■第四十一夜:絶望
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ヴィトライオンがなんとか上の階に逃れたのだけは、アシュレは確認できた。
だが、ノーマンとバートンは渦に巻き込まれた。
アシュレは聖盾:〈ブランヴェル〉の上にいる。荒れ狂う波の上を滑るカタチだ。
左手にシオンを抱え、右手にはカテル病院騎士団の聖剣:〈プロメテルギア〉。なんとか生きている。
唯一の救いは、まだ儀式が進行中であるということが《スピンドル》の律動と漏れ出る光の粒子で確認できることだ。
それにしても、ジゼルと聖なる装身具:〈クォンタキシム〉、そして水瓶のカタチをした神器:〈ハールート〉の組み合わせは敵として最悪だ。
なまかまな攻撃は通用しない。水流で簡単にガードされてしまう。
竜槍:〈シヴニール〉であれば貫けたかもしれないが、それはいまや水底で手が届かない。シオンの〈ローズ・アブソリュート〉も、相性が悪かった。
シオンが得意とするプラズマによる攻撃は、水に触れると大爆発を引き起こす。
使用者とその加護にあるものは《フォーカス》の護りで被害を減じられるとは言っても、限度がある。前回のようにノーマンの防御もない。
第一、周辺施設を根底から破壊してしまう。
むろんそれはこのまま、ジゼルを暴れ回らせていたら同じことだ。超水圧であらゆるものが破壊される。
儀式にはグレーテル派の首長:ダシュカマリエが参加していることをジゼルは知らないのだろうか?
いや、知っているだろう。知りながら、無視を決め込んでいるのだ。
報告を受けていななかった、とすべてを破壊し尽してから言うつもりだろう。
歴史は勝者が作るものだ、というラーンの言葉が脳裏を過った。
それを実現・実行しようとするジゼルの行動に、アシュレは寒気を覚える。
『堕ちたる騎士よ、せめて我が手で引導を渡してやろう』
記憶のなかにある少し不思議で変わり者だが、アシュレに愛を注いでくれたジゼル姉と、眼前でアシュレに死を宣告する“聖泉の使徒”とが、どうしても同一人物だとアシュレには認識しがたかった。
だが、どれほど認めたくなくても、これは現実なのだ。
嵐の海に放り込まれた木の葉のように〈ブランヴェル〉が激しく揺動する。
アシュレは力場操作でなんとか沈まず、壁に激突せずにいるのが精一杯だ。
水位が上昇し、耐え切れなくなった施設が崩壊する音が聞こえる。
数万、数十万トロンに達する水量だ。耐え切れる訳がない。
その水面を、ジゼルの操る水柱が竜に変じて打ちつける。防御不可能の超質量攻撃。受ければ全身の骨が一瞬で砕け散る。
アシュレはずぶ濡れになりながら、それを紙一重で躱していく。
恐ろしいことはそれだけではなかった。
この澄んだ水は清浄を通り越し、極度に聖別されていた。
異能:《アクア・コンセクレイション》。
本来は時間をかけ、儀式によって施される聖別を儀式を省略して可能にする異能である。
だが、この量の水を瞬時にこれほど強力に聖別するなど、本来ありえない。瞠目してしかるべき能力。
すべてを殲滅すると宣言したときから、ジゼルのこの異能が発動しており、単に清浄な水ではそれはなくなっていたのだ。
シオンが苦悶に呻く。
その肌が無残にただれ、煙が上がっていた。イグナーシュ領では亡者を阻む温泉に浸っていても平然としていた彼女が、である。
それほど強力な聖別なのだ。
再生速度と侵食が拮抗しているため致命傷には至らないが、全身を硫酸で焼かれるような痛みを感じているはずだ。
人間であるアシュレにはなんともないが、夜魔にとって、この奥の院に溜め込まれた莫大な水は硫酸で出来たプールに等しい。
長引けば長引くほど状況は不利になっていく。
アシュレは、手早くシオンと算段を整えた。
「上へッ!」
「委細承知」
シオンがアシュレの声に瞬応する。
聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉を鞭のように展開し、部屋の中央にかかる吊り橋――資材を運搬する巨大な滑車を備えた――へと飛び移った。
もちろん、ジゼルは容赦なくそれを追う。
突然、足元の水面がはじけ、鉄塊をくわえた水の竜がシオンを狙い躍り上がった。
それは吊り橋を打ちつけ、破砕する。
渡し板が玩具のように吹き飛び、太い胡桃材が小枝のように簡単に断裂した。
しかし、アシュレが目を見張ったのは、その鉄塊に――いや、鉄塊などではなかった。
無残に焼け爛れていた。ぐずぐずに溶け崩れていた。もうもうと煙が上がっていた。
それはかつてヴァイツだったもの――そして、ヴァイツの纏う〈スローター・リム〉だった。
単純に外部から聖別された水を浴びさられただけではない。ジゼルの操るそれが、切断された右足から恐ろしい寄生虫のように血管に侵入し、ヴァイツに撤退も許さずその身を内外から焼き尽したのである。
大怪蛇:〈ヘリオメドゥーサ〉が可愛らしく思えるほどの獰悪さであった。
そして、その獰悪さは、恐ろしいことに正義によって支えられていた。
無数の聖別武器を猛らせた遺骸は、いまや振り下ろされる鉄槌の頭だった。
