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■第三十三夜:呪詛放つもの

         ※


 多くの《フォーカス》には、それを使用して異能を発動中の能力者を、その威力や余波から防護する働きがある。

 多重攻撃の直後に巻き起こった大破壊からアシュレたちが生還できたのはシオンの放った《ヴァーミリオン・ヒュー》、そしてノーマンの異能=強固な防御壁:《ガーディアンズ・ウォール》、最後にそれぞれの《フォーカス》が発動した防護壁が彼らを護ったからだ。


 限定的空間で引き起こされた爆発と暴れ回る衝撃波。

 それによって逃げ場を失った水蒸気が数百度を超す嵐となり、さらに落盤がそれに続く。

 激しく地面が揺れ、防護結界の外で水と岩石とが荒れ狂った。

 おそらく、その状態自体は三十秒と続かなかっただろう。

 だがアシュレには、その長さが永遠に感じられた。

 

 視線の先、ほんの一メテルのところに地獄があった。

 文字通り阿鼻叫喚の地獄だ。

 

 とても、この防護の外にあって、生き残れたかどうかわからなかった。

 その脅威が収まるのと、防護壁が消えるのは同時だった。

 

 水位は下がっていた。

 アシュレは脱力して、濡れた床に仰向けに転がったまま、視線を巡らせた。

 それから息を呑んだ。

 

 もうもうたる水煙と塵芥とがまだ宙に舞っていたが、それでも自分たちがおかれた状況は、惨劇を通り越してもはや喜劇に近かった。

 まず、全員の上にヴィトライオンがいた。

 

 勘のよい愛馬はもっとも安全な中央に陣取り、主人たちを跨いでいた。

 右手側にノーマンが同じように仰向けに倒れ、生き残ったことが信じられないとでもいうように、なかば放心状態で宙を見上げている。

 たしかに、奇跡のような連携だった。

 

 まるで自分の背後に目があるように――正確には、シオンの視点で見えているかのようにアシュレには感じられた。

 迎撃など間に合わない。

 防御など間に合わない、とわかっていた。

 通常の応手など土蜘蛛の格闘術の前には意味を成さない――迫り来るエレの脅威を前にして、すくなくとも、いまの自分の技量ではかなわない。

 そうアシュレは判断したのだ。

 いつか訓練場で交えた、イズマとの戦いの経験がそうさせた。

 

 だから、思いきりよくそのすべてを放棄して、転がった。

 そうすることでノーマンの姿勢をも変え、凶手の攻撃から彼を護った。

 

 続く〈シヴニール〉による射撃、シオンの《ヴァーミリオン・ヒュー》、そのどれもすべてが一瞬でも遅れれば全滅必死の、綱渡りだった。

 しかし、アシュレが真の意味で放心、心神喪失に陥ったのは、そのどれに対してでもない。

 

 天国が目の前にあった。

 こほん、おほん、いや、けしからん光景が眼前にあった。

 

 シオンの裸身がアシュレの胸の上には展開しており、それでありながら重要な箇所は秘されており。

 それは羽織った外套を前をキチンと留めていなかったシオンに非があり、着衣には想像を刺激する功罪があると知り。

 一部は水に浸かって透けており、いつか見た影による遮蔽もなく、アシュレには一片の非もないはずで、それは素晴らしく、事故であり、いや決して衆人環視にさらしてよいものではなく。

 むしろ寝室限定の門外不出、レーティングもゾーニングも遵守すべき厳重管理の保存版であった。

 

 さらに、右脚に練りつけられた呪いを引き剥がす苦痛に眉根を寄せるシオンの表情がアシュレの胸を突いた。

 目尻に溜まった涙。

 いけない胸の高まりは、先ほど潜り抜けた死地に由来するものであると信じたかった。

 信じたい……若者である。

 

「くっ、変な呪いをくっつけおって……えんがちょ、だ!」

 脚を這い上がろうとしていた奇怪な百足のカタチをした影が、シオンにつまみ上げられ捨てられた。

 被害者の再生を阻害する呪い――《センチビード・ヴェノム》である。

 高位夜魔であるシオンにかかっては、剣呑な土蜘蛛の呪いもその程度の扱いなのだろう。

 シオンはまるでおろしたての靴を履くように、切断された自らの足を癒着させた。

 

