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■第二十七夜:胡蝶幻灯華

         ※


「……さて、そろそろ姿を見せてはどうだ?」


 大ぶりな羽毛のクッションを寄せ集めて作られたベッドにもたれかかり、ヴァイツは遺跡の陰に向かって呼びかけた。

 大理石に内包された化石群が燐光を放ち、その光に地衣類が茂りつつあった。

 

 カテル島に満ちつつある強大な《スピンドル》エネルギーの高まりに、呼応しているのかもしれない。


 ヴァイツの呼びかけに対する応えはなかった。

 

 かわりに、その暗がりから紙片が転び出た。

 折り紙によって厚みを得るようにして土蜘蛛の女がひとり現れる。


 エルマメイム・ベッサリオン。

 エルマは同じく土蜘蛛の凶手:エレの妹巫女であった。

 姉のエルマとは対照的な巫女装束――神職のいでたち。

 その女が言った。

 どこか狂おしく鳴くヴィオラを思わせる声で。


挿絵(By みてみん)


「随分と艶めかしい愛の契りでしたこと。敗残の男爵さま?」

「覗かれて恥じ入るようなぶざまな姿を見せたつもりはないが……流石は虫の巫女だ。他人の情事を盗み見とは、趣味がよい」

 かたわらでは裸身のアーネストがいまだ息も絶え絶えにしている。

 

 夜魔の交合は、屈服を受け入れた相手に、その尊厳の代償として気が遠くなるほど長い――ほとんど拷問じみた官能の快楽を与える。

 そうして相手は、自分が心まで屈したことを思い知らされるのだ。

「正直、昂ぶりました」

 エルマのあまりに直截な物言いに、流石のヴァイツも思わず破顔した。

 

「これは……虫の分際で、貴様には、どうやら冗談を介するセンスがあるようだ」

「このエルマを虫扱いとは……素敵なコウモリさんですこと」

 でも、そう冷たくされるものではありませんことよ? 

 平衡を欠いた笑顔でエルマは笑った。

 

「どうやって、ここを突き止めた? 我らの隠身、そう簡単には見破れまい」

「我ら土蜘蛛の一族に、隠し事など通じません。占術においても追跡術においても追随を許さぬ技術、能力を我らは誇るゆえ」

 ぱん、と扇を広げ口元を隠しエルマは笑った。

「用件を言え。我は、一夜をかけてこの女を愛し抜くと誓ったゆえ。まさか、我らの情事を覗きに来たのではあるまい?」

 アーネストの胸乳を鷲掴みにしてヴァイツは応じた。

 アーネストはたちまち極めて鳴く。

 

「それとも、我に玩ばれに来たのか? ひざまずいて懇願するなら、虫といえども情けをかけてやらんこともない」

 それが我ら夜魔――貴族の努めゆえ。

 傲然とヴァイツは胸板を誇示して言った。

 

「お戯れを」

 するり、とその穂先を躱し、エルマは取引を持ちかけた。

 すなわち、敵勢力の詳しい情報とカテル病院騎士団の内側にすでに撃ち込まれた彼女らの毒針――による手引き。

 そこが作り出す混乱に乗じるための算段である。

 

 ありていに言えばこれは共闘の申し出であった。

 

「なぜ、貴様ら土蜘蛛が我ら夜魔にそのような申し出を持ちかける?」

「目的が同じであれば、鼻持ちならない相手であっても手は結べる。あとで念入りに手を洗う必要があるが――ちがいます?」

 ふふふ、とエルマが笑んで見せた。

 肌もうかがわせない巫女服であり、またエルマ自身も清楚な顔立ちであるのに、その笑みには隠しようもない媚態があった。

 まるで、内側で燃える淫火が透けて見えるように。

 物狂いか、とヴァイツが疑ったのもむりからぬことだ。


「目的、とは?」

「おとぼけは困ります。“反逆のいばら姫”シオンザフィルめの首、でございます」

 ぺろり、ピンク色の舌が――舌苔のかけらも見当たらないそれが――少女のようなエルマの顔立ちのなかで痛々しいほど赤く染められた唇の上を這った。

 ほう、とヴァイツが唸った。

 

「我ら月下騎士団がシオンザフィルに固執するのは、他ならぬ我が祖国:ガイゼルロン、ひいては夜魔全体に対する大逆者であるがゆえ。だが、そこもとらは、どうだ? なにゆえか? 道理が通らぬ」

