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■第三十六夜:いばら姫の陥落


「アシュレッ、気をしっかり持てッ、まやかされるでないッ!!」

 シオンは焦燥に胸を焼かれるような思いを味わっていた。

 エルマの舞いを追うアシュレの動きは単調で、すでに土蜘蛛の呪術がその肉体にも心にも深く絡みついていることはここからでもよくわかった。

 

 アシュレが未熟なのではない。

 敵があまりに手練れであり、また悪辣あくらつであった。

 

 このような限定空間、しかも要救助者である非戦闘員たちがパニックに陥った状況下で、アシュレのような広範囲殲滅能力の持ち主がその力の多くを減じられてしまうことは必然と言える。

 対するエルマの異能は、まさしくこのような状況下でこそ最大限にその力を発揮するものであった。

 

 環境的的要因だけをみても、圧倒的にアシュレが不利であることは明白。

 それは生い茂る密林のなかで大ハンマーを振い、蝶をとらえようと躍起になるようなものだ。運用が違う。

 敵は的確にそこを突いてきた。

 

 アシュレの甲冑が地面に打ちつけられる音がした。

 思わず振り返ると、エルマにのしかかられたアシュレが惚けたようにこちらを見ているところだった。

 危ういところで保たれていたはずの均衡が、ついに崩れたのだ。

 

 せめて非戦闘員たちが退去するまでは、とシオンは大技の使用を戒めてきた。

 ノーマンも、アシュレもそうだ。

 それが防戦一方の、この苦戦を招いていた。

 それでもあと四半刻、いや十五分でいい、耐えることができたならば、覆す自信がシオンにはあった。

 だが、敵はそれを許すほど甘くはなかった。

 

 カテル病院騎士団と夜魔の姫をつなぐ橋渡しの役割を果たす存在――すなわちアシュレを素早く見抜き、狙いを定めてきた。

 己の異能の効果を声高にエルマが話したのも、おそらくはシオンの精神的動揺を誘うためのものだ。

 シオンがアシュレに愛を捧げていることを、エルマは知らずとも察したのだろう。

 それこそ女の勘で、だ。 

 つまり、オマエの想い人を寝取ってやるぞ、と。そういう駆け引きだ。

 

 その効果がなかったといえば嘘になる。

 一刻も早く駆けつけ、その呪詛を引き剥がしてやりたいと感じるのは、アシュレがこのパーティーの要であるから――だけでは、ない。

 誤魔化しようのない悋気の炎が胸中に燻るのをシオンは認めざるをえない。


 思わず身を翻し、駆け出したシオンの肩口をエレのブランチ・フックが掠めていった。

 シオンはかまわずそのまま、アシュレに向って駆け出した。


 常識的な判断に沿えば、考えられぬような悪手である。

 死をかけた戦いの最中に敵に背中を見せるなど自殺行為以外のなにものでもない。


 けれども、その明白過ぎる悪手を躊躇ちゅうちょなく選ばせる強大な自己再生・復元能力を高位夜魔であるシオンは持ち合わせていた。

 通常の武器であればたとえ、首を切りとばされてもシオンは絶命しない。

 たとえ《スピンドル》能力を帯びた攻撃であっても、一撃でその存在すべてを焼き払われたりしないかぎりは、数日、どんなに徹底的な破壊を受けたとて、数年のうちには復活を果たしてしまう。

 

 そして、これまで交わされた互いの手札から、シオンはエレにそこまでの巨大な殺傷能力を持った異能の手持ちがないことを悟っていた。

 シオンのこの行動は、だからなかばエレの攻撃が我が身に突き立つことを前提とした覚悟によるものであった。

 

 だが、それこそがエレとエルマ姉妹の狙いであった。

 突き込まれた切っ先は、逸れたのではない。

 

 ブランチ・フックには大きく返しがついていた。

 釣り針を想像すればわかりやすいだろうか。

 実際には突き込まれる切っ先はフェイントであり、手前を向いて張り出したカギのような返しで相手の肉を絡めとるための武器であったのだ。


 それがシオンの肩口に食い込んだ。

 肩までの甲冑を兼ねる〈ハンズ・オブ・グローリー〉の途切れた場所、鎖骨にかかったのだ。

 体格、体重でエレはシオンにはるかに勝る。

 異物が肉体に突き立つ怖気の走るような痛みとともに、引き戻されシオンは体勢を崩す。

 

