■第三十夜:騎士の仕事
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大量の水が洞内から噴き出してきたのは、ちょうどアシュレが突入を決めた瞬間だった。
カテル病院騎士団の本営となっている地下聖堂への侵入口は非常口的な場所が、いくつかあり、そこから水が噴き出してきたのである。
大量の資材、そして人々が――負傷し、あるいは死体となって。
狭い洞内で一気に押し寄せた大量の水が逃げ場を失い、勢いを得て人々をハンマーのように打ち倒したのだ。
見れば、通路といわず地下聖堂に通ずるあらゆる穴から濁流が噴き出していた。
入り口付近に詰めていた兵たちが吹き飛ばされるのを見た。
アシュレも不意の来襲――この場合は法王庁使節の来襲も含まれる――を警戒し、開口部から離れた場所にいなければ危なかった。
ほとんどありえないことだが、ヴィトライオンが、アシュレの手綱捌きに抗ったのである。
それで、なにかある、と気がついた。
小規模な津波よる攻撃を受けたかのようだ――アシュレは思い背筋が寒くなった。
シオンが先行して、まだそれほど時間は経っていない。
交戦があったのか?
ノーマンは、ダシュカマリエは、イリスは――無事か?
アシュレがそんな考えを巡らせるうちに濁流は徐々に勢いを失い、水位が目に見えて下がってきた。
狂ったように吹き出していたものが、腰の高さ、膝の高さ、そしてくるぶしの高さにまでなる。
継続的な攻撃ではなく、また洞内で荒れ狂った水量は限定的なものであると判断できた。
異能によってごく短時間のあいだだけこじ開けられた召喚門から、この水は呼び出されたのだとアシュレには検討がついた。
しかし、だとすればこの奥に現われたのはいかなる脅威なのか。
土蜘蛛たちがそのような技に通じているとは、アシュレは聞いたことがない。
そういえば、吹き出してくる濁流が立てる轟音には、怪物じみた咆哮が混じっていた気すらする。
しかし、いまさらその程度のことに逡巡するようなアシュレではなかった。
愛するものたちが、この奥でいまも戦っている。
それだけは確かだったからだ。
駆けつけなければならない。
そう思ったときにはすでに肉体が動いていた。
ヴィトライオンも、今度は促されるまでもなく洞内へと突入した。
水を掻き分け、いまだ戦い続けているであろう仲間たちの元へ。
※
「やって……くれたな」
噛みしめられ、きり、とシオンの犬歯が鳴った。
短距離テレポートである《影渡り》の効果により、シオンは濁流に巻き込まれることから逃れることができた。
聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉を帯びず強襲するという判断が、結果としてシオンを救うカタチとなった。
だが、その他の被害は凄まじかった。
逃げ場のない洞内で間欠泉のように水が湧いたのだ。
凄まじい水量が瞬間的に召喚されたのである。
瞬間的には、小さな堰が崩壊したくらいのパワーがあった。
たかだか、一立法メテルの水塊であっても軍馬の倍以上の重さがあるのだ。
それが恐るべき勢いで激突してくる。
馬の蹄を受けただけで死に至る人間が、軍馬の全体重に倍する質量の直撃を受けて無事でいられるなど、あるはずがない。
吹き出した水塊に硬い岩盤に叩きつけられる者。
足をすくわれ濁流に呑まれるもの。
押し寄せた家具に押しつぶされた者。
シオンはその様子を逃れた聖堂の上部構造――パイプオルガン奏者と聖歌隊のためのスペース――にいて見下ろしていた。
すこしでも多くの人命を助けようと孤軍奮闘したが、ほとんど間に合わなかった。
少年や少女従者、年若い尼僧をシオンに託すと濁流に消えていった僧たちが何人もいた。
水の召喚は瞬間的なものだったのだろう。
水位は見る間に下がっていったが、敵の了見は知れた。
こうして稼いだ時間を使って儀式が進行している最深部への突入穴を開こうというのだ。
結界の解呪か、あるいはもっと直接的な方法……岩盤を掘削する――あるいはそれ以上の方法が……あるというのか。
「おのれ」
シオンは歯がみする。
イズマがいれば、なんらかの対処ができたであろう。
そもそもこのような事態の到来をみすみす許してなどいなかったかもしれない。
悔やんで取り戻せるようなことではない、とわかっていた。
だが、もうすこしやりようはなかったのか。
はらわたの煮えくり返るような思いにシオンは耐えていた。
水位が落ち着くにつれ、聖堂に流れついた人々の遺体を引き上げることが可能なほどになってくると、そのなかに生存者が混じっていることがわかった。
大人たちに命を助けられた子供たち、若者たちがこんどはその救出に向かった。
そこで悲鳴が上がった。
流れ着いた漂着物に異物が混ざっていた。