 ヴァイツの指摘に、しかしエルマは、ますます笑みを広げるのだ。狂おしい笑みが耳まで裂けたようにヴァイツには思えた。


「憎き恋敵、と申しましたならば――わかっていただけましょうや?」

 まるで初めて知り初めた恋を語るかのように頬を染めてエルマは言った。

 できることならば、地に打ち倒し、丸裸にひん剥いて、口といわず腹といわず大便と尿とで穢し抜き、恥辱と屈辱に泣かせたあげくに臓物引きずり出して、泣き叫ぶ声を肴に一献傾けたいところ――すらすらすら、と節までつけてそらんじて見せるエルマはやはり神前にて神楽を奉じる巫女なのだ。

 

 ただし、それはこの女の正気を保証するものではない、とヴァイツは思う。

 

「なるほど」と得心の言葉が口をついた。

 捕らえたあとの処遇については異論があるが、と苦笑した。

 

「そのために、すでに仕込みは万全と、申すわけだ。獅子の腹中に毒は盛ったと、そういうわけだ。そうだな女?」

「然り。然りにございます男爵閣下。わたくしめはエルマメイム。以後、エルマとお呼びください」

「では、エルマ。ひとつ聞きたい。それほどの仕込み、随分と骨が折れたであろう。それなのに、なぜ貴様らだけでケリをつけん? 妙な話ではないか?」

 よくぞ聞いてくださいました、とエルマは小首を傾げて見せた。

 

「憎きシオンめを捕らえましても、わたくしたち、一年や二年で殺す気は毛頭ありませんの。身体を苛むだけでは到底この想いが収まることなどありませんの。ですから、心を壊したいと思っておりまして。

 つきましては、杭を打ち込み括って縛ってぶら下げたシオンめが生きている間中、悪夢にうなされるように“かの者が関わったすべて、心寄せたすべて”を破滅させたいと存じますの」

 それって、男爵閣下の《ねがい》と近しいと思いませんこと? 

 艶然と微笑みながらエルマは続けた。

 静まり返った大理石の地下遺跡に、エルマのささやきとアーネストがあげる困窮の息使いだけが響く。

 

「それに、口惜しいことですけれどあの女の戦闘能力は侮りがたいものがあります。いっしょにくっついてる愛人――人間の小僧っ子の能力も侮れません。大敗を喫された男爵閣下におかれましては、その脅威を身を持って体験なされたことと思います」

 武人の傷心を面前と指摘して眉根ひとつ動かさないエルマと名乗る巫女は、命知らずなのか。

 たしかに精神を失調しているのだ、とヴァイツは思い、しかし、その分析には一軍を預かる将として、理を認めざるをえなかった。

 

「それで?」

 話を続けろ、とヴァイツは促した。

「それで、提案なのですけれど、男爵閣下におかれましては、わたしどもが巻き起こす騒乱に乗じていただけませんこと? わたくしどもが騒乱を巻き起こす、そこに閣下もご自身の戦いを投じる。さすれば渦は風を得て、大禍となりましょう? 我らが共通の敵にとっての」

 エルマは巧妙にヴァイツを持ち上げる。

 ヴァイツも当然、それを知っている。

 化かしあいだった。

 

「それで、肝心の獲物の処遇は?」

「それは先んじて手をつけた側が優先権を持ちます。もちろん悔しいのですけれど、わたくしどもも、約束は守りますわ。ただし、力およばず破れた場合や一時的にせよ撤退を試みられた場合、もしくは圧倒的形勢不利に追い込まれた場合、これに加勢してもよく、その場合は加勢した側が権利を譲渡される、というのが契約の内容ですの」

 ふふ、とヴァイツは笑った。

 なるほど、なかなかの取引ではないか、と。

 土蜘蛛らしい駆け引きだ。

 一見、平等に見えてもこのやり口では、我は捨て駒に使われかねん。

 ヴァイツはエルマたち土蜘蛛の思惑を看過してみせた。

 

「そうであろう?」

「はい。じつは」

 嬉しくてたまらない、という感じでエルマが笑った。

 そういうときにだけ、おそらく彼女本来の笑みが現れる。

 その精神のいびつさに、しかしヴァイツは風変わりな芸術品に蠱惑されるような心持ちを見出すのだ。

 だから、なんの保証もないエルマの申し出に答えていた。

 