 たとえ夜魔であっても痛みは人間と同様に感じる。

 シオンがその激痛にアシュレへと駆け出しかけた足を止めたとて、なんの不思議もなかっただろう。

 

 けれどもシオンは止まらなかった。

 そのまま肉がひきちぎれるのもいとわず、加速した。

 

 ひゅ、と鋭い呼気とともありえぬ柔軟性で地面に伏せたエレが、笑った。

 感心したものか、あきれ返ったものか――シオンの一途過ぎる行動に――それはわからなかったが。

 

 振り抜かれた〈ローズ・アブソリュート〉がエレの頭髪をごっそり切り捌いた。

 後ろを振り返ることもなく薙ぐようにシオンが大剣を振ったのだ。

 

 エレはその瞬間には未練なくブランチ・フックから手を離していた。

 そして、〈ローズ・アブソリュート〉の一閃をかいくぐると、左手のグリム・クローでシオンの脇腹を掻いた。

 ぐう、とさしもの夜魔の姫も呻いたが、それでも止まらなかった。

 

 己がたどり着きさえすれば、必ずアシュレを救うことができる。

 そう固く信じるシオンの《意志》の《ちから》は、流石のエレさえも感じ入らずにはおれなかった。

 

 そして、感じ入ったからこそ、その心を打ち壊すための道具として、最適であると改めて確信した。

 エレの笑みは、それを見た者の背筋を凍らせるものとなる。

 

 アシュレは決死の覚悟で自らのもとへ駆けつけようとするシオンの姿を見ていた。

 裸身に外套を纏っただけのシオンは、己の身が傷つくことさえ省みず、アシュレのもとに駆けつけようとしていた。

 その背後を襲う、エレの振う刃がその肩口にかかり、脇腹を裂いてもシオンはその足を止めようとはしなかった。

 

「あれは」とアシュレは声にした。

「わたしたちの愛に、嫉妬しているのですわ」

 エルマが答えた。

「わたしが、アシュレさまに愛されることが嫉ましくてたまらないのですわ」

 ほんとうに、みぐるしいこと。ころころとエルマは笑った。

 

 アシュレはどう答えていいかわからない。

 ただ、エルマの声が耳朶じだを震わせるたび、その吐息を感じるたび、そしてその指先が触れるたび、抗うことのできない官能のざわめきが四肢を伝わるのだ。

 

「それにしても、じゃまな、甲冑ですこと。あの女そっくりですわ」

 取り除いてしまいましょう。

 エルマがサーコートに手をかけると、それは音もなく切り捌かれた。

 甲冑の留め具に手がかかる。アシュレは抗おうとはしなかった。

 ただ、そのシオンという娘が、エレの魔手に捕らえられるのをなにか素晴らしいショーの始まりを待つように眺めていた。


 灰銀色の投網がシオンを捕らえたのはその時だった。

「《ブラックウィドウズ・ソーサリー》」

 エレの秘術であった。

 シオンの推察の通り、たしかにエレは広範囲に渡り超威力をもって破壊・殺戮するための異能をほとんど習得していない。

 それは召喚術や使役術で事足りるからだ。

 だが、だからといって致命的な異能を会得していないわけでは、またなかったのだ。

 

 そのひとつがこの《ブラックウィドウズ・ソーサリー》である。

 極めて強力な拘束力を持つこの投網は、たとえ巨人の怪力を持ってしても引きちぎることは不可能であった。

 

 もともとは竜を生け捕る風習を持つベッサリオンの部族が得意とし、その狩りに用いてきた異能なのである。

 妻は狩りに赴く夫や息子に、あるいは恋人に己の長く伸びた髪をその触媒として与え、同時に無事の帰還を祈るものであった。

 それが未亡人を意味するブラックウィドウの名を冠するようになるには、長い変遷と皮肉な物語があるのだが、詳しくはまたの機会に譲ろう。

 

 とにかくも、その強力な束縛の呪いがシオンを捕らえたのだ。

 たったいま、シオン自身が斬り捌いたエレの髪そのもの触媒として。

 がらり、と〈ローズ・アブソリュート〉が地に落ち、転がって鈍い音を立てた。

 

「くっ」

 その強力な拘束力に搦め捕られ、シオンもまた床に縫い止められるカタチになった。

 シオンの身体にその網は食い込み、完全に拘束した。

 

 呪術に対し強い抵抗力を持つはずの高位夜魔さえ捕らえる術式は、伸ばされた髪の長さに比例する。

 エレのそれはすでに数十年の時を経たものである。それを一度限りの代償として用いた。

 だからこそ、シオンにもかかる。

 無残に折り曲げられ、無理な体勢を強いられるシオンの姿はまさしくクモの網に捕らえられた貴種の蝶、そのものであった。

 

