残されたもの
第2章 嵐の過ぎ去ったあと
翌日、日の出とともに起きた森紫は、物見窓から外の様子を見るため、自分の椅子を持ち出して見た。
誰もいない、足跡すらない。 嵐が通ったのか水溜りが見て取れた。
森紫は物見窓を元の位置にずらして、椅子を机の元の位置に戻し一人朝食を食べた。
父・樹影が残した書物を読みながら、いつものように勉強する。 樹影が残した書物は巻物にして全五十巻。半分の二十五巻まで読み進め、書写し、ふぅとため息をついた。
樹影が残した書物は、森紫が読んでも追いつかないほどある。
それが森紫には宝の山だった。
二、三時間過ぎたころだろうか、戸をたたく音がして森紫は椅子を持ち出し、物見窓から外を見る。
「どなたですか?」
すると帯剣し、軽そうな胸当てに、水色の長い髪、誰からも好かれそうな顔立ちの体つきのいい男性が立っていた。
「朝早くに失礼します。 筆圭の、李惟敬といいます。 早急にお伝えしたきことがありまして参りました」
「生憎、今は私しかおりません。父も母も昨日から帰っていないんです。 お引取り願えますか?」
森紫の疑いの目が、不躾に李惟敬を品定めするが。
李惟敬は大して気にするでもなく、森紫の用心深さに感服していた。
「いないはずでしょう。 昨日の晩に何者かによって殺されたのですから…。夫妻ともにね」
森紫は耳を疑った。
「(コロサレタ? 誰と誰が? 何かの間違いだ…。)」
それでも李惟敬は淡々と続けていく。
「筆圭の住民から確認をとりました。 間違いなく華鈴さんと樹影さんだそうです。 あなたには遺留品の確認と、ご両親の遺体の再確認をお願いしに来ました」
森紫は(そんなこと信じられない。 信じたくない)とでも言いたげに胡散臭そうな目で再び李惟敬をジロジロと見た。
「警邏部の人ですか? 本物だという証拠は?」
失礼な森紫の言葉にも、李惟敬は動じることなく、剣を帯から外し、森紫に六角形の板の中に剣と杖が交差して、蔦草で囲われた、中央に虎の顔が彫られた紋章を見せてくれた。 確かに警邏部の紋章だ。
しかし森紫はそれでも頑なに戸を開けようとしなかった。
「それが本物だという証拠は?」
「信じてもらうほかないですね」
その答えに物見窓をピシャンっと閉め、勉強に戻った。
森紫は勉強をして一時間ほどあとにまた物見窓に行った。
板をずらすと李惟敬がまだ立っている。
水色の髪が、まるで水溜りに映った空のようで、森紫はつかの間心安らかな気持ちになった。
森紫はまた部屋にこもって、一時間してまた李惟敬を見た。 そしてまた部屋に戻り勉強に励む。さらに一時間後また見て戻る。
その行動が三十分おき、十五分おき、十分おき、五分おきになった。
しかし気にはなっても、森紫は頑ななまでに華鈴との約束を破ろうとしない。 それはある意味、李惟敬という人物が告げた事実を、認めたくないからなのかもしれない。
しかし昼になっても華鈴も樹影も帰ってくる兆しがない。 森紫は意を決して李惟敬に声をかけた。
「あの、開けますよ?」
「あぁ、やっと出てきてくれる気になりましたか」
そう言って、戸にもたれていた李惟敬が離れるのを確認すると、森紫はつっかえ棒を外した。
戸を開けると、物見窓から見た李惟敬の背の高さがありありとわかった。
「遺児を放っておくと、民部から何を言われるかわかりませんからね。 第一うちの上司は怖いんです、重要な証人を連れて帰れない、そんな役立たずはいりませんから」
人好きする顔をしている温厚そうな李惟敬の発言とは思えないほど自嘲気味に笑った。
森紫は戸に南京錠を掛け、鍵を取り出して南京錠を閉めた。
李惟敬が馬に乗せてくれ、筆圭までの道のりをひた走った。 十分ほどで街の入り口に着く。
