 馬車に戻った後、森紫は帆光悦は馬車の中で話し始めた。

「光悦様は何故私を引き取ろうと思ったんですか?」

「森紫嬢の推測通りだが?」

きょとんとして答える帆氏に

「でもどうしてですか? 私はそれ以上が知りたい」

 森紫は相変わらず本気なのか、冗談なのかわからない顔で尋ねた。

「それはやはり貴女が特別な存在と考えている。 その貴女が、朝廷にのし上がったらどうなるか見てみたい。というところかな?」

森紫は口をへの字に曲げて考えた。

一泊した後、江県の県都綽練けんと しゅくれんに着いた。

 白く高い城壁に囲まれた綽練しゅくれんは要塞として皇帝の住まう奥州、紀陽までの道のりの一つだ。

 ちょっとした遊郭のとある一角と、商店街のある表通りと、庶民が住む通りが幾筋もある。

大通りを通る馬車はその風景にぴったりだった。

まぁしていってみれば繁華街なのだ。

州都紀陽しゅうと きようの流行を追う賑やかだが、どこか懐かしい町でもあった。

県事長宅に着くと、開門の銅鑼がなる。すると大きな門が開いた。

馬車が中に入ると、帆光悦が先に出るからといって、森紫に馬車の中で待っているようにといった。

「お帰りなさいませ、父上!」

張りのある若々しい声が聞こえ、森紫は深く息を胸に入れた。

後は小さい子供の声が聞こえた。

しばらくして森紫が思い切って出てみると、帆光悦は家族らしき人物達と団欒していた。

 はっと気付いた帆氏があわてて家族に紹介した。

「おぉ、紹介が遅れた。 新しく使用人になった森紫だ」

森紫は最高敬礼をしようか迷ったが普通の礼をしておいた。

少しふくよかな、ぽちゃぽちゃした女性で、青色の髪をした人が声をかけてきた。

「まぁ新しい家族が来たと思ったら、使用人を連れてきたの?」

 困った表情をしながら苦笑していた。

不快感を露にしたのは青い髪の青年で、年は十七、八。

褐色の肌に灰色の目をしていた。

「父上! また悪い癖が出ましたな? これ以上使用人はいらんと言うのに……」

逆に懐いてきたのは一番下らしい娘だ。

一回りくらい森紫が大きくて、目も髪も漆黒の女の子である。

「父様、私付きの女官でしょう?」

 さも当然といったように帆氏に抱きつき言う。

愛娘の黒曜こくようの輝いた瞳に帆光悦はん こうえつはたじろぐ。

「……っ、まぁあそうだなぁ」

愛娘の黒曜のにものすごく甘い帆家の家族に、森紫の自由はいきなり決まりそうになった。

「ねえねえ、いいでしょ?」

「なりません、嬢ちゃま。 そんな教養のない者をそば仕えにするのは感心できません」

元気のいいおばさんが横からしゃしゃり出てきた。 すると森紫はすっと跪拝きはいして見せた。

櫚香りょか、その点では大丈夫だ。 森紫はきちんとしたしつけを受けている。 頭も切れるし、何より勉学にも励んでいるからね」

「まぁ、この歳で跪拝を? 確かに誇りと気骨はあるようですわね。 でしゃばりました、申し訳ありません旦那様」

櫚香はそれで引き下がった。

「それでは家族を紹介しよう。 私の妻の白如はくにょ、長男の、次男の、長女の黒曜だ。 翔羽しょううは十八、慶克けいこくは十二、黒曜こくようは八歳だ」

「森紫は何歳? 本当は姉さまになるはずだった人?」

「はい、光悦様はそのつもりだったらしいんですが、私がお断りしました」

 なにも農民の子を養女にして、その家風の格を落とすことはないと思ったからでもあった。

森紫は無表情の下で、このくるくると表情が変わる黒曜を可愛らしく思っていた。

「えー!? なんで姉さまになってくれないの? 黒曜は楽しみにしていたんですのに……」

 そう言って黒い髪を左右にお団子にして、後ろ髪を背中まで垂らした髪型をしていた。

 みすぼらしい森紫の服に黒曜がしがみついてきた。

「ねえねえ、なんで?」

「帆光悦様にこれ以上迷惑をおかけしないためです」

