■第三十七夜:狂宴
エレが一動作し、すぐかたわらに小さな召喚門を開いた。
召喚に応じ奇怪な節足動物が現われる。
黄金で出来た彫刻のような外殻を持つザトウムシのような生物。
黄金蟲、とそれは言う。
シオンはその脚に囚われ、宙吊りになっている。
呪術による括りだけでは飽き足らず、いや、これから行われる狂った宴のメインディッシュとしてのシオンを盛りつけるための舞台として、エレは黄金蟲を召喚したのである。
ちょうど八本の脚を持つ丸テーブルを逆さまにするような格好で、その蟲はエレの命に従う。
シオンは転がされる蝶の繭だ。
なんの感情も見出せない黄金蟲のガラス玉のような瞳に映るシオンの顔は恥辱に染まっている。
アシュレはエルマに促されるまま甲冑を脱ぎ捨て、仰向けになって、その様子を観ている。
エレはことさら、その淫蕩な芸術をアシュレに示したいようだ。
シオンの口だけは自由になるようで、その声にアシュレは呼びかけられるたび頭の奥が痺れるように痛む。
あのこえをきいてはダメ、とエルマが囁きながら指を、舌を、アシュレの首筋に這わせる。
みてはダメ、と告げる言葉には、しかし反対の意味が込められている。
「どうした? そんなに名を呼んでは、あの男はすべて観てしまうことになるぞ? 貴様がどんなふうにされてしまうのか。この器具の恐ろしいところはな、痛みなど感じさせぬところなのだ。どんなことも快楽にすり替わってしまう。肉体は苦痛を感じない。それなのに理性は保たれたまま――自分の肉体が切り捌かれ、取り返しのつかぬものに変えられてしまうのに、それを快感だと感じてしまう自分を見せつけられてしまうのだ」
エレはことさら見せつけるようにそれを視界にいれる。
ひとつひとつ、用途を観客であるアシュレに説明する。
正気であれば、エレの言葉のひとつひとつが、アシュレには受け入れがたい冒涜だと感じられたはずだ。
けれども、いまアシュレの意識には温められたミルクのように膜が、かかってしまっている。
ぼんやりと、その淫靡な予告編を観ているだけの自分がいる。
エレの愛撫とそれはあいまって、アシュレを刺激する。
エレはシオンの肉体にそれ――恐るべき負のフォーカス:〈ジャグリ・ジャグラ〉をひとつひとつ突き込んでいく。
そのたびにシオンの肉体が痙攣し、声が上がる。
最初、憤怒に彩られていた叫びは、やがて慟哭になる。恥辱と屈辱によって。
最後の一本が突き込まれたとき、それは嗚咽に取って代わっていた。
おぞましい人体改変器具:〈ジャグリ・ジャグラ〉は対象の肉体をまるで粘土のようにしてしまう。
エレはそれをひとつずつ突き立て、その効能をまず、シオンにしらしめたのだ。
これを本気で振われたら変えられてしまう、とわからせるためだ。
それは、痛みよりも恐ろしい快楽の存在を、実体験させるためだ。
アシュレは止まぬ愛撫の最中にそれを観て、聞く。
ちり、と脳裏がまた痛んだ。ちくり、と胸が痛んだ。
悲しみだ、とアシュレは自分の心に起きた痛みを理解する。
エルマが身を寄せてくる。
受け入れなければならない、とわかっていた。ボクは、このコを愛しているのだから。
だけど、どうしてなのか。なぜ、こんなに、かなしいのか。
つう、と涙がこぼれ落ち。
肉体はエルマに手を伸ばし。
瞳はシオンから離せずに。
どこかでごうと、渦を巻いて――《意志》がはたらく。
※
なにが起こったのか、一瞬、ノーマンには理解できなかった。
窮地だった。
戦鬼の装具と一対となった夜魔の騎士、ヴァイツの戦いぶりは悔しいが見事、と表現せざるをえないものだった。
たしかに、非戦闘員がその攻撃には巻き込まれた。
非情と言えば、それは非情。
だが、ここは月下騎士にしてみれば戦略上の最重要攻略目標、その深奥・中核であり避けがたい戦場だった。
そこを攻めるな、というのは戦士階級の理屈としてあきらかに筋が通らない。
そして、ヴァイツの攻撃は決して非戦闘員を対象に取ったものではなく、その余波、迸り出るパワーが流れ弾のようにして、たまたま逃げ遅れた人々を巻き込んだだけなのだということも、ノーマンにはわかっていた。
一瞬でも気を抜けば死神の鎌によって拘引される死地にあって、抹殺すべき敵勢力に属する住民に配慮する理由などどこにもない。
