■第八夜:黄昏の淵
正面突撃、とシオンは言ったが、戦術的には伏兵として敵の横腹を突き破る突撃騎兵のもっとも効果的な運用法をアシュレは実践した。
本来は横一列の馬上突撃による突破力で敵戦線を破砕するための戦法だが、騎兵はわずかに二騎。そのなかで槍を装備したものは一騎だけ。
戦局にどれほどの影響を与えられるかは、はなはだ怪しい、というのがアカデミーでの模範解答だろう。
ただし、それは槍がただの騎兵槍であった場合だ。
彼らは例外中の例外だった。
まず、アシュレの携える槍こそは古代の超兵器:〈シヴニール〉であった。
そして、自ら敵陣に切り込んで行くこのような状況でこそ最大限にその威力を発揮するのが〈シヴニール〉の特性だった。
アシュレは有効射程ギリギリで第一射を放った。
轟音と閃光が世界を焼き、まっすぐに伸びる光条が敵陣の腹を食い破る。
遅れて衝撃波が光条の後を追いかけ亡者の軍勢を吹き飛ばす。
超音速の空気の壁が、爛れた肉と引き攣れた骨と錆びた鉄とをばらばらに四散させ、完膚無きまで打ちのめした。
そして、その直後を陽光のごとき光を纏った騎兵が駆け抜けた。
その切先が幾種もの動物の骨を組み合わせ作り上げられた陰惨な攻城兵器の横腹に突き立ち貫通する。
――《クロスベイン・ファイアドレイクズ》。
突撃系の大技だった。
大木が倒れるような音がして、攻城兵器が地に倒れ伏す。
そこに薔薇の香りの竜巻が降り立った。
目を血走らせ頬をひきつらせ、アシュレの背後を追走していたイズマの背後から、背面のままシオンは身を投げた。
それが剣技のモーションの一部だなどと、だれが信じられるだろう。
巻布を剥ぐ仕草まで、優雅な舞姫のようであった。
瞬間、世界に白銀と赤の鮮烈が咲いた。
轟、と大気が唸りを上げる。
シオンが〈ローズ・アブソリュート〉の力を解放したのだ。《プラズマティック・アルジェント》。柄から飛び立った刃が敵の中央を壊滅させる。
電磁的網で連結された白銀の刃が嵐になり、強力な低気圧のように敵を引きずり込んだ。
攻撃エリアに引きずり込まれた亡者たちを聖剣がすり潰す。
再生の暇も与えず、次々と青い火柱に亡者たちを変えていく。
それでも、敵は圧倒的だった。
おそらく総数は一〇〇〇を軽く超えていただろう。
アシュレも少なからぬ手傷を負ったし、正しくはシオンですら、そうであったはずだ。
ただ、夜魔の貴種として、ほとんどの傷は瞬く間に再生する力をシオンは有している。
イズマは途中で乗騎に振り落とされたらしいが、茂みに転がり込み奇跡的に無傷だったという。
もっとも深刻だったのはヴィトライオンであった。
追いすがる矢が二本右臀部に突き立った。
さいわいにも命に別状ある傷ではない。
だが、当分、全速は不可能だった。
そして、このような局面では速力が生死を分ける。
アシュレは落馬こそしなかったものの、窮地に陥ってしまった。
しかし、驚いたことに人馬ともに傷を負い進退窮まったアシュレを救ったのは、あろうことか燃え盛る人家にとり残された人々だったのである。
ひらり、と男がひとり、木造の砦から降り立った。
下馬し、槍を振るって乗騎:ヴィトライオンを庇うアシュレの背後を守るように男は単身、身を躍らせた。
イクス教・グレーテル派の修道僧だと名乗った。
両の二の腕までどころか肩までを覆う異形のガントレットを武器として戦う。
その様は東方教会の一部の僧たちが使うという体術のようだった。
個人的な技量など、ほとんど意味をなさないはずの乱戦のなかで、男の技は恐るべき冴えを見せた。
徹底的な生への執着がそれを可能にしているとアシュレは思う。
至近距離からのクロスボウによる攻撃を、ガントレットの甲で逸らす腕前は明らかに師範級か、それ以上だった。
そして、それでも防戦に追い込まれつつあった彼らを救ったのは、イズマの異能だった。
「みんなー、どいてろよーッ!」