 森紫は、すがる黒曜の肩を持った。

 黒曜はそれでも嫌々するように森紫にしがみついた。

「こらこら、森紫ちゃんも困るでしょう? わがまま言わないの。 森紫ちゃん、本当に娘になってくれないの?」

 やんわり言ってきた白如に森紫は一瞬たじろぐが、すぐに謝った。

「申し訳ないことでございます。 ご希望に添えず、でも譲れない夢があるんです」

「譲れない夢……?」

「はい、宮中に官吏として上がり、百八官に選ばれるまでは……」

「そう、あなたみたいな子がきっと未来を切り開くんでしょうね。

うちの翔羽は武官になりたがってるし……。 しょうがない子達ね」

白如はそう言って暖かい笑みを浮かべた。

家はわりと大きく使用人の部屋まで屋敷内にあった。 森紫の部屋は三畳一間の部屋が森紫の牙城だった。

部屋の隅には窓と布団一式が揃えてある。

「ここがあんたの部屋だよ。 着替え持ってくるから荷物整理してな」

櫚香というおばさんがはきはきといった。

やたら元気あるおばさんだ。

正面玄関から入ると、入り口の横に水仙がいけられていた。

真正面に階段があり、左右に伸びた左翼の手前から二番目の部屋が森紫の部屋である。

数分後、豊満な胸にでっぷりとした小母さんが来た。

「さっきは悪かったね。 あたしは侍女頭の櫚香だよ。わからないことがあったらなんでも聴きな?」

 森紫は居候も同然だから人の倍働かなければならないだろう。

覚悟を決めて口を開こうとすると、戸の方からタッタッタッと軽い足音がした。

「森紫ー、遊ぼうー!」

「はぅっ」

森紫は後ろを振り返る前に、彼女は抱きついてきた。 黒曜だ。

 思わず情けない声が出た。

「嬢ちゃま。 森紫はまだ入浴も済ませていませんから、その後お相手してもらったらいかがでしょう?」

柔らかい櫚香の声が森紫や黒曜に心地よく聞こえる。

「うーんと、……じゃあ一緒に入ろう!」

「嬢ちゃま!」

なんてことだ、使用人と主人の境界線がない。 それほどおおらかなのかと思ってしまう。 使用人が厳しくなるのも頷ける。

 あまりの提案に森紫は驚きながらも呆れた。

 櫚香が森紫に無言の視線を送ってきた。

「黒曜お嬢様、私は使用人ですので、ご一緒に入浴はできません」

 私から言わせるのか……、森紫はため息をつきながら目を伏せた。

 頭痛がする。 帆光悦ののほほん精神汚染は広がっているのか、と思ったが口には出さなかった。

「あら、いいじゃない。 だって元々私の姉さまになるはずの人だもの、そうでしょう?」

目をあけると黒曜の黒い目と、森紫の紫の瞳がぶつかった。

いつの間にか背中から正面に回っていたらしい。

「森紫の目綺麗、噂に聞いた幻の宝石みたい」

「えっ?」

「知らないの?」

黒曜はなんでだろ? っていう顔で森紫をやや下から、上目使いに見ている。

「官吏になると宝石がもらえるのですって、私お父様から見せていただいたわ」

 黒曜はへへへっと嬉しそうに笑った。

森紫は黒曜の言葉に血の気が引く思いがした。

(父の宝石!)

やはり帆光悦は何か知っていて森紫を養女にしようとしたようだ。

黒曜の答えに森紫は内心うろたえた。

黒曜は森紫の態度に首を傾げ、櫚香を仰ぎ見た。

しかし、櫚香も首を傾げ、肩を落として首を振った。

森紫は、はっとして我に返るのに十秒は要した。

「あっ……そういえば入浴の話はどうなりましたか?」

 森紫は呑気に、さも間抜けそうに装って入浴の話題に水を向けた。

「うふふ、当然一緒に入ろう!これは絶対!」

 一転して櫚香に指をつきつけた黒曜は森紫と風呂場に行った。

 櫚香は「はぁ」とため息をついて、額に手をついて嘆かわしそうに首を振った。

森紫は黒曜に引っ張られながら外に意識を集中した。

外の庭木で蝉が鳴いてる。 両親が亡くなった日の雨のように五月蝿いほどの音の洪水が。

(あぁ……、夏は嫌いだ)