シオンはその攻撃をなんとか躱している。
だが、聖別された水によって負ったダメージに加え、その肉体には、いまだあの忌むべき刑具:《ジャグリ・ジャグラ》が突き立っているのだ。
いつもの舞い躍るような動きだが、精彩がない。
けれども、それは同時に計算された陽動でもあった。
自分が手負いにした獲物に狩人は執着するものだ。
それが自分の夫となるべきだった男を――たとえ親同士、家同士が取り決めたものとはいえ――奪い取った女、それも人類の仇敵たる夜魔の姫であれば、なおのことだ。
そして、この状況こそ、アシュレが唯一、この絶望的な状況を逆転するために必要不可欠な条件であった。
水柱がはね上げた大きな波を、アシュレは巧みにつかまえ、そこに〈ブランヴェル〉の力場操作を加える。
波乗りの要領で、アシュレは宙を舞った。
一挙にジゼルとの距離が詰まる。
そして、技を放った。
あらゆる防御を貫通しする刺突技:《サイレント・スノー》。
本来、シオンの《ゴールド・アンフィニ》にさえ匹敵する片手剣の最上級技だが、範囲攻撃でも破壊力でもその他の技に一歩譲り、ために対人外の戦いを重要視する人類の異能者たちには習得者の少ない剣技であった。
アシュレは自身の《フォーカス》:〈シヴニール〉が特殊な砲戦型であるために、これまでほとんど使ったことがなかったが、いまこの〈プロメテルギア〉を得るにいたり、その封を解いたのである。
父に叩き込まれた技であった。
だが、この剣技の真に恐ろしいところは別にある。
あらゆる防御を静かに、そして確実にこの剣は貫通する。
いかに強大な防御結界であっても紙のように切り裂き、その内側にあるものを貫き通す。
たとえ――《フォーカス》であってもそれは変わらない。
それをアシュレはジゼルに放ったのだ。
神器:〈ハールート〉:すなわち《フォーカス》で受けるであろうと予測して。
そう、アシュレは、ジゼルの《フォーカス》を破壊するつもりだったのだ。
もちろん、そう簡単にはいかないだろう。《フォーカス》を破壊しうるのは《フォーカス》だけ。
しかし、その格付けの差を考えれば、目論見通りに推移したとしても、破壊は〈ハールート〉だけでなく〈プロメテルギア〉にも及ぶはずだ。
それでもアシュレはこの一撃に賭けた。
切っ先がジゼルの命を奪うことも、覚悟の上だった。
それはバートンを斬ったとき、すでに決めたことだ。
手放さなければ、掴めないものがあることをアシュレはすでに学び終えていた。
シオンの動きに気を取られていたジゼルは、かろうじてそれを受けることしかできなかったはずだ。
だが、受けたとて、その刃は〈ハールート〉を貫く。
必殺のタイミングだった。
それなのに、アシュレの放った切っ先は空を切る。
アシュレが剣を引いたがゆえに。
なぜ?
その答えが、眼前にあった。
ジゼルはヴァイツの肉体をそうしたように、こんどはノーマンのそれを盾としたのだ。
アシュレはノーマンの腹部の傷がほとんど塞がっているのを《スピンドル》能力行使時に特有の、あの引き伸ばされた時間感覚のなかで見た。
かすかだが呼吸していた。生きていた。
ノーマンは自力で傷をふさいだのだ。
感嘆すべき生への、そして己の使命への執着。まさしく不沈艦だった。
そのうえで、ノーマンの信念すら、ジゼルは利用したのである。
もちろん超技:《サイレント・スノー》は、人間の肉体などやすやすと貫く。
ノーマンを串刺しにすれば、少なくとも〈ハールート〉には刃が突き立っただろう。
ジゼルを殺さず、その最大の能力を封じれただろう。
けれども、アシュレにはできなかった。
その一瞬の隙を、ジゼルは見逃さなかった。
アシュレは捕まる。粘り着くような水の表面が無数の手になった。
溺れる。空中で、宙づりにされて。
「悪い夜魔の血なんかぜんぶ血抜きして、わたしの汁で満たしてあげる」
ジゼルが狂気に満ちた口調で言う。やっと瞳でアシュレを見た。
「アシュレッ!!」
叫んだシオンを鉄塊が打った。
とっさに剣で受けたが、横っ飛びにはじき飛ばされ、壁面に激突する。胸の悪くなるような音がした。
「コウモリ女、潰れていろッ!!」
衝撃に頽れたシオンの上から鉄塊が振り下ろされる。聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉がはじき飛ばされた、肉片が飛び散り、折れた聖別武器が突き立ち、バラの香りのする血液が溢れて垂れる。その音は弔鐘のように鳴り響く。
その様子をアシュレは空中で溺れながら見ることになる。
考えろ、と窒息寸前の頭で方策を巡らせた。
全身が疲労と苦痛に軋んだ。
あまりに厳しい連戦を、死闘を潜り抜けた末だった。全身が軋み、激しすぎる消耗に四肢が痙攣していた。
それでもまだ、なにか方法があるはずだ――アシュレは諦めなかった。諦めてよいはずがなかった。
無駄よ、とジセルの醒めた眼が告げていた。
その通りだった。すべては無駄だった。
そして、わずかな、しかし致命的な時が過ぎ、ジゼルの言葉通りアシュレは溺れて――すべては決して、間に合わずに――それが起こった。