いつの間に陣取ったのか、村の見張り台の屋根にイズマが立っていた。
「どかないと、死ぬぞーッ!」
いつもはイズマの言など歯牙にもかけぬシオンが、それまで足場にしていた高台をあっさり放棄したことで、アシュレはそれが冗談などではないとわかった。
シオンが合流し、負傷したヴィトライオンを守るカタチで村の入口である坂を上りはじめた時だった。
「あああ、来ちゃう来ちゃう、来ちゃうって」
姫、いっちゃう、はやくーッ、と恥ずかしげな声をイズマが上げた途端だった。
「ああッ、あああーッ」
イズマが絶叫した。
ガツン、と下から衝撃が来た。
それから後退するアシュレたちの鼻先で轟炎が吹き上がる。
ギリギリすぎるタイミングだ。
「いそげー、そいつは地下世界最下層:ゲヘナの火だ。普通の手段じゃ消せないゾーッ」
イズマはひとり得意絶頂だった。
「薙ぎ払えッ! 亡者ども、これは来るべき時に貴様らの罪を清めるはずの業火だッ。刻、速くに巡りて、いま浄化される僥倖に涙するがよいッ!」
などと軍師を気取って、どこからとりだしたのか、羽毛の扇などかざしている。
「攻城戦に使われる大規模攻撃です。《クローリング・インフェルノ》。
いやあ、まさかとは思いましたが準備しといてよかった。地下から直呼びするんで、誘導に時間がいるのと地脈が整っていないと使えないのが難点だけど、このイズマ様にかかれば赤子の手を捻るがごとし。
命中精度もばっちりだったでしょ? キトレル単位でしか調整できないから難しいんですよ。
あとねー、じつはきちんとエリアに穴を作っとかないと、なかが酸欠になってアブねーの。
まあ、この戦術のキモは本来城塞攻撃用であるはずの異能を防御的に使用する発想の転換のコペルニク……」
垂れ流される講釈をだれもが聞いていなかった。
眼下で繰り広げられる光景が全てを代弁している。
村を取り囲んでいた亡者たちが業火に焼かれゆくさまは、地獄絵図そのものだった。
見れば、ともに戦った修道士が手を合わせ祈りを捧げている。
「ところで……持続時間はどれほどなんだ」
ケリのついた戦場に目をやったままシオンが訊いた。
得物を突き立て戦場を見下ろす。
吹き上がる灼熱の上昇気流が、シオンを常勝の姫将軍に見せていた。
「あー、手続きを踏めば二、三日延長することもできますよ。生贄捧げたり、祭壇作ったり、護摩焚いたり?」
「短くはならんのか?」
「まあ、今回は尖端をちょろっと呼んだだけなんで二刻もあれば鎮火しますけどね。なんせ攻城戦用だから、タフな技なんですよ。ボクといっしょ」
「わたしたちは、どうやって出て行くのだ?」
あ、という顔をイズマがした。シオンが長い溜息をつく。
「《転移門》は?」
「あれは次の新月まで使えません」
「《影渡り》では丸腰になってしまうし」
「そもそもゲヘナの火は影さえ焼きますから」
手詰りではないかッ。
シオンが逆上してイズマにくってかかった。
イズマはたちまち塩を打たれた青菜のように、しょげくりかえってしまう。
「すまぬ」
取り乱した自分を恥じるように、シオンがアシュレに向き直った。
深々と頭を下げられアシュレは、逆に感謝で返した。
「イズマさんのせいじゃない。この攻撃がなければたしかにボクらは危なかった。必要な攻撃だった。助けられたんだ。ありがとう」
礼を言われ、イズマは阿呆のような顔になった。それから瞬く間に、いつもの調子を取り戻す。
「でしょ、よかったでしょ、ファインプレーでしょ?」
なかなか、きみ、アシュレ、見どころあるよー。よれるのも早いが復活も早い男らしい。アシュレは幼児用のオモチャを想像した。
あと、もうひとつなにか。笑みが浮かびかけた。
「見るとこを見てるねー」
だが、あっというまに元通りになってしまったイズマの調子を前にしても、アシュレの笑みは固かった。
本音を言えば、いますぐ飛び出して行きたかった。