ヴァイツにしてみれば、ここは敵地であり、すなわち自身と数少ない味方以外は、その抹殺を願う敵勢力のど真ん中にいるのだ。
これは戦争なのだ。スポーツでは、ない。殺し合いだ。
だが、それでもあえて弱者を好んでは殺戮しない、という最低限の誇り、矜持がヴァイツにはあった。
無能力者を――あえてこう記述する――を好んで的にとることはしない=強者としての支配者階級との決着を望んでいる。
ノーマンはそう了解した。
実際に、ヴァイツは凄まじい戦いぶりを見せた。
人類では、いやたとえ夜魔であっても、決してありえない場所、体勢から繰り出される攻撃は、そのどれもが掠っただけで骨を砕く超スピード・重質量の技である。
無論、その意味ではノーマンの纏う《フォーカス》:〈アーマーン〉も同様だった。
たしかに〈スローター・リム〉:〈ジガベルトフ〉は夜魔であるヴァイツに強大な戦闘能力を付加した。
それはこの惨状からも一目瞭然だ。
しかし、それは同時に夜魔としてのある特性をヴァイツからも奪い去っていたのだ。
それは再生能力である。
ヴァイツ自身が、という意味ではない。〈スローター・リム〉という機材が、という意味である。
たしかにいかに〈アーマーン〉が強大無比の《ちから》=消滅を司っているとはいえ、《フォーカス》を一瞬で消し去ることはできない。
それは激しく抵抗を示す。ただの物質ではそれはないのだ。
ヒトの《意志》の顕現である《スピンドル》エネルギーを、物理現象として変換し放出するデバイスであるのだから。
けれども、それはもし仮に破壊することができたなら――その再生は不可能である、ということをも意味していた。
ノーマンはそこに活路を見出す。
相手が頓着せぬからといって、こちらが味方の損害を考慮せぬなどというわけにはいかない。
ノーマンの両腕:〈アーマーン〉は攻防一体の武具であるが、その防御能力は積極的な攻撃行動によって引き出される戦術的アドバンテージに拠るところが大きい。
相手の攻撃を打ち消しながら攻撃できる《ヴォイド・ストリーム》や、移動範囲を限定することのできる《ブレイドリィ・タービュランス》のような広範囲殲滅技を用いることで得られる優位性であったのだ。
それを封じられたカタチになったノーマンは、だから賭けに出た。
事態は切迫していたからだ。
土蜘蛛の暗殺者――エレとエルマ姉妹の恐るべき連携と狡猾な計略が、ノーマンたち小戦隊の両翼を搦め捕り、切り崩しつつあったからだ。
目にも留まらぬヴァイツの攻撃を、ほとんど勘だけで躱し捌きながら目まぐるしく回転する視界のなかで、ノーマンは窮地に陥る仲間たちを見てとっていた。
戦場ではまず司令官を真っ先に討ち取ることがセオリーだ。
結局のところこの時代の戦争は、それが征服欲から発したものであれ、民族的対立・宗教的対立に起因しているもの、あるいは他種族による侵攻であってさえ、集約すれば思想、思惑の対立であり、それは結局のところ司令官たる支配者層にしか持ちえないものであったからだ。
軍隊という有象無象の集団を取りまとめているのはその支配者、指導者が掲げる思想、理念、思惑――それをあえて《意志》と呼ぼう――に過ぎないからだ。
エレとエルマはそのセオリーを理解し、体現し、実行した。
彼女たちの狙いはアシュレだった。
おそらくは先刻の連携の中心にアシュレがいたことを見てとっていたのだろう。
連携の際に果たした、アシュレの司令官としての役割を、である。
この戦いは、その根源に言及すれば、アシュレという男の《ねがい》に起因している。
たしかに大司教:ダシュカマリエは半年以上も前にその動向を予言し、彼を助け、そしてイリスの身篭る子を“救世主”であるとした。
カテル病院騎士団がこうして死力を尽して戦うのはその意向に同意し、運命を共にすると決めたからだ。
本来ならば仇敵であるはずの土蜘蛛:イズマや夜魔:シオンとの共闘も、ダシュカマリエが提供した庇護と、奇跡――〈コンストラクス〉による聖母再誕――がなければありえなかったことだろう。
ここに果たしたカテル病院騎士団の功績と存在は大きい。
けれども、そのすべての、事象の発端には、アシュレダウという男の行動が関わっている。
彼が望み、その望みを実現すべく起してきた行動に、だ。