門の外と中とでは商人が露店を開き、旅行客で賑わう商店街を駆け抜け、目の前の大通りをしばらく走り坂のうえにある、警邏部詰め所の朱塗りの大門を潜り抜けた。
中は白塗りの壁に回廊型の建物で、奥に厩舎があり馬たちも待機している。
森紫は回廊型の詰め所の右にある地下室に連れて行かれた。 部屋の前では番兵が遺体安置室と書かれた部屋を守っていた。
李惟敬は番兵に紋章を見せ、名乗ってから鍵を開けてもらった。
地下室に入るとひんやりとした、冷気が怖気を呼ぶ。
地下室には二つの遺体が並んでいた。顔には白い布がかけられている。
樹影の服装は紺の紬に白い裾絞りの短筒袴。 華鈴の服装は昨日着ていたのと同じものだ。
どちらも泥水で濡れているが、娘の森紫にはそれが父と母の服だとわかった。
白い布をめくってみる。そこには森紫と同じ若竹色の髪の、憔悴した樹影のやるせない最期の顔が刻まれていた。
華鈴のほうは、服に切り刻まれえたような後があり、服の切り口からは、黒ずんだ汚れが服を台無しにしていた。
「父と母はどうして…。どうして殺されなければならなかったんですか?」
「それは今捜査中です。 ただ状況から考えて、相手は愉快犯のような傾向があります。 まだ憶測の域を出ませんが」
李惟敬は少し困った顔で答えた。
次に森紫は別室に連れて行かれ、遺留品を見せてもらうため移動した。 広い空間の雑然とした部屋の樫の机の上に、遺留品が並べられていた。
その中にあってもおかしくないものが、欠けていることに気づいた森紫は李惟敬に尋ねた。
家族だからこそ気づけたもの、他人だったら本当に素通りしてしまうだろう。
「遺留品はこれだけですか?」
「えぇ、身に着けていたのはこれだけです。 ……何か足りないものでもありますか?」
いぶかしむ李惟敬に森紫は怪しまれないよう短く、
「いいえ、父と母に最後のお別れをゆっくりしたいのですが、よろしいですか?」
と、言った。
樹影が身につけていたのは、家の鍵、財布、手ぬぐいそれだけだった。 あの腕輪がない。
「華鈴さんは何も持っていらっしゃらなかったので」
森紫は覚悟した。
樹影が言っていた時が来たのだ。
森紫は身を引き締めるために拳を握り、「ぎりっ」と奥歯をかみ締めた。
森紫はそのまま火葬場へと連れてゆかれ、そこで最後の対面を許され、静かに確認し誰にも気付かれぬように
そっと外に出た。
森紫は両親がお骨になる間、火葬場前の公園で回想していた。
それは三年前の事、森紫が九歳のときだった。 いつものように歴史の勉強をしているときだった。
「森紫、私は将来お前と母さんに、迷惑をかけるかもしれない」
森紫を後ろから抱き寄せ、山の斜面に座り込み森紫の頭を撫で付けた。 下草が瑞々しい木の葉を揺らす午後のことだ。 その日は太陽が照りつけていて、六月だというのに言うのに真夏のような暑さだった。
「それはどういうことですか?お父さん?」
幼い森紫は父の顔を見上げた。もちろん無表情で、あの和やかな家庭で育って、何故このような無表情な子供ができたのかは棚上げにしよう。」
樹影は懐から楕円形の紫水晶を取り出した。
それには金の輪を頭上に戴き、蛇のようにとぐろを巻く龍は背中に翼を生やしていた。 真理教という国教のだ。
楕円の後ろの部分には苗字をいただいた、父の名が刻まれていた。
苗字は宮廷官吏、公職に携わる者など、例えば李惟敬のような警邏部などがいい代表だ。
「この宝石の持つ意味がわかったなら、それとこの腕輪の意味がわかったならば、さっきの言葉の意味がわかるかもしれないね。
だけど森紫これだけはわかっておいてほしい。
例えどんなことがあっても、父さんはお前と母さんを愛している、と」
そして樹影はもう一つ、布をいつも巻いている左手の樫を薄く削った腕輪をはずして見せてくれた。 それはなんの装飾もないが、裏には意味深な言葉が彫ってあった。
