捨てた男
あの奇妙な経験は、今から大体20年前に私に起こりました。
当時、私は社会人3年目で、そろそろ1人前と言う時期でしたが中々芽が出ませんでした。
おまけに同期にとても優秀な奴がいて、あいつはできるのにお前は駄目だな等と言われ、散々比較をされ、丁度恋人に振られた事もあり、すっかり参っていました。
恋人は同じ会社の事務職だった子だったのですが、
同期のそいつにカッコイイ等と言って頬を染めていた事を知っていました。
私はむしゃくしゃして安酒を飲み一人家路に着こうとしていた、その時です。
「お兄さん」
ふと、声が掛けられました。
私が声の方向をみると、やつれた老婆の姿がありました。
よく見ると、古びた机の上に小さく「人生占い」と言う看板が載っていました。
何だ、ただの客引きかと無視して私が通り過ぎようとした所、
「貴方の人生、上手く行っていないだろう?」
とその何処か暗い不吉な声で、更に話しかけてきました。
その言葉にぎくりとした私は、花の蜜に集る虫のようにふらふらと引き寄せられたのです。
話を聞いてみると1回千円とお手頃価格で、気分転換には丁度いいかと鑑定を受けることにしました。
ところが、です。
「おやおや、これは酷い人生だね。仕事面では周囲に馬鹿にされ、出世の見込みはなし。恋愛面では、碌なものがよってこない。精々、貢がせるのが目的の女で、晩年は孤独に過ごすだろう。寿命は、これだけは良好だ。お前は80まで長生きをするだろう。」
私は酷く酔っ払っていた事もあり、老婆にふざけるなと怒鳴りつけました。
そんな惨めな人生を送るつもりは更々なく、もっと華やかな人生を満喫する予定だったのです。
そのことを当たり散らすように話すと、老婆は納得したように頷きました。
「成程、お兄さんがそのような人生を送るのは容易なことではない。
しかし、たった一つだけ方法がある。」
それは何かと、蜘蛛の糸にでも縋りつきたかった私は勢いこんで尋ねました。
老婆は身を引き、静かの声で答えました。
「お兄さんの魂のある側面を捨てることだよ。私ならそれが出来る。
ただし、この方法には副作用があって寿命の半分で死んでしまう。それでも構わないかい?」
私は構わないと答えました。
酒の良く回った頭には、彼女が救いの女神のように思えたのです。
私はそれからと言うもの、我武者羅に働きました。
不器用な分、人の何倍も働くことによって着実に周囲に認められて行きました。
その行動の根底には自分が負け組になる事の恐れが焼けついたようにありました。
そうして、1年が過ぎる頃には主任が目を掛けてくれたこともあって、
小さなプロジェクトのリーダーを任されることになりました。
それが成功し、私は徐々に主導的な立場を任されることが多くなっていったのです。
別れた恋人が寄りを戻さないかと言ってきましたが、どうだっていいことでした。
私は、私の人生に勝たなくてはいけないのです。
私は順調に出世をしていき、専務のお気に入りになり、その娘と結婚しました。
彼女は才媛の美しい女性でしたが、裏表のある性格で浪費癖が激しかったこともあり、
上手く好意を持つ事は出来ませんでした。
世田谷の一等地に買った、その家はいつも何処か寒々しい雰囲気が漂っていました。
彼女は、私の事を影で冷たいと言っている事を知りました。
私は家庭から逃げるようにして仕事に没頭し、更にその責任は重くなっていきました。
大きな取引をいくつも任され、強引だと陰口を叩かれながらも成立にと導きました。
こうして私は、高給取りの立場と美しい妻にと言う人が羨むものを手に入れたのです。
気が付いたら、私は40歳になっていました。
やっと一息を付けると思っていたのですが、最近妙なことが起きるようになっていました。
最初は、職場で仕事上のデータが消えたり、書類が紛失したりしました。
データはバックアップが取ってあり、
書類は内部の重要度の低いものだったので大事に至らなかったものの肝が冷えました。
次は、日課である早朝ランニングを行っている際、車道に押し出されました。
どうにか事故にはならなかったものの、振り返っても誰ひとりとしていなかったのです。私は首をひねると同時に不気味さで肌が泡立ちました。
それから、妻がこの家には妙なものがいると言って騒ぎたてました。
所詮女の言う事と、私が取り合わないでいるとやがて実家に帰ってしまいました。
最後に、私自身が家にいる時、何処からか視線を感じるようになりました。
そしてとうとう、深夜には四つん這いで動き回っているような物音がするようになりました。
私は寝室で一人眠れない長い夜を過ごすようになりました。
仕事ではミスが続き、捨て鉢になった私は家で酒を飲んで泥酔をし、
ソファーでうっかりそのまま寝てしましました。
気が付くと妙に息苦しいのです。
まるで、胸の上に誰かが載っているような感じでした。
私は妻の悪戯かと思い、薄く眼を開けました。
それは草臥れ果てた中年の男で、私に伸し掛かっていました。
随分とみすぼらしい身なりをしていましたが、彼は紛れもなく私自身でした。
その陰気な男は私を酷く冷たい眼差しで射抜くと、
見せつけるようにゆっくりと、自宅にあったナイフを振りかぶりました。
初めは肩、
次は喉、その次は腕、
更に次は足、更に更に次は手、
更に更に更に次は頭、更に更に更に更に次は目、
そうやって体を刺され激痛に苦しみながら、体も動かせず私は呆然としていました。
血塗れになった私を彼は優越の微笑みで見つめました。
何故か、
体が段々冷たくなってきて、
どうしよう、
眠く、
「奥さん、大変だったね。旦那さん、ショック死だったんだって?専務も驚いてたよ。」
「ええ、父も悲しんでおりました。只でさえ、あの人は働き過ぎで心配だったのですが…。死体は綺麗だったのですが、何か激しいショックを受けたみたいで。
まさか、私が家を空けた時にこんなことになるなんて…。」
若く美しい彼女は亡くなった夫の同僚と別れると、
そのまま家路に着き、随分前から関係を持っていた愛人へと電話をした。