そこを突かれた。
そして、アシュレの窮地に、シオンが飛び出してしまった。
普段冷静沈着な夜魔の姫が、心奪われ、動かされた。
それはこの戦い、この一連の出来事の中心にアシュレダウという男が、どうしようもなくいる、という証左に他ならない。
数秒でいい、とノーマンは思った。
数秒の時間を稼ぎたかった。
この猛攻から抜け出し、取り返しのつかない状況へ落ちていこうとしている戦況を覆すための一打を放ちたかった。
そのためには《ねがう》だけではだめだ。
行動せねばならない。
刹那、ノーマンの眼前にヴァイツによる本来ならば避けるべき強大な攻撃が撃ちかかってきた。
隣接するすべてを破砕・破壊する突進技:《ブラスティング・パスウェイ》から連携でもって繰り出される《ラスティレッド・デスサイズ》――その名の通り、赤錆色の死神の鎌。
命を刈り取る刃と化した脚の一撃。
左右から襲いかかる衝撃波が逃げ場を奪い、頭上から重質量の踵落しが迫った。
それも跳躍から一回転に拠って繰り出される雷速の一撃だ。
格闘の教練であれば落第必至の見せ技が――連携として組み込まれたとき、超高速、そして充分に練り上げられた《スピンドル》を通された《フォーカス》によって放たれたとき、いかに恐るべき死の顎門となりうるのかを、ノーマンはその身を持って体験した。
あきらかに必殺の《意志》がそこにはあった。
だからこそ、あえてそれを受ける覚悟を決めた。
血によって侵食・腐食された赤錆色の大鎌を掲げる死神の姿を、ノーマンは見た。
流星の激突を思わせる轟音が周囲を圧した。
衝撃にノーマンは膝をついた。
メキメキと全身がひしぐ音がした。
切り捌かれた傷口からマグマのように吹き出す己の血潮を、ノーマンは感じた。
失われていく血液と引き換えに、傷口から冷気が吹き込んでくるのを自覚する。
だが、それでもノーマンは生きていた。
頭上で凶獣の断末魔にも似た破砕音が響いた。
ノーマンの捨て身の覚悟が、ついにヴァイツの放った《ラスティレッド・デスサイズ》を凌ぎ切り、打ち破って、その右脚を捕らえたのだ。
ヴァイツの肉体:〈スローター・リム〉を構築する重金属から激しく火花が上がった。
消滅の《ちから》を司る神器:〈アーマーン〉の発生させる虚無の刃が〈スローター・リム〉の強靱な防護を食い破り、ついに真芯に到達した証拠だった。
鋼で作られた鞭のように左足がノーマンを打ち据えた。
ガードの上からでも骨を砕きうる攻撃がノーマンをいくども打つ。
だが、それでもノーマンは掴んだ右脚を離さなかった。
おそらく、数秒もなかったであろう。
豪奢なシャンデリアを高速回転する刃のすり鉢に突き込んだような音とともに、〈スローター・リム〉の右脚が破砕され、どっと赤褐色の液体が噴いた。
強大な死の暴風に、人類がその《意志》で打ち勝った瞬間だった。
それは同時に、ノーマンが渇望した貴重な一瞬だった。
激痛に飛びそうになる意識を必死にたぐり寄せ繋ぎ止め、ノーマンは擱坐したヴァイツの脇を擦り抜けようとした。
アシュレを、シオンを、その窮地を救うべく。
間違っていた。
ざくり、とその腹部が切り捌かれた。
「ラスティレッド――錆赤の名は、改めさせてもらおう。《ブラッディ・ムーン・デスサイズ》。それがこの技の名だ」
薄くヴァイツが笑った。
ヴァイツの纏う〈スローター・リム〉は、本来、戦鬼にとって義手であり、義足であり、義体ですらあると前述した。
それは、その全身を満たす潤滑液を〈スローター・リム〉と共有するということを意味している。
そうでなければ“関係”は成立しないからだ。
そして、この〈ジガベルトフ〉もまたその例に漏れず、“関係”することをヴァイツに望んだ。
血を操作することは高位夜魔の基礎的な異能だとも述べた。
ヴァイツにとって、この〈スローター・リム〉:〈ジガベルトフ〉は肉体の延長であり、武器であり、そして鞘であったのだ。
己の血という最後の武器を隠し通すための。
重質量の攻撃はこの研ぎ澄まされた血液の刃を隠匿するための、カモフラージュでしかなかった。
ワインを一杯に詰めた皮袋が裂けたような音がした。
ノーマンが頽れる。
それは死に至るほどの傷だった。
ノーマンにはもう、一歩でさえ踏み出す力が残されていない。