「『秘する森での約束を待つ』」
さらに意味のわからない言葉に森紫が戸惑っていると、森紫に向けていた視線を、樹影ははるか遠くに視線を移し呟く。
「もしかしたら命と引き換えになるかもしれないな」
「父さん…?」
得体の知れない不安が、そのときから森紫の中に宿った。
「森紫さん」
森紫を現実に引き戻したのは李惟敬であった。 夕陽が射して森紫の横顔を照らす。 木の葉が風に囁いていた。
「一応養護施設と連絡は取ってあります。今夜から受け入れは可能だそうです」
養護施設…そうか自分もそんなところに行くほど、身を落としたんだ。 森紫はぼんやり考えていた。
するとしばらく無言の空間が生まれた。
李惟敬ですら一定の距離から足が動かない。
気まずさが漂っている。
「森紫さん聞いていますか? 養護施設に行きますよ」
李惟敬が苛立たしげに言って、森紫を睨みつけた。
思えば李惟敬はこの子供が嫌いだった。
両親の死に動じることもなく、何を考えているのかわからない。
李惟敬はきわめて仕事に忠実に、私情をはさまず仕事してきた。
だが今回の事件には不審な点が多すぎた。 各地に応援と検問に引っかかってないか、調べに行った同僚からの報告がまだだし、樹影と華鈴を怨んでいたものはいないという村人や街人。 嵐の中、何故筆圭の路上で殺されたのか。 樹影の財布の中に残された多量の金子。
何もかも説明がつかない、李惟敬を苛々させることばかりだった。
「養護施設には行きません。村の家で暮らします」
森紫のきっぱりした決意が、口調から読み取れた。
「まさか、その年で一人暮らしする気ですか!? 無理に決まっています! 養護施設に行ってください!」
李惟敬はとんでもないと言いたげに、眉を顰めた。
苛々と前髪を掻き揚げながら、鋭い目で見据える。
「あなたはまだ幼すぎる、人買いの格好の餌にしかなりません!」
李惟敬は不動の山を動かす気がした。だが、森紫は譲らなかった。
だいたい森紫は人買いの格好の餌だ。
「私はあの家に戻ります。 邪魔しないでください」
決然として頑なな森紫に、李惟敬は何も反論しなかった。
ただ…、
「わかりました、家まで送ります」
と、苦々しそうに言った。
ちょうどその時、火葬場で弔いの鐘が鳴った。樹影も華鈴も骨になったのだろう。森紫は二つの骨壷を持って李惟敬の馬に乗せてもらい家に帰った。
南京錠を開け、家の戸締りをして、森紫は骨壷を両親の部屋に二つ並べておいた。
森紫は今日から一人暮らしをするのだ。 そう思うと改めて気が引き締まった。食欲もなかった、なので何も食べずに床に着く。
疲れていたせいか、すぐに眠気はやってきた。
それから数日間、森紫の周りや煉木村の近くでよく人身売買組織が摘発され、検挙されていった。
森紫は一人で畑を耕し、取れた野菜を筆圭の市場で売った。
どの道、両親がやっていたことだ。 だがそのおかげで森紫は倍、働かなくてはいけなくなった。
泣く暇もないほど、仕事はたくさんあった。
筆圭に行くとたまにごろつきが、
「なんだぁ? ガキが一著前に商売やってやがる!」
という、いちゃもんつけられることがよくあった。
どこにでもゴキブリのようにいるごろつきだ。 品物を蹴り上げられて、森紫は片っ端から品物を無表情で片付けていく森紫。
「誰の許可得て商売してやがる!?」
そういう時森紫は、役所の許可証をピラッと見せる。
すると相手は意外にもあっさり引き下がってくれるものだ。
第3章 来訪者
一月後…。
ある日、家に帰ると李惟敬が戸口の壁にもたれかかっていた。
森紫は近寄って、李惟敬を見上げた。
「捜査は進んでいるのですか?」
年不相応な冷ややかな目で見つめられて、李惟敬は背筋に「ぞくっ」とするものが走った。
「いえ、あまり進んでいません。 強いて言うなら、だけでなく、この地方でそんな事件はなかったかのようにもみ消されえようとしています」