 そのあたりがアシュレには限界だった。

 楽園がパラダイスで、ユートピアがコーリングだった。

 

「やった……のかな」

「わからない……しかし、派手にやりすぎた。イズマは無事か?」

「殺しても死ぬような男ではない。だいたい害虫とか雑草とかいうものは昔からしぶといものと相場が決まっているのだ。あっさり死ぬのは英雄や、良いヒトの特権だぞ?」

 イズマを案ずるノーマンに、シオンが答える。

 なにか、ひどい例えをイズマがされている。

 あまりな話に笑いが込み上げ、ふっと気が緩んでしまう。

 次の瞬間にはシオンは胸の上から去っており、転がったままのアシュレをヴィトライオンがのぞき込んでいた。

 がばり、とアシュレは跳ね起きる。

 数秒、気絶していたらしい。

 疲労と消耗が激しすぎる。

 それでも周囲を検分するシオンとノーマンに続いて、はじき飛ばされた〈ブランヴェル〉を探した。

 もちろん、警戒は怠らない。

 戦闘は始まった瞬間と、終わったと思った瞬間がもっとも危ないのだ。

 

「通路が……瓦礫で埋まってしまっている……参ったな、奥の院へのほうもか」

 ノーマンが状況を観察して言った。

 水煙と塵埃が混じり合う洞内を検分するうちだいたいの状況があきらかになったきた。

 そして、事態の逼迫の度合いはよりいっそう高まりこそすれ、決して下がってなどいないのだということも。

 土蜘蛛の凶手と姫巫女、ふたりの死体はどこにも見当たらなかった。

 破片も、遺留品さえ。

 

「段階的に結界を破りながら奥の院へ進んだとしか考えられない」

「イズマを連れてか?」

「可能性は大だ。やつら高位の土蜘蛛は物質透過の技を使う。もっとも、それを使ってさえ結界は抜けれんはずだが……」

「奥へ、急ごう」

「この落石をどうする? 人力で取り除いていては、時間がいくらあっても足らんぞ?」

「どかしているような暇はない。――消し去るさ」

「ノーマン、そなた……坑夫向きだな」

「用途を聞いたら歴代の使用者たちにどやされるだろうが……いたしかたない」


 そんな会話をノーマンたちがしている間、アシュレはどうにか〈ブランヴェル〉を見出した。

 落石に埋もれていたが、さすがは《フォーカス》だ。

 傷ひとつない。

 アシュレは家宝の盾を拾い上げ、身につけなおした。

 

 そのとき奇妙なことに気がついた。

 足元の水が……動いている。

 いや、振動しているのではない。

 まるで吸い寄せられるかのように――はっきりと、ある方向に向って……。


「これって……」

 アシュレが異変に気づき、振り向いたときには、シオンもノーマンも臨戦態勢に入っていた。

「――流石は、腐っても水神というところか」

「うんざりするほどのしぶとさだな」


 その体表面を打ち据えた落石を轟音とともに払いながら――〈ヘリオメドゥーサ〉:タシュトゥーカが現れた。

 ほとんどの頭を切り払われるか、潰されながらも、それは大気を切り裂くような咆哮を上げた。

 そして、同時に、その真の姿があきらかとなる。


 腹部に黄金で覆われた女神の顔があった。

 ただし、それは復讐の女神の顔だ。

 

 髪の毛を擬態する金色の装飾がガラガラヘビの尾のように震えていた。

 それは怒りの色で染まった恐ろしい太陽のようにも見えた。

 女神の足元には、深い縦穴が生じている。

 どこへとも知れぬ次元に通じる漆黒の穴だ。


 召喚を維持していた術式が破れ、その存在をこちら側に安定しておけなくなった証拠だった。

 これは特に不本意な服従を強いられた召喚獣が制御を失った瞬間、召喚者を攻撃対象とする事態に対応するための安全装置として通常は働く。

 タシュトゥーカについてもそれは当てはまる。

 そのはずだった。

 