「コウモリめが、ようようかかったな。もはや逃げられんぞ」

 エレが身動きできぬシオンを見下ろして言った。

 シオンは犬歯を向き出し、威嚇する。

 怒れるジャガーのように暴れた。

 解呪を試みるが、強力な呪いは小揺るぎもしない。

 むしろその術式を変化させ、強度を増してしまう。

 

「無駄だ。もがけばもがくほど、その網は食い込み、締め上げる」

 エレの言う通りだった。

 シオンの華奢な身体にその網はぎりぎりと音を立てて食い込み、その肉体を前衛的なオブジェのように捻じり上げる。

「あの忌々しい大剣=〈ローズ・アブソリュート〉ならば切断できるだろうが、そのための刃は、手を離れてしまったしなあ。もっとも、それを扱うための装具のせいで、オマエは《影渡り》で躱すこともできなかったわけだが」


 シオンを踵で踏みながらエレが言った。

 シオンにできたことは、それだけでヒトを殺すことができるのではないのかいうほどの視線で、エレを睨みつけることだけだった。

 

「いいぞ、いい顔をしている。いつまでもつか、これは見物だ」

 安心しろ、殺しはせん、簡単にはな。

 舌なめずりが聞こえてきそうな調子でエレが言った。

 

「身も心も、嬲り尽してやろう」

「下衆め」

 苦しい息の下でシオンがようやくそれだけ言った。

 

「そうとも。いいぞ、その反抗的な態度は。すこしは歯ごたえがないと、こちらも興ざめというものだからな」

 シオンの罵りを、むしろ余興と受け流しながら、エレは腰のポーチからスクロール状に巻かれた革製の道具入れを取り出した。

 なめされた皮は竜のものであった。

 括りヒモが解かれ、中身があきらかになる。

 現れたのは、その出自も口に出すことが憚られるような道具の数々だった。

 それは拷問具でも、外科施術の道具のようにも見える。

 ただ、その一面にびっしりと施された禍々しい彫刻は見るものに耐えがたい生理的嫌悪を引き起こすに充分過ぎる代物だ。

 

 シオンは目を見開き言葉を失う。

 その反応にエレは満足そうに頷いた。

 

「汚らわしい、と思っただろう? おぞましい、と感じただろう? そして、まさか、と怯えたな?」

 いいぞ、とエレは笑った。音もなく。

「大公息女殿下は、これのなんたるかを言わずとも察してくだされたようだな?」

 そこから立ち上る気配に、シオンならずともそれが《フォーカス》であることは察しえたであろう。

 それも、とびきり邪悪な目的を持った。

 

「むかしむかし、禁断の領域に足を踏み入れた狂った老博士たちが、生物の姿を生きながらに変えるに使ったという品さ。これら十三種でひとつそろいの《フォーカス》:〈ジャグリ・ジャグラ〉。よく観ておけよ?」

 いまから、その効能をひとつずつ、貴様の肉体で理解させてやるのだからな。

 

 それだけ告げると、エレは視線を周囲に走らせた。

 

 夜魔の騎士:ヴァイツは、なるほど口先だけの男ではなかったようだ。

 カテル病院騎士団の男=ノーマンを完全に圧している。

 ノーマンは防戦に努めているからこそ対応できているが、自分たちが加勢すればこれは一気に天秤は傾くだろうとエレは判断した。

 

 だが、すぐに手を貸す必要はあるまい。

 

 遅れてきたのはヤツのほうだ。

 それまでたっぷり楽しみ、観戦しただろう分を返してもらわなければならない。

 そう、こんどはこちらが楽しむ番だ。

 

「ひとことだけ言っておくぞ、シオンザフィル。いまから貴様は生き地獄を味わう。きっとこの《フォーカス》を造り出した連中への憤怒と憎悪と怨恨で気が狂わんばかりになるだろうよ。それほどの苦しみ、恥辱をこれは創り出す。貴様の肉体にも、心にも刻印する。経験者が言うんだ――忘れられなくなる」


 そして、思い出したように告げた。

 自らの妹に。

 

「はじめろ、エルマ。奪ってやれ。オマエがそうされたように。わたしたちがそうされたように。オマエたちの愛を見せつけて、壊してやれ。この女の心を」


 狂気の宴が始まろうとしていた。




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