奇怪な色の殻を背負った怪物――ヤドカリにも頭足類にも似た、そうでありながら、そのどれでもない水底の悪虫――がそこにはいたのだ。
一匹や二匹ではない。
ジグル・ザグル――腐肉喰らいの寄生虫――それをシオンはあの〈ヘリオメドゥーサ〉の背に見ていた。
つまり、この寄生虫たちは普段は宿主である〈ヘリオメドゥーサ〉の背や腹にしがみついており、宿主が怒りに任せて放つこのような災害に乗じて拡散し、そこで生じた被害者の死体を労せずして漁るという生態を持つのだろう。
反吐が出そうな習性だった。
それが、遺体や瀕死者だけでなく、子供や若い女にまで襲いかかるを見たとき、シオンの怒りは頂点に達した。
「さがりおれ、この下郎ども!!」
シオンが抜刀しながら寄生虫と女子供のあいだに割って入った。
小剣、というにも小ぶりな刃はシオンの護り刀であった。
緩い反り身のこの小剣は《フォーカス》であり、家を捨てるとき、シオンが持ち出したガイゼルロンの宝剣の片割れであった。
その名を〈シュテルネンリヒト〉=“星明かり”ほどの意味であろう。
対の長剣:〈ドゥンケルハイト〉の意味するところは“闇”である――こちらは父:スカルベリの佩刀だ。
柄まで純白のそれを引き抜き背中に女子供をかばいながら、シオンは防戦に努める。
小刀:〈シュテルネンリヒト〉も《フォーカス》であるからには相応の《ちから》を秘めてはいた。
しかし、その能力はいささか特殊であり、またこのような人外の怪物相手に通用するものなのか、まったく知れなかった。
聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉を得てからはほとんど抜くことさえなかった武器である。
このように他者をかばいながらの戦いに用いるには、いかにも頼りなく思えた。
伸ばしてくる触手を切り飛ばせば怯むものの、怖気の走るような貪欲さでそれは追いすがってきた。
負傷者を見捨てられないシオンたちを、騒ぎを聞いたものか、血の匂いを嗅ぎつけたのかいつのまにか数十匹の寄生虫:ジグル・ザグルに取り囲んでいた。
やっかいなのは切りつけられた途端、どこかの器官から吹きつけてくる液体だった。
シオンにとってそれを躱すことはどうということもない。
だが、シオンが庇う者たちにとってはそうではない。
その身を盾として幾度となく浴びた。
酸か、アルカリか、いずれにせよ対象をゆっくりとだが確実に蝕む性質を、その液体は持っていた。
人類が浴びれば、即座に、ではなくとも危険、目に入れば失明の危険があった。
むろん、その程度の溶解液など、夜魔であるシオンにとってなにほどのこともない。
肌を溶かすそれよりも再生速度が勝っていた。
ただ、衣服はそうはいかない。
先の戦いでスカートを失ったそれが溶かされ、シオンは半裸になりながらも尼僧と子供たちを護ろうとした。
「姫さま! 負けないで!」
自ら盾となり自分たちをかばってくれるシオンに、子供たちが声をかける。
仇敵であるか、種族間の壁などそこにはなかった。
「案ずるな、そなたらには指一本触れさせん!」
そして、シオンの宣言に呼応するように騎兵が到着した。
ヴィトライオンに跨がり〈シヴニール〉と〈ブランヴェル〉を携えたアシュレである。
突撃でジグル・ザグルの群れを蹴散らすと《オーラ・ブロウ》で貫き、差し上げては〈ブランヴェル〉の力場:《ブレイズ・ウィール》で完膚無きまでに破砕してゆく。エネルギーの力場が、体液を蒸散させる。
突然の援軍の到着はジグル・ザグルたちの食欲に大半を支配された脳にも届くものがあったのだろう。
浮き足立つそれらを、攻勢に転じたシオンが仕留めてゆく。
「逃すな、アシュレ! 生存者たちが危険だ! 殲滅せよ!」
「もとより!」
アシュレが槍を掲げて応じ、次々とジグル・ザクルを屠る。
水面が奴らの青い体液で染まるころ、槍や剣で武装したカテル病院騎士たちの増援が到着した。
数人がかりでジグル・ザグルを仕留める彼らを率いる司令官格だろう騎士を呼び止め、アシュレは指示を出した。
命令系統を考えれば越権行為だが、戦場では不測の事態が起こるものだ。
「負傷者の救出、生存者の脱出を最優先にしつつ、一刻も早く、この場所から撤退するんだ。あの津波がいつ、もう一度来ないとは限らない」
「要救助者を見捨てるわけにはいかん! ここは我々の家だ。ダシュカマリエ大司教猊下をお救いせねば!」
その騎士は使命感に燃えて言った。
だが、要救助者を助け出すことと、ダシュカマリエを救出することのあいだに立ち塞がる問題と大きな違いについては、考えおよばぬようだった。
「もちろんだ。だが、ダシュカマリエ大司教の身柄はわたしにまかせろ! 元凶である、あのバケモノは貴君らの手には負えん! 役割分担だ!」
シオンがそこに割って入った。
巨大な水生の怪物:〈ヘリオメドゥーサ〉について触れると騎士の顔色が変わった。