ユーニスのことを思うと胸が張り裂けそうになった。
だが、この選択肢を選んだのは自分なのだ。
イズマは助けに向かうべきではない、と事前にはっきり意見してくれていた。目的を達成するための取捨選択だと。
それを振り切り救助に向かうと決めたのはアシュレ自身だ。
戦いの興奮が冷めてくると、じくじくと後悔の念が心に湧いた。
安っぽい正義感とユーニスを秤にかけるような真似をしたのだと、自責の念に駆られた。
「あなた方には、なんとお礼を申してよいか。村民になりかわり、お礼を申し上げる。簡単ですが、お食事を用意させていただきます。傷の手当てもあります。お身体を労ってください」
丁寧に礼を述べ、申し出たのは修道士:ノーマンだ。
ヴィトライオンのこともある。どうせ二刻の間は動けないのだ。
否も応もない。アシュレは申し出を受けることにした。
イゴ村は、かつて墓守たちの集落だったという。
自らのその仕事を隠し、ただの農村として暮らしてきた彼らは、しかし、高い自衛能力を持っていた。
王家の谷へ進入する盗掘者との暗闘のため、ひそかに戦い方を訓練し、罠とその解法に通じた一種の密偵たちだった。
ごくわずかだが微弱な《スピンドル》能力を備えた者もいた。
実際、革命戦争のさなかも王家に忠誠を尽し王党派に密かに協力してきた過去を持っている。
王国が災厄に見舞われた時、周辺の村々の人々を助け守り抜いてきたのは彼らだったのだ。
もちろん、それが可能だったのは、亡者たちの行動がもっとも活発だったイグナーシュ領の《閉鎖回廊》堕ちの後、それがある程度沈静化し、活動期などのパターンが判明してきたという背景もある。
その秩序が破られ、突如として活発化したのは、ここ数日——アシュレたちがイグナーシュに入ってからだ。
奇妙としか言いようのない符丁、その吻合ではあった。
だが、イゴの村が、この絶望的な環境で自衛し続けてこられた理由は別にもある。
イゴには以前から湯が湧いた。王国の湯治場でもあったのだ。
水を得るのに外部を頼る必要がなく、またこの霊泉を亡者たちは渡ることができなかったのである。
手当てをする前に湯で身を清めてください、とノーマンは言った。
そんなことをしている場合ではないと心が逸ったが、手詰りであることには変わりなく、アシュレは軽く身体を流すつもりで湯治場に向かった。
パロの村から着のみ着のままですでに三日。
たしかに、かなり臭う。
このままシオンと身体を密着させていたのだと思うと、恥ずかしくなるほどだった。
村の背後を下り、丘の切れ目に湯治場はあった。
息を呑んだ。
古代の遺跡がそのまま浴場となっていた。
湯の中に消えていく階段は、かつての建築物の屋根である。
石造りの街ひとつが、水没していたのだ。
陶然となり、無意識で服を脱ぎ捨てていた。
病弱な幼少期、少女として育てられていた時代のアシュレの夢は考古学者になることだった。長子でさえなければ、その夢を実行していたことだろう。
聖遺物にかかわる職についたのは、幼い日、自分に焼きついたこの古代への憧れという夢のせいなのだ。
「なんとも風光明媚なところだな、ここは。来訪は四度目だが、はじめて知ったぞ」
アシュレの背後から声がした。振り向いてしまってから後悔した。
岸縁にシオンとイズマが立っていた。
イズマは奇妙ないでたちをしていた。
身体の線がぴったりと出る上着と膝までのタイツが合わさったようなもの。鮮やかな空色のラインが横縞に入っている。
道化師のようだ。
そして、そのかたわらにシオンがいた。
夜着と見紛うような純白の薄布がかろうじて身体を隠していた。
名工が創り上げた美術品なのではないかと思えるほどに、遠目であっても彼女の美は際立っている。
イズマなど頬ずりせんばかりの勢いだった。
だが、その気持ちがわかった。
その美しさに、思わず見蕩れたアシュレである。