こんな真昼から顔が火照るのかと思うと、一人茫洋として考えながら嬉々として腕を引っ張っていく黒曜の背中を見ながら思った。


 お風呂は檜仕立ての大浴場だった。

 森紫も着物を脱いで、短筒の袴を脱いだ。

少し丸みを帯びて、少女から大人の女性への発達段階にある森紫は、お団子にして今まで布で縛っていた髪をほどき、綺麗な若竹色の瑞々しい、流れるような髪を下ろした。

まだ未発達な黒曜も、髪を下ろすとふんわりとした黒髪が広がった。

「森紫の髪綺麗ね。 まるで竹林にいるみたい~」

「それは亡き母からもよく言われました。 『お前の髪は父さんに似て特別だ』と」

黒曜は湯掛けして、石鹸を布に一生懸命こすりつけ泡立て始めた。

「二人で背中洗いっこしよう!」

 森紫は限りなく困惑しながら黒曜に尋ねる。

「その普段、お風呂に入られるときは、どうなさっていらっしゃるのですか?」

「え~? 誰とも入らないよ?」

黒曜はのんびり右腕をごしごし擦りながら言った。

「だって母様があなたはもう大きいのだから、一人で入りなさいって言ってたもん」

(は?)

 それでは森紫は白如の意向を無視したことになる。

 でもまあ後の祭りだ。 森紫は怒られたらそれでかまわないと諦めた。 森紫も結構大雑把な性格だ、切り替えが早くて良かったと思うことは多い。

「幼馴染はいなかったんですか?」

「うん、乳母の息子さんも二十歳だったから、面倒見てもらったけどね」

 黒曜の呑気な顔とは裏腹に、森紫は深くため息をついた。

 約束かどうかは知らないが、背中も洗いっこして湯船につかる。

 風呂の縁から湯が流れて、かぽーんと桶が流れていった。

森紫からすれば、湯がもったいないと思ったが、金持ちだからこそできる贅沢だと思った。

風呂から上がり、湯気に包まれた森紫と黒曜は着替えた。

森紫は与えられた服に少し戸惑った。 はいたこともない裾のひらひらした裳だったからだ。

働き者の森紫としては裾絞りの服か、短筒袴がよかったのだが……森紫はなんとなく抵抗があった。 それでも着てみると一端の女官になっていた。

「黒曜!」

大浴場から出ると翔羽と慶克の姿があった。

恨みがましげにグサグサと二人の視線が突き刺さってくる。

翔羽の灰色の目が烈火のごとく燃えている。

十二歳の慶克は黒い瞳に、青い短髪どうともいえない顔をして困っていた。

「こんな卑しい者と一緒に風呂に入っちゃだめじゃないか! 黒曜!」

翔羽の言葉にムッとした黒曜が反発する。

「何よ、兄様! 随分な言いようじゃない? 黒曜は森紫を友達にするって決めたの! 邪魔したら怒るからね!?」

頬をぷっくりさせて怒る黒曜に、翔羽はたじたじになる。

「でも黒曜……。お前勉強の時間じゃないか?」

「あっ……」

 ううっと悔しげに唇を引き結ぶ黒曜を尻目に、一礼して櫚香を探しに行こうとした森紫を黒曜が引っ張った。

「わかってるもん! 森紫はこっち!」

 森紫は黒曜にグッと手を握られ、ぶんっと振りこのように振られた。

「森紫はお前の勉強に関係ないだろう?」

「森紫と一緒に勉強するの!」

黒曜に引っ張っていかれる森紫は、まさに首根っこ掴まれた猫であった。

二階の廊下を、黒曜に引っ張られるように歩いていると、帆光悦がやってきた。

「森紫は私のところに用があるから借りていくよ? 黒曜」

「えー? どうしてお父様?」

涙目になる黒曜。 困り顔の帆氏は諦めなかった。

「聞きなさい黒曜。 これは森紫にとって大切なことなんだ。 いいね?」

「はーい……」

 黒曜は拗ねたように唇を尖らせてパタパタとかけていった。

「森紫来なさい」

森紫は黒曜が去った後、敷地内の一番奥の離れに帆光悦を追っていった。

北側に両開きの戸があり、南向きの窓があり、入り口脇には紫陽花が生けられている。 そして西と東の壁にそびえる書棚。 ここはどうやら執務室のようだ。

「森紫、君には重要な仕事をしてもらう」

室内に入り窓に向いて、森紫に背を向けたままの帆光悦の表情はわからない。 森紫は自分なりに気を引き締めた。

「これから一年侍女として、また地方官の仕事を体で覚えて試験の勉強に備えなさい。 ここの書棚の本は好きに使っていい」

「はい、旦那様」

「うむ、じゃあ部屋に戻りなさい」

森紫が退出した後。 一人残った帆氏は呟いた。

「悪いな、森紫そして玖羅くら。 お前たちは私の元に集ったのが不運なんだ。 私もまたあのお方の駒にしか過ぎない」

 それはまるで、何か大きな影を背負ったような物で、空間に誰にも聞き取られることなく消えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