「蛇の一派は情けが深いとも聞くが……その執念深さだけは、ほんとうのようだな」

 情けの深さでは既知の女性でも一、二を争うシオンが言うのだからアシュレは納得するとともに、なにか空恐ろしい予感に背筋が震えた。

 タシュトゥーカはその肉体と膂力で、自らを引きずり込もうとする時空の裂け目に抗していたのだ。

 足元を召喚印の図式が小さな雷光を上げて走る。

 

「呪われよ」

「呪われよ」

「呪われよ」


 言葉の意味はわからなかったが、破れ鐘のような声でタシュトゥーカが叫ぶそれが、呪詛であることはアシュレには、はっきりとわかった。

 

 瞬間、がぼり、とアシュレの口腔から水が噴いた。

 水を飲んだわけでもないのに胸の内に突然、大量の水が湧いたのだ。

 救ってくれたのはノーマンだ。

 瞬間的に《意志》を集中し、呪いを打ち破る。

 海蛇たちの呪いのありようを知るカテル病院騎士団員ならではの対応の速さだった。

 またたく間に呪いは解呪されたが、消耗は激しかった。

 

「大事ないか」

 ノーマンにアシュレは咳き込みながら手を上げて応える。

 

 呪いをはねつけたシオンが、ノーマンが切り込んでいく。

 アシュレは盾を構え、槍を掲げて続いた。

 三位一体の攻撃を受け、蛇の女神は呪詛の咆哮を上げながら、召喚門に引きずり込まれていった。 


 それでも、襲撃の時刻から、すでに二刻あまりが過ぎ去ろうとしていた。


         ※


 エレは眼前で解呪に専念する妹:エルマの姿を見守っている。

 結界もいよいよ最後の一枚だ。

 

 人間のものにしては念の入った防護措置がなされていたが、儀式・呪式の扱いにおいて、土蜘蛛に勝る種などない。

 ことこのような構造的なものであればなおのこと。

 そのなかでもエルマは、そしてエレも、かつて隆盛を誇ったベッサリオンの一族の姫巫女だったのだ。

 

 エレは妹が切り開いてくれた退路に転がり込むと、やがて来るであろう追跡者たちの足止めに呪いや物理的、薬物的な罠を設置しながら撤退した。

 エレの衣服に縫い止められた宝飾品、そして衣類そのものも、《スピンドル》を通すことで起動する消耗品――呪具だったのだ。

「それにしても、姉様……よくご無事でした」


 合流した瞬間、エルマは姉の胸にすがりつきながら言ったものだ。

 互いを己の分身と思うほど慈しんで生きてきた姉妹である。

 だから、同じ男に恋をしたことも、ともにその男を等しく愛そうと誓ったときも、なんの違和感もいだかなかった。


「いや、危なかった……じっさい、ほとんど奇跡だったよ」

 妹にだけは優しく微笑み、いたわりを忘れぬ姉である。

 悲惨な体験にねじ曲げられてしまっても、それだけは変わらぬ愛を妹には注いできた。

 陰惨な凶手の訓練の最中にあってさえ。

 だが、その生き地獄を潜り抜けたエレをして、先ほど交えた戦いは心胆寒からしめるものがあった。

 

 “反逆のいばら姫”:シオンザフィル。

 カテル病院騎士団・筆頭騎士:ノーマン。

 叛旗の聖騎士:アシュレダウ。

 

 個々が卓越した戦闘能力者であった。

 シオンが、そして、ノーマンという騎士が手強かろうという予測は、むろんエレにはあった。

 意外だったのは、堕落した趣味を持ついばら姫のペットに過ぎまいと侮った――アシュレダウの恐るべき粘り強さ、そして、戦上手であった。

 その血統のゆえ戦闘能力、志気は群を抜いているであろう。

 しかし、それゆえこの小戦隊は奇策、奇手には疎いであろうとの予測があらかじめエレにはあった。

 

