■第四十夜:共謀する世界
袈裟懸けにバートンは斬り捌かれた。
まっぷたつにならなかったのが奇跡と思えるほど、アシュレの振り抜きは速い。
血を飛び散らせながら、バートンが仰向けに倒れ込む。
ほとんど同時に、呵呵と声がした。シオンだった。
「遠路はるばる残念であったな、エクストラムの聖騎士よ! 我が企みを見抜き、馳せ参じたことまずは見事と言っておこう。
口惜しいことよ、いますこしでこのカテル病院騎士団を平らげることができたであろうというのに。
だが、貴様らの同志、アシュレダウはもはやここにはいない。ここにおるのは堕ちたる騎士――我が策略によってすでに下僕と化した男がおるだけよ。
なかなか手強き男であったが、我が手練手管の前についに膝を屈したよ。
殺せ、と最後まで喚いていたがな? その誇り高き心を踏みにじる快絶たるや、この世のものとは思えぬものだ。
年若き貴種の、聖騎士の血――このうえなく甘美であったぞ!
そして〈ローズ・アブソリュート〉〈ハンズ・オブ・グローリー〉だけでなく、その騎士の装具、加えてまたひとつ、この宝剣まで献上してくれるとは、ありがたいことぞ。
我が軍勢はこれでまたひとつ精強になるというものだ。貴公ら人間というものは底なしに気前が良いのだな?
それとも底なしなのは、愚かさのほうか?」
シオンが犬歯を向き出し、挑発的に言い放つ。
なんの打ち合わせも互いにない。すべてが即興で、しかし、アシュレの斬撃とそれが及ぼす効果を、事前に知り尽していたかのような反応。
シオンのそれは強弁であった。虚言であった。
だが、その虚言には一理以上の信憑性がある。
夜魔の、土蜘蛛の侵攻がシオンの手引きによるものだと考えれば、たしかにすべての説明が簡単につく。
実際に土蜘蛛たちはイズマを護るように働いていたし、ヴァイツが害したのはカテル病院騎士団の者たちに限られる。
アシュレは最後まで抗戦し、その果てに取り込まれたわけで、離反したわけではない。
これでその家を取り潰したとなれば、後の志気に関わるであろう。
為政者なら、上手に活用――今後の旗頭とするだろう。
なによりも多くの人々が――それは報告を受けることになるであろう法王庁の枢機卿団が――“信じたいと願う物語”だった。
つまり、シオンはこのひとことで、罪を自分自身に向けることで、その他のすべてを救おうとしたのだ。
背後からアシュレを掻き抱き、脇を潜って腕に潜り込み、胸板に指を這わせる。
「ジゼルテレジア――貴様の名も、呼んでいたよ。闇に堕ちる前にな」
その挑発をジゼルがどう受け止めたものか、ついにはわからなかった。〈ハールート〉と同調したジゼルからは人間の心の機微は感じられなかったがゆえに。
ただひとこと、返答と呼べるものはそれだけだった。
『我、審判す。仇敵のすべて――これを死罪とす』
突如として猛威が襲いかかってきた。
※
一方そのころには、夜を徹して行われていた法王庁の使節艦艇への人員収容と資材の積み込みが完了しつつあった。
ラーンも乗船を終えている。使節団の船を預かる船長たちに押し切られるカタチでだ。
カテル病院騎士団からの退避勧告に、ラーンは素直に従う。
このころにはすでに島の揺動、発光現象、そして山腹から吹き出した水とそれに続く轟音がごまかしようのない段階まで来ていた。
それに反するように波は静まり、風は凪いだ。
しんしんと雪が降るなか、ずっと遠くで幾本も落雷があり、それが相次いだ。
これは島が沈む前兆だ、と船長たちはラーンに脱出を迫った。これに船員たちが同調した。反乱寸前の動きだった。
港は同じように考えたのだろう沿岸に居を構える諸外国の商人たちで埋まっている。
カテル島の人間はひとりもいない。カテル病院騎士団のメンバーもいない。
統制がとれた、というより狂信的な匂いさえラーンは感じ取り、背筋が寒くなるのを感じた。
冷静沈着で策謀にも通じたラーンが計り損ねていたものがあったとしたら、このカテル島住民の団結力だったろう。
「枢機卿猊下、急ぎましょう。このままでは港の出口に船が殺到します。そうなると、出るに出られなくなります」