「なるほど、面白い」

 すなわち、応と。

 そのあまりの決断の早さに、エルマでさえ息を呑んだ。

「閣下は、もしかして、お馬鹿でいらっしゃるの?」

「かもしらんな」

 ぽっ、とエルマの頬がそれまでの艶然たる色合いから、高揚したかえでのそれに変わった。

 惚れたのだ。

 

 ただ、それにはどれほどの意味もない。

 身に刻まれ続けた辛苦に耐えるに関係する男のすべてを恋人と認識することでしか心の平静を守れなかった娘だ。

 そのなかでイズマだけが特別だったというだけのことだ。

 

「その決断力、判断力、敬服いたします」

「世辞はいい。詳しく話すがいい」

 そうして、エルマの語る企てのあらましを聞いたヴァイツは、委細承知した、とだけ答えるとアーネストを愛する作業に戻った。

 

 去り際にエルマは振り返り、ひとこと、聞いたものだ。

 

「閣下の即断、お見事でした。お邪魔ついでにもうひとつだけお聞きしたいのですが、その即断の裏づけです。さぞや強力な切り札をお持ちなのでしょうね?」

「ゲームが始まる前に手札を教えるものなどおるまいよ。せいぜい己らの謀の推移を楽しむがいい、土蜘蛛の巫女よ。

 ただし、決着の刻いたり、もし我を謀っていたことがわかったなら、生まれ出たことを、それこそ後悔させてやるからそう思え。

 貴様ら土蜘蛛も長命であろうが、我らには決しておよばんことを思い知らせてやる。

 真の永劫、永遠の夜を思い知らせてやるぞ」

 

 すでにエルマになど興味を失ったのだろうヴァイツは、アーネストを楽器のように鳴かせる。

 哀調を帯びたその調べは、聴衆の胸を締め上げずにはいない妙技だ。

 ぶるり、と立ち去るエルマはひとり身をふるわせた。

 恐怖に、ではない。

 

 耐えがたい官能に、だ。それも滅びの予感を含んだ。


         ※


 不気味なほど静かな夜が来た。

 

 シオンとアシュレふたりの決死の捜索にもかかわらず、ヴァイツたちの足取りは掴めなかった。

 だが、濃密な気配を依然としてシオンは感じ取っていたし、物理的な証明として、雪雲は去らなかった。

 

 法王庁特使側がカテル島側からの退避勧告を受諾したのは、その日の夕暮れ、もはや出港など不可能な時間帯になってからだ。

 いや、熟練の船乗りたちは天候さえまともなら夜間の出港など平然とこなす。

 雪の降りこそ本格化していたが、ことではなかったのだ。

 

 ただ、懸念を表し続けていたのが他ならぬ、施設のトップ――つまり枢機卿:ラーン自身だっただけのことだ。

 

 雪の降りしきる夜の海に喫水線の低い高速ガレー船では恐すぎる、とかなんとかかんとか。

 あれこれと理由をつけて、ラーンは善意には溢れる、しかし無能な指揮官を演じ切って見せた。

 政治にとってもっとも重要な技術――時間稼ぎに成功したのだ。

 

 荷の積み込みだけは夜を徹して行われることとなった。

 

 つまり今夜――儀式開始から六日目の夜を、カテル島は法王庁使節を抱えたまま迎えることになる。

 危険な状態だった。

 

 定期的な地鳴りが続いた。

 カテル島は火山島ではないものの、温泉が湧出ることからもわかるように地表近くにマントルが迫る火山帯である。

 島民のなかには巨大な津波の前触れだと言う者もいた。

 島が鳴動するとき、山頂から燐光が発せられるのを見た、と証言する者さえいた。

 

 そして、恐れていた事態が起きた。

 

 カテル病院騎士団の多くが体調不良を訴えはじめたのである。

 消化不良。

 めまい。

 空咳。

 発熱。

 悪寒。

 症状は風邪に似てどれも致命的なものではなかったが、すでに五百名がその症状を抱えていた。

 

 だが、依然として志気は高く、全員が薬湯を飲みながら対処した。

 間違っていた。

 