海戦経験豊富なカテル病院騎士団だ。
蛇の眷族、その亜種なりと刃を交える機会もあっただろう。
具体的な危険――巨大な敵の存在を指摘され、頭が冷えたのだ。
「ここから先は我々の領分だ。任せてもらおう。ダシュカマリエ大司教猊下は必ずお救いする。これは騎士としての宣誓だ」
アシュレが言い切った。
戦時であるから、回りくどい言い回しは廃される。
そして、アシュレの言葉には自らが最前線に飛び込んでいくと明言し、それを実行しつづけてきた者だけが持つ説得力があった。
年若いアシュレの言葉に、倍近くも年上だろう騎士が首肯を見せてくれた。
議論している暇などない。
誇りや騎士としての義務などという建前に拘泥しているあいだに、なによりも惜しい時間が、まるで開いた傷口から流れ出る血潮のように流れ出ていくことを、このとき全員が熟知していたのである。
「捜索と撤退の時間を決めよう。どれくらいかかる?」
「一刻――最低でもそれは欲しい」
「では一刻としよう。必ず、撤退すること。たとえ……犠牲者を見殺しにすることになっても。そして、我々の帰還を待つこと。予備戦力を投下してはいけない……本来なら、上官であるはずの上級騎士か、団長、ノーマンの承認が必要だが、ここは戦地だ。許されよ。」
ふたたび、騎士が無言でうなずいた。
そこがタイムリミットだと、互いが了解したのだ。
指示が飛び交いはじめた。
馬上から、アシュレはシオンに手を伸ばした。
乗って、という意味だ。
時間が逼迫していた。
まて、とシオンはアシュレを留めた。
その場で思いきりよく裸身になり、頭から霊薬をかぶった。
アシュレは慌てて乗馬を飛び降りた。
羽織っていた外套で覆いを作る。
「毒液を浴びた。上着には染みておって捨てるしかない」
中和するまで少し待て。
言いながらシオンは霊薬を擦り込む。
あのバラが強く薫った。
それからアシュレの手を取る。
「どうした、そんな顔をして?」
戦場にあるとき女であることを捨て去れるシオンのことを、武人としては好ましいと思いながらも、衆人環視のただなかでいきなり脱がれれば、それは愛を捧げ、また捧げられた男として、やきもきするのは当然だ。
だいいち、いまその背後には少年少女、若い尼僧の目がある。
どんな風に話題が美化され、流布されるのか、押して知るべしだ。
正確に言えば、アシュレは怒っていたのである。
自分以外の誰かに、シオンが肌をさらすことに対して、だ。
露骨ではなかったが視線を感じた。
いや、きゃー、とかわー、とか黄色い声をアシュレは意志の力で黙殺したのだ。
《スピンドル》よ、《ちから》を貸してくれ――アシュレは強く祈った。
当然だ。
ボクだって、いまだって、ドキドキするんだ。
だから見るんじゃない!
そう叫びたかった。
だが、シオンはそんなアシュレの胸中など慮ろうともしないで言うのだ。
「アシュレ、〈ハンズ・オブ・グローリー〉を」
「シオンっ、服っ」
「そのような暇はない。それより早くせんか」
アシュレは慌てて自らの外套をまとわせた。
ふふ、とシオンは笑う。
こうさせたくて、ワザとやったのだ。
カテル病院騎士団の紋章が金糸で刺繍された漆黒の外套をまとうシオンは、確かに勝利の女神に見えた。
「〈ハンズ・オブ・グローリー〉の装着を手伝え」
「肌を傷つけるって、前も言ったよね」
「そなた、わたしが授けたものがあるだろう? いまだけ、持ち主に返すがよい」
ぎくり、とアシュレはなった。なぜそれを、という顔だ。
シオンの長手袋一対がそれだった。
シオンが寝室に忘れていったもので、返さなければならないとは思ううちに、手放せなくなって、いつのまにかアシュレのお守りのようになってしまったものだ。
くどいようだが、この時代、ハンカチーフは下着と同義と見なされていた。
長手袋がどういう扱いかは、諸氏の判断におまかせする。
むかしは、そのお守りの役目はユーニスの晴れ着だった。
だが、それはあのイグナーシュの夜に失われてしまった。
そのかわりに腕に結ぶなどという恥知らずなこともできず、アシュレはシオンのそれを隠しに忍ばせていたのだ。
見抜かれていた。
「どうであったか、わたしの肌着を所有する気持ちは」
「なんで……いま、この状況で……なの?」
「時間がないのではないのか?」
「……どうしても、返せませんでした」
ふうむ、とシオンが笑った。
それを装着しながら。
「素直でよろしい」
そしてアシュレをかしずかせ〈ハンズ・オブ・グローリー〉を纏う。
装着を終えたシオンが具合を確かめるように掌を閉じたり開いたりするのと、おおおおおん、という唸りが聖堂に響くのは、ほとんど同時だった。
アシュレがヴィトライオンに飛び乗り、シオンが続いた。
水しぶきを上げながら、ヴィトライオンは疾駆する。
決戦の場所へと。