「これだけ、志気の高い住民を率いることができたなら聖地奪回など、さぞや簡単だろうね」
船長の申し出に、ラーンはつい皮肉で返してしまった。
いつかアシュレが抱いた感想とそれはまったく同じもので、互いが知ったら苦笑したであろうが。
ラーンにだって船長の提言がもっともなのは、わかっているのだ。
ただ、いま、自分のかたわらにはジゼルがいない。
山腹から吹き出した濁流を見る前に、ジセルはカテル島の最深部へ単独潜入を試みた。
ちょっといってきます、とまるでピクニックにでも行くように微笑んで。
ラーンは、それを立場上止めず、一私人としても止めなかった。
むしろ、それはラーンが提案した強行偵察案の延長であり――その忸怩たる思いが胸中に湧くのを止められずにいたのだ。
「わかった。船長、出港だ。ただし、近海で待機すること」
ラーンの許しが出たことで、船長の顔にやっと笑みが戻った。
洋上に出ればあとはどうとでもなる、と考えているのだろう。船長はジゼルの不在を知らない。船室に臥せっていると思っている。ラーンは事実を報せていない。
洋上には夜魔の艦艇が潜んでいることも。
ラーンの手は長手袋に覆われている。
それは特別なしつらえで、また特殊な素材で作られており、ラーンの手を聖典に語られる天使のもののように見せていた。《フォーカス》:〈グラパルダ〉とその備品である。
ラーンはその《フォーカス》を緋衣の袖に忍ばせていたのだ。いらだちを紛らわすかのように玩ぶ。
「さて、蛇が出るか鬼が出るか」
真実を見極めるため渦中に身を投じるということは、当然だがもっとも危険な場所へ赴くということだ。つまり、物語の主人公たろうとすることは、危険の只中に身を投じることであり、すなわち愚行の最たるものであるとも言えた。
そこへ飛び込むと、ジゼルは言い、実際にそうしたのだ。
ラーンはそれを止めなかった。愚行と知りながら。
なぜなら、ラーンは決めたのだ。もう四十年以上も、むかしに。
己もまた、だれよりも愚か者であろうと。
七日目の朝――カテル島、最後の一日が訪れようとしていた。
※
そうして、すべての視線がアシュレたちの――神代を思わせる戦いに集められていたころ、凄まじい異変がカテル島を中心に起きていた。
太陽が月に覆われた。
雪雲が壁のように周囲に屹立し、渦を巻いた。
そのかわりに、島の上空は晴れ渡っている。朝から昼に差しかかろうという時刻であるはずなのに空は漆黒で、星が見えた。
儀式は今夜、完成するはずだった。
だが、その儀式工程にさまざまな障害が差し挟まり――それでも儀式は途切れず、むしろ暴走して――あらゆる辻褄を強引に合わせようと働いた。
疑似的な“夜”が生み出されたのだ。
そこでは因果が逆転している。
人々は呆然と空を見上げた。まるで黙示録の一場面を見ているかのようだった。
天空に、金色に光るリングが生じていた。
それは月に喰われた太陽の残滓に他ならなかったが、人々はそれを“天使の輪”だと囁き合い、ひざまずいた。
この世の終わりが来るとしたら、このような光景ではなかろうか。
一方で、現実に向きあう戦いがあった。
ついに夜魔の艦艇:〈ローエンデニウム〉が姿を現した。
まるで竜が翼を閉じているような、独特の帆――被膜でそれは覆われていた。これまでに見たいかなる船籍の船とも違う。
そして、その船首と帆には“悪魔の爪”の異名を持つ花――フィティウマが刻まれていた。
島からの脱出者はそれでも数千名に上った。
このときのカテル島の総人口が約六万人であったから、一割にも満たない数ではあったが、どのみち、それ以上は無理だったのだ。船がなかった。
船団を法王庁特使の旗艦が先導するカタチとなる。その脱出行の最中に〈ローエンデニウム〉と遭遇したののである。
砲戦距離にはまだ随分とあったが、一目で夜魔のものとわかるその威容ににわかに船上が慌ただしくなりはじめた。
だが、それをラーンが押しとどめた。刺激するな、と。
下手に砲戦を仕掛ければこちらに長射程攻撃がないことが露呈してしまう。
まさか、ラーンも同胞の艦長たち相手に《フォーカス》を用いることになるとは思いもしなかっただろう。