それから思い出した。自身が全裸であったことを。
ざぶり、とお湯に頭まで潜った。
「あー、よいよい。異文化では入浴時のマナーがさまざまなのは心得えておる」
それに、たしかに男のコであった。平坦な声で言うシオンの発言が、アシュレをさらに慌てさせる。
「すまぬ。見てしもうた」
慌てているのか口調が古文調になり、律義に謝りながら後をついてくるシオンになんと答えればいいのかわからず、アシュレは古代の遺産を見て回るふりをした。
本当なら宝の山のただなかで湯に浸かっているはずで、それを満喫したかったのだが、状況がそれを許さない。
黒雲と炎、そしてわずかな切れ目から青空と光の柱がのぞく。光りと闇、ふたつの勢力が頭上でせめぎ合っていた。
そこには混沌の美があった。夕暮れ。
アシュレはやっとそれに気がついた。
時間感覚が失せていたのだ。
アシュレは湯に没した彫像に腰かけた。
数メテル先でシオンが歩みを止めている。
水深が彼女の身長を超えるのだろう。アシュレを恨みがましく紫の瞳が見ていた。
もしかしたら、この美しい夜魔の姫は泳ぎは不得手なのかもしれない。
だから、アシュレは手を伸ばした。
シオンは周囲を見渡し、逡巡していたが、意を決してアシュレの手にむかって飛び込んでくる。
目をつむり決死の表情で飛び込んでくるシオンが、あまりに可愛らしくてアシュレは笑ってしまった。
「そ、そなたは勇敢なのか向こう見ずなのか、紙一重だなッ」
足の届かない場所への不安か、珍しくシオンが早口に言った。
言われてから足下を見下ろし、意味を理解した。
アシュレの腰かけた彫像のすぐかたわらで、屋根が崩落していた。アシュレは端に沿って運良く足を運んできただけなのだった。
眼下で黒々とした淵が、大きく口を開けている。
うねる水流が見える。
「ごめん……いまごろ、震えてきたよ」
震えながら寄りそうふたりの視線の先を、イズマと羊がゆっくりと流れていく。
「抗おうなどと思うから沈むのです。流されるまま。思うがまま」
「べええ」
なにか宗教絵画に出てきそうな画のまま、飼い主と家畜はより深みに流れていった。
アシュレは笑った。
同じ思いだったのだろう、シオンがしがみついて笑う。
その拍子に、つっ、とアシュレは顔をしかめた。
傷口にシオンの指先が触れたのだ。
すまぬ、と謝られた。
「大丈夫。気がつかないうちにあちこちやられてたんだ。お湯に入るまでわからなかったよ。なるほど重装鎧は乱戦用の防具なんだな。軽装だと一撃離脱はできても思いもよらぬところから刃が抜けてくるんだね」
最後まで自分たちの盾になり散ったソラスのことを思い出して、アシュレは言った。
「それに……あのノーマンという修道士、よくわかっている。亡者たちの汚れた刃から伝染する病を先に霊泉で清めてしまえというわけか。くっ、つつっ、ムチャクチャ染みるけどその通りだ。反論の余地がない」
そこまで言ってアシュレはハッとなった。
「そういえば、シオン、キミ、ここのお湯ッ」
「霊泉に浸かって大丈夫か、というのか?」
問題なかろう? シオンは得意げにアシュレに向き直って見せた。
まじまじと相対すると、布地から色々と透けていてアシュレは彫像から滑り落ちそうになった。
どういう理屈? と取り繕うように急き込んでアシュレは訊く。
対してシオンは気にも留めていないのだろう、冷静沈着な受け答えで応じた。
「亡者どもと比べておるなら、ちょうどよい。少しばかりレクチャしてやろう。
奴らを縛っておるものと、わたしたち夜魔を縛る呪いは基本的に程度の差こそあれ、種類は同じものだ。
ただ、問題はその有様だ。亡者たちは厳密にいえばその土地に縛られておる。
つまり呪いの源泉は穢された国土そのもの。亡者たちを繰る糸はその土地から来るのだ。
呪われておるのは土地。だから、霊泉によってその流れを断ち切られれば成仏するほかない。