苦虫を噛み潰したような顔で、李惟敬は答えた。
それはそうだろう。たかが農民夫婦の殺人なんて、あって無きが如しだろう。
森紫は南京錠を開けるなり、李惟敬を家の中に招き入れた。 李惟敬は入ってその雑然さに驚く。
物も片付き、整理整頓されている。
「(…というか、まるで生活感がない)」
それが李惟敬の密かな感想だった。 森紫は台所に立って何やら背を向けているのでわからなかった。
「どこでも好きな場所に座ってください」
李惟敬は所在無さげにしていたが、森紫に言われて椅子に座った。
森紫はお茶を用意して、振り返ってはっとした。
森紫から見て一番手前の左の椅子、そこは父、樹影が座っていた席だった。 そこに李惟敬は座っている。
「もう一度、樹影さんの過去を洗いなおそうと思いまして。…あっありがとうございます」
森紫はお茶を出して、李惟敬と向かい合う自分の席に座った。
「洗いなおそうも何も、父のことは調べ上げたんでしょう? それに傷ついていたのは母だし…。母の怨恨を調べるべきなのでは?」
李惟敬は固唾を呑む。 十二歳にしてこの才覚、埋もれさすには惜しいと思った。
「森紫さん、本当に筆圭近くの養護施設に行きませんか? 勉強もできるし、地方試、もしかしたら国試も受けられます」
李惟敬は啜っていた湯のみを置いて、森紫をまっすぐに見据えた。 そして真剣に説得を試みる。
「この才能を埋もれさせるのは惜しいことです。 樹影さんも知識人だったそうですが、その血をあなたはきっと受け継いでいるのでしょう。 聡明で賢い」
李惟敬の言葉に森紫は、目をつぶり、茶を啜りながら「ふぅ」とため息をつく。
「確かに父は知識人だったようです。 でも私はこの村と筆圭のことしか知りません。 それでも十分だと思う自分がいました。
今までは…」
森紫の紫の瞳に暗い影が訪れた。 それを見て李惟敬は再び怖気に捕らわれた。
「父と母が死ぬまではここで埋もれていてもいい。
そう思っていたのに…。これで私が官吏になる理由ができたわけです。 でも、行くなら養護施設からではなく、この家から行きたいと思います」
森紫の明白で強固な意志が、そのまま李惟敬を射すくめる。
李惟敬はこの話題はもう振っても無理だと悟った。
「それで父の何を知りたいのですか?」
幸いなことに森紫から話題を変えてくれた。
家財道具もしらみつぶしに探されたが、何も出てこなかった。
「樹影さんはこの土地の人ではないんですよね? ましてやこの地方の出身でもない。 彼はいったいどこから来たんでしょうか?」
「何が言いたいんですか?」
棘を含んだ森紫の声が飛ぶ。
「樹影さんの過去を知る人は筆圭にもこの村にもいません。 樹影さんは十二年前ほどにポッと現れた、未知の人物です」
「答えを私が知っているとでも?」
森紫は李惟敬に問う。その紫の瞳に見つめられて、決まり悪げに李惟敬は視線を反らした。
「いええ、そうとは思いません。 仮に知っているなら隠す必要がない」
そういって李惟敬はお茶を啜った。 つられて森紫もお茶を啜る。
「あなた自身も、樹影さんの身の上を聞いたことはないんですよね?」
「えぇ知りません、知っていたとしても関係ないことですから」
森紫は少なくとも鍵を持っている。 父樹影が必死で隠したかった事実を暴くのは、少々気が引ける。
しかしそうも言っていられなくなった。
森紫は決意した。 樹影が背負った罪の代償がこの結果ならば、森紫は娘としてこの事件の真実を暴くと。
「今日はこれで失礼します。 くれぐれも身の回りにはご用心ください」
李惟敬は茶を飲み干すと、律儀に一礼して出て行った。
森紫は戸締りをした後、首から下げていた皮袋を開き、楕円の紫水晶を見て「ほぅ…」っと、ため息をついた。