だが、どんな戦争でも最大の敵は味方のなかにこそあるのだと考えれば、それはそれで正しいカタチだったのかもしれない。
夜魔の艦艇:〈ローエンデニウム〉が周辺海域からの離脱をはじめたからである。
その直前に、従者であるのか半裸の少年が操る小舟に同乗した貴婦人を、〈ローエンデニウム〉が回収するのが目撃された。
こちらに少なくともひとつは長射程を持ち、一撃で〈ローエンデニウム〉を撃沈できる兵器――つまり、〈シヴニール〉が存在することがあきらかになったからではないか、とラーンは推察した。
そして、すでにある一定の成果を夜魔側が得たからではないか、と。
その推察はほぼ、的中していた。
特殊軍務艦:〈ローエンデニウム〉の艦長である高位夜魔:サージェリウスは、現実主義者である。同時に慎重な男であった。
残月大隊の騎士として唯一の帰還者:アーネストの報告を聞くや、転進離脱を命じた。
大規模範囲攻撃をしかけることの危険性を充分に熟知していたのである。
艦艇:〈ローエンデニウム〉には予備戦力があったが、それを投入し消耗させてよいとは判断しなかった。
法王庁の聖騎士が所持するという竜槍:〈シヴニール〉の威力を、遠方からとはいえ観測していたこともあっただろう。
戦端にそれを用いたアシュレの判断がここでも、人々を救ったのだ。
カテル島は現在、未曾有の異変に襲われた危険区域であり、それは夜魔にとっても間違いなく、そのような場所に土地勘もないまま逐次戦力を投下するなどという愚をサージェリウスは冒さなかった。長命種の例に漏れず、夜魔も少子化の傾向にあり、これ以上優秀な人材を失う訳にはいかなかったからだ。
そして、もうひとつには理由がある。
ヴァイツの遺言であった。
アーネストの口からその言葉を聞き終え、サージェリウスはそれを主君であるガイゼルロン大公:スカルベリに奏上しなければならないと、己の使命に感じたのだ。
これは人類と夜魔、双方が戦場において遭遇した事例としては、すこぶる幸運な例外だった。
※
ごぼり、と水柱のなかに大きな気泡が生じた。
儀式参加者のうちのひとり――最後に残ったのは分厚い水柱の壁に護られた聖域の内側にいた四天使を模した介添人たち――が頭部を覆うマスクを狂ったように掻きむしり、それから頭部が、やがて肉体から身につけた祈祷衣を打ち破って無数の翼を発芽させるのをダシュカマリエはたしかに見た。
儀式は続いていた。いや、続けさせられていたというのが正しい認識だろう。
もはや、儀式は体をなしていないはずだった。
耐えられたのは人員が土蜘蛛の毒で倒れ儀式が停滞したところまでだった。
奇怪な装具で武装した夜魔――ヴァイツが、そして、土蜘蛛たちの解呪が、さらにそこに介入してきた法王庁の“聖泉の使徒”:ジゼルテレジアが巻き起こした破壊と断裂により当初行われるはずだった儀式は崩壊した。
施設はズタズタに破壊され、取り返しのつかない状況だったはずだ。
それなのに儀式の中心を司る《御方》の死骸:〈コンストラクス〉は止まらない。止められない。
それどころかいまや、使われているのは、わたし自身なのだ、とダシュカマリエは戦慄する。
みしり、めきり、と肉体がひしぐ音がする。
めこき、がしゅり、と心が壊れる音がする。
脊椎に食い込んだソケット、体内に深々と食い入ったカテーテルから得体の知れぬ――おそらくは〈コンストラクス〉の体液が流れ込んでくるのがわかる。
それは凍えるほど冷たく、やがて発火するように熱くなる。
そして、脳に食い込む銀の装具:〈セラフィム・フィラメント〉から、声がする。
救え、と。救済せよ、と。
創造せよ、と迫ってくる。
救い主を。
それはもはや予言ではない。強制だ。
ばんっ、とまたヒトがはぜた。今度は花だ。無数の花弁。
美しきもの。いとたかきもの。
それにひとが書き換えられてゆく。
こんどは楽器、楽団だ。儀式は音を得る。
そして聖歌隊。
言祝ぎだ。賛歌だ。ダシュカマリエの耳には、はっきりとそれが聞こえる。
生まれ出ずるものあり――と声がする。
聖母を讚えよ、と声がする。光が降る。
強大な《ちから》が、いっそう強く自分を使うのを、ダシュカマリエは感じる。