繰り糸の切れた人形と同じ。
だが、我ら夜魔は違う。
呪われておるのはその血そのもの。霊泉に浸かろうと流れは断ち切れん。だから問題なく活動できる」
あれも……同じ理屈だ。
シオンの指が示す先にイズマが半目で流れて行くのが見える。
水死体ではないのかと疑うばかりの不動の体勢だった。
悟りの境地、と言い換えてもいいかもしれない。
羊はずっと向こう明らかに足場のない深みを頭だけを出し、悠々と泳いでいた。
頭上で渦を巻く黒煙と炎と暮れ行く空のグラデーションと傾いた陽光とが混じり合い、ありえない美を生み出している。
別天地の光景がそこにはあった。
世界は鮮やかで美しすぎた。
じぶんはいま、だれかの夢のなかにいるのではないのか。
不意にそんな感傷に襲われた。
気がつけば、無意識の涙が頬を伝い落ちていた。
どうして、と言葉が口をつく。
シオンの桜色の唇が、さきほどアシュレがそうしたように頬の滴に沿ってあてがわれた。
「なんだ……これ……」
シオンの濃紫の瞳に映る自分の表情に、アシュレはショックを受けた。
触れれば壊れてしまう硝子細工のような顔を自分はしていた。
信じられなかった。
先ほどまで自分の心は折れてなどいない、とそう実感していたからだ。
「絶望は意志にではなく、無意識に働きかける。心を強く持つか否かと、絶望するかどうかは、ほんとうは、まったく因果のないことなのだ」
シオンが告げた。
ボクはだいじょうぶだよ、と強がりでもなんでもなく、アシュレはそう言おうとした。
だが、涙が止められなくなっていた。
「そなたは、一度に失いすぎたのだ。大切なものを」
悲しみを実感する暇さえないままに。シオンの唇がアシュレの目尻を優しく吸う。
「枯れるまで泣くがよい。すべて、受けとめようから」
泣いている暇などない、とわかっていた。
だが、自覚できぬ悲しみがアシュレの身体に働き掛けていた。
パレット、ミレイ、ソラス、従者たち。アシュレの脳裏を彼らの生前の姿と死にざまが過っていった。
思い出は鮮やかに美化され、いっそう残酷にアシュレを責めた。
死んだ奴はいい奴ばかりさ、とイズマだったら皮肉っただろう。
思い出に耽れるのは、生き伸びることができた「いい奴ではなかった」連中の特権さ、と。
しかし、アシュレの悲しみを受けとめるシオンは無言だった。
「ボクは……甘かった。あのとき、国境の村で、彼らを力づくでも追い返すべきだったんだ。彼らの残酷すぎる死はボクの責任、ボクの判断ミスだ」
そう、ボクの間違いだ。
向けられた好意が嬉しくて、一緒に来てくれれば心強いと感じてしまったボクの、彼らを護り切れると盲信したボクの。
アシュレはつぶやいた。自分で驚くほど虚ろな声だった。
内側ががらんどうになってしまっていて、そこに声が響くのがわかった。
それでも、とシオンは言った。アシュレの幾倍、幾十倍もの年月を戦い続けた夜の姫君の言葉には実践者の重さがある。
「ヒトの善意と選択が間違いであったかどうか、それはそなたに最期の日がくるまでわからんことだ。
それにヒトの死に対して責任が取れるものなど、この世に居はしないのだ、ほんとうはな。
だがもし、そなたにそれでもまだ責任がある、というのなら、それは……」
「ユーニスのことだね」
わかっているよ。アシュレの言葉に込められた力を感じて、シオンは唇を離した。
涙が止まっていた。まなじりに光が戻っている。
己の内なる空虚を自覚しながら、アシュレは意志の力で絶望をねじ伏せたのだ。
「いかなくちゃ、だ」
うむ、とシオンは頷いた。そなた、急に男になってきたな。
シオンは裏表なく感心した様子だったが、アシュレにはなにかが引っかかった。
どういう意味? 唇をまっすぐに横に引く笑い方で、アシュレは聞き返す。
「最初出会ったときは婦女子かと思ったものだ。
その次は童だと思った。法王庁での晩のこと憶えておるか?