 彼らを分断し各個撃破する作戦にエレは出た。

 操り傀儡としたイズマを使ってそれをなそうとした。


 しかし、その後の展開を分析するに、その目論見は露顕していたと見てしかるべきだ。

 自らの目論見の甘さに、エレは自省するとともに、敵に賛嘆のような感情を抱いている自分を発見して驚いた。

 

 流れるような連携だった。

 あの少女のような顔立ちの騎士:アシュレが号令一下、全体が動き出すのを、エレは確かに見た。

 そして、夜魔の姫:シオンがその身を挺して稼いだ一瞬を、アシュレは見事に活かしきった。

 エレ自身が、まさか、と驚愕したくらいだ。

 

 まさしく刃の上を渡りきるような所業、紙一重の差で、彼らの連携は編まれていた。

 エレの凶手としてのプライド、矜持はズタズタに傷つけられた。

 それほどに完璧な――そう、たとえ夜魔の姫に気取られようと、あの一撃だけは決して躱せぬという自信がエレにはあった。

 実際そうであったはずだ。

 二重、三重に張り巡らされた罠、奇襲であったはずだ。

 

 それなのに、アシュレは自身だけではない、同じく戦列をともにした騎士:ノーマンの命すら救い、エレが投じたすべての脅威を退けたのだ。

 まったく見事、としか言いようがなかった。

 

 それどころか、その連携によって追い詰められたのはエレのほうだった。

 洞内を吹き荒れた暴力の嵐から、いったいどうやって生還できたのか。

 凶手としてその身に刻み込まれた生存への執念だけとは思えなかった。

 だれかにかばわれ、手を引かれたような――そんな曖昧模糊とした記憶しか、ない。

 

「まさか、な」

 香を焚きしめたエルマの身体と心を受け止めてやりながら、エレはかたわらに膝をつくイズマを見下ろしたものだ。

 そして、いま解呪を施すエルマの額には玉の汗が浮かんでいる。

 高度な結界は入り組んだ数式に似ている。

 それも一度しくじると数式そのものが変化してしまい、さらに難度が上がってしまう。

 だから極度の集中が必要だ。

 

 この通路の入り口は落石で潰された。

 シオンザフィルひとりなら、《影渡り》で飛び込んでもこよう。

 だが、こちらの戦力が三倍であること、そして罠が仕掛けられていることを知りながらそのような愚行に及ぶとは到底思えない。

 

 エレたちのように物質透過の異能を持つ者は少ない。

 となれば落石を除去してくるだろう。

 普通に考えても人力なら数日かかる難業だが、あのノーマンという騎士の異能と《フォーカス》は特別だ。

 稼ぐことのできる時間は、よくて数刻というところだ。

 

 そして、エルマが手を結ぶことに成功したという夜魔の騎士=ヴァイツは、あの乱戦には加わらなかった。

 いまごろ、水鏡の映像は途切れているだろう。

 そのようにセットしてあったからだ。

 手を汚さず座して、クライマックスまで観劇しようなどと甘い考えを起さぬように。

 

 もし、エルマの批評眼のとおりの人物ならば、あの戦いを観て血の滾らぬはずがない。

 とかく、武人とは頭に血の上りやすい人種だからだ。

 それでも、こちらの手のうちと協約の真偽を確かめるため、急いて飛び込んでこないあたりはいっぱしの将器と言えた。

 

 だが、この後はどうだ?

 この結界を打ち破れば、その奥にはカテル病院騎士団の頭目と側近たちが籠る儀式の間しかない。

 そして、結界を破ったエレたちは、転移用の座標をそこに置く=本来対である水鏡の片割れだ。

 ――《影渡り》で飛び込めるように。

 そこまでお膳立てをされて手出しでせずにすませることができるほど、上級夜魔のプライドは安くあるまい。

 いかにしても恥を雪ぎたいはずだ。

 エレは考えを巡らす。

 イズマは微動だにしない。

 

 果たして結界が破れるのは、夜明けまであと一刻と迫ったときだった。




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