小剣で切りかかってきた時のことを。
防御にこそ長のある構えなのに挑発に乗って切りかかってくるし、わたしに組み伏せられて半ベソになっておるし。
おまけに追い縋ってきたかと思えば、波にさらわれた仔羊のようにメエメエ鳴いておるし」
そなたの涙、偽りのない味がしたぞ。
耳元で艶めかしく囁かれ、アシュレは火の出るくらい赤面した。
シオンに見られた涙の数を自覚した。夜魔の眷族達は例外なく夜目が利く。
真祖の娘であるシオンなど言わずもがなだ。
アシュレは己の未熟さ加減に逆上した。
気がつくとシオンを抱き上げ、湯の中に放り出していた。
声にならない悲鳴とともに少女のように可憐な体が湯に飲み込まれ、派手に水柱が上がる。
八つ当たりだとわかっていたが、どうしようもなかった。
窮鼠、猫を噛むとはこういうことだ。
しかし、それでは自分はネズミか、とアシュレ気がつく。
複雑な心境だ。
だいたい、シオンは心理も肉体も障壁を越えるのがうますぎるのだ。
気がつくと間合いの内側に入られていて、アシュレは慌てさせられる。
すこし、互いの距離について冷静に考え直すべきだと思った。
自分たちは本来、敵対する勢力に属しているのだから。
そのためには湯で頭を冷やしてもらう必要があった。
このように矛盾した言い訳を「冷静に考えていることこそがおかしい」と自覚できていない段階で、すでにかなりおかしいのだが、このときのアシュレは完全にパニックに陥っていたのだ。
だが、だんだんと興奮が収まってくるにつれ、こんどは恐慌に襲われた。
シオンが、なかなか浮かんでこなかったのである。
打ち所でも悪かったのか、あるいは水中に隠れて見えなかった建築物でケガをしたのか、そうでなければ――泳げないか。
先ほど、アシュレの無謀な位置取りに際してシオンが見せた恐れの表情を思い出し、蒼白になった。
あれは、眼下の深みに対する恐れだとばかり思っていたが……。
まさか、本当に、そうだとしたら。
反射的に身体が動いていた。
ざぶり、とシオンの落下したあたりへ足から飛び込む。
傷の痛みなど吹き飛んでいた。
顔を湯に浸けると、水深三メテルあたりを漂うシオンの身体が見えた。
淵に落ちたのだ。
気を失っているようで、ゆっくりと沈降していく。
アシュレは漁師たちがやるように適度な大きさの岩を手で持ち一度水面で飛び上がると、勢いをつけて潜った。
潜り方が適切だったのだろう。アシュレはまたたく間にシオンに肉薄する。
だが、そこで予想外の事態が起こった。
ふわり、と白いものがシオンの胸部から剥離した。
あの薄絹である。
がぼり、と大量の空気がアシュレの口から放出された。
水中で視界が利かなかったことに、アシュレは感謝した。
桜色のなにか、としかわからなかった。
ディティールまで見えてしまっていたら血が出ていたかもしれない。
岩を手放し、慌てて薄絹を掴んだ。
それからシオンを抱いた。時間がなかった。これでは自分のほうが水死体になってしまう。
シオンの身体を抱きかかえ水面まであと半メテルの距離に迫った、その時だった。
またもや想定外の事件が起こった。
なにかがアシュレの首を絞めたのだ。
その正体こそは、ほかにだれがあろう、シオンである。
にたり、と水中でもわかるくらい大きく笑っていた。
立派な犬歯が見える。子供みたいな表情。
ハメられたのだ、といくらなんでもわかった。
「女の色香に惑わされおって! 未熟者めが!」
いつの時代のサーガにでてくるのだろうか、あまりに古典的な師匠の口調でシオンがアシュレの肩に乗っかった。
しなやかな脚がアシュレの首を絞める。
手からあの薄絹が引ったくられた。
両頬にすべやかでしなやかな太股が押し当てられている!
顔を上げられない!
頭上からシオンの快活な笑い声がした。
自身の計略がうまく運んだ時の女王の声だとアシュレは思った。
「死ぬところだった」
「死ぬところだった」
アシュレは大事なことなので二度言った。
「そなたは、そう簡単には死なん」
呆然としてつぶやくアシュレに、シオンが返した。
アシュレのことを気づかってくれてのことだったのだと思う。
たしかに肉体が極限状態に陥れば絶望している暇などないだろう。
だが、それにしたって荒療治が過ぎた。
「だ、だいたい、自分の命と裸を釣り餌にするなんて、やりかたがあくどすぎる。あぶないよ。命も、その他の方向も」
問題ない、とシオンは請け負った。
「釣る魚は厳選しておる」
「……なんだか、ハメられてばかりだ。ボクの人生は」
「なんだ、ハメたかったのか? それなら早く言うがよい」
どうも話がおかしな方角に転がりそうで、アシュレは溜息をついた。
このままでは、のぼせてしまう。
なにより、ユーニスのことが胸に去来して落ち着いていられなくなった。
シオンとじゃれあっている自分が、結果としてひどい裏切りを働いているような気持ちになったのだ。
「ごめん、もう、出るね」
そのアシュレの手をシオンが取った。
「逸るそなたの気持ちはわかる。想い人のことが心配なのだな」
図星だった。アシュレは素直に頷く。
それなのに、なぜか、シオンは握る手に力を込めた。
アシュレにはシオンの意図がにわかにはわからなかった。
そのことを察したのだろう。シオンが言った。
「はしゃぎすぎたことは謝る。そなたの心中を汲み取らず、優しさにつけこむような真似をしたことも謝罪する。このとおりだ。だが、すこし待つがよい。ヒトは失敗から学ぶのだ」
「シオンは失敗しなさそうだものね」
ちいさな皮肉と愛称が自然に口をついた。
あっ、と思った時には遅かった。
恐いくらい無表情のシオンがそこにいた。
しまった、とアシュレは思った。
いくらなんでも愛称で呼び合う仲ではない。
ユーニスの件で留保しているが、アシュレは〈ハンズ・オブ・グローリー〉を諦めたわけではない。いずれ、敵対する可能性も皆無ではない。
いや、シオンが〈ローズ・アブソリュート〉という剣に見せる情念をかんがみれば、そして、アシュレ自身が法王庁の聖騎士であることに執着するなら、必ず刃を交えることになるはずのふたりだった。
近づきすぎることは、互いのためにならない。
アシュレはシオンの表情に、冷水を浴びせられたかのような衝撃を受けた。
残酷すぎる運命の女神に、じっと眼を凝らされているように感じた。
だが、それは杞憂だった。
シオンという、もうひとりの女神は、運命の思惑のずっと先、はるか外側にいた。
花が綻ぶようにシオンが微笑んだ。
ほんとうに、心の底からうれしそうに。
「アシュレ、とわたしも呼んでいいのか?」
アシュレのちいさな皮肉など意にも介さず、はにかんだ様子でおうかがいをたててくるシオンに、アシュレはどう答えていいのかわからなくなった。
「友だと思ってもよいか?」
アシュレは、なにを言われたのかわからず、ふたたび呆然とした。
シオンはこう言ったのだ。
ふたりは対等の存在になれるか、と。
人間の聖騎士と夜魔の大公息女との関係を対等にしてくれるか、と。
「いいの……かい?」
思わず手を差し出しながら、アシュレは我ながら間抜けな受け答えだと恥じ入った。
だが、シオンは頬を上気させて握手を返してくる。
友人と呼べる距離になれたことがシオンはことのほかうれしかったらしい。
上機嫌だった。
かなわないな、とアシュレは思った。
だから、シオンの表情が真剣なものになったとき、アシュレはこれからの話がほんとうに重要なことであるのだとわかった。
「いまからわたしが話すのは、友以外には打ち明けられぬことだ」
だからいま、このとき、アシュレと友になれてよかった。シオンはあらためて言った。
「だが、この話が終わった後、アシュレはわたしを恨むかもしれない。憎むかもしれない。そう思うとこわくて、震えがとまらない」
言いながら、たしかにシオンは怯えていた。
「でも、だからこそ、聞いてくれ。勇気を振り絞って話す。大切なことだ」
これは、わたしの失敗の話だ。