 突然の大量流行に不審を感じた団員が、毒素であることを見抜いたときにはすでに事態は手遅れになっていた。

 飲料水と食物に別々に含有されたそれぞれ別々には無害な物質が、内臓で結合し毒素を生み出した。

 じわじわと人体を蝕み徐々に内臓の機能低下を招くこの毒素は、その後の発症が風邪とそっくりな特徴を持っている。

 一口味見をしたところで、とうてい発見できるような毒ではなかったのだ。


 その毒素が儀式開始から丸二日目の晩、つまりイズマがエレとエルマの姉妹によって傀儡にされた日の食事から、ずっと混入され続けていたのである。

 パンの製造工程、飲料水の運搬過程で巧妙に混ぜ込まれていた。

 そのすべてというわけではなかっただろうが、組織を機能不全に陥らせるには充分だった。

 

 最悪なことに、それは施設の最深部、進行中であるイリス変成の儀式に関わる人員のなかにも現れていた。

 たちまち混乱が現場を襲う。

 

 カテル病院騎士団はむろん烏合の衆ではなかったから、統制は取れていた。

 

 しかし、それでもさまざまな問題が浮上した。

 一〇〇〇人におよぶスタッフが七日七晩不眠不休で従事するとはそういうことだ。

 糧食、そして排泄物の処理、ヒトは寄り集まるだけで巨大な問題を生み出していく。

 ノーマンがイズマを警戒し始めたときには、すでに仕込みは終わっていたのだ。

 

 だが、少なくとも《スピンドル》能力者たちだけは無事だった。

 死魔さながらの猛毒ならばともかくも――《スピンドル》能力の行使とは、なかば《意志》の《ちから》で肉体を制御することでもある。

 儀式に参加している間、ダシュカマリエは一切の水分・栄養素を〈コンストラクス〉より補給されるし、イリスの肉体も同様であったから、これは問題がなかった。

 だが、問題は治療、施療のために、人員を隠し通路から搬送しなければならないことだった。

 最低でもひとり、そのからくりを知る《スピンドル》能力者が同伴しなければならない。

 

 ノーマンが頭を痛めたのはそこだった。

 それは敵に死守すべき中枢への道順を指し示すようなものだ。

 そして、それこそ、土蜘蛛の凶手たちが描いた筋書き通りだったのだ。

 

「この状況は――まるで拝病騎士団を相手にしていたときのようだな」

「拝病騎士団? なにそれ?」

「人類でありながら、病魔王:プレイグルフト・ダレリ・ダーナを頂点とする――汚らわしくも忌まわしき病魔どもを“人類の次なるきざはし、その鍵”と見なし信奉する狂信者の集団だよ」

 昨夜、休息を終えた後、ノーマンはイズマを常に身辺に置いた。

 イズマが捕らえたと証言し、いまでは影のように従順に付き従う女凶手:エレも同様だ。

 軍議との名目で、である。

 実際にもそうした。

 今後の、重要な方針決定にさえ同席させた。

 そうすることで、ノーマンは実質的にこのふたりを監視下に置いたのだ。

 

 儀式終了まで実質あと丸二日のところまで来ていた。

 なんとしても持ちこたえなければならなかった。

 もちろん、相手は必ず動いてくるはずだ。

 夜魔も、土蜘蛛も、もしかしたら法王庁も。

 正念場だった。

 

「人間なのに、病魔を信奉するの? たいへんな連中だね、どうも」

 イズマがいつもの能天気な様子でノーマンに返した。

 どんな手を使うの、と訊いてくる。

 ノーマンは真っ向から返答した。


挿絵(By みてみん)

 

「補給を断ち糧食の備蓄を払底させるのは軍略の基本中の基本だが、その一環として飲み水――つまり井戸を汚染するというのは攻城戦ではよく行われる手段だ。

 ペストやコレラ、赤痢などの病原菌で敵の立て篭もる城塞を攻め立てるやり口は、古代から使われてきたいわば城攻めの常套手段と言っていい」

 今回のこれもそうだな。

 こつこつ、とカテル島の詳細な地図が載せられたテーブルを籠手に覆われた指で叩きながら、ノーマンは言った。

「だが、拝病騎士団のやり口は、常軌を逸している。

 というより、手段と目的が常人とは反転している、と言うべきだろう。

 奴らにとって、都市とは“実験場”であり、城塞とは“牧場”なのだ。

 新たな病種、病根を育てるためのな。結果として城塞は、都市国家は攻め落とされ滅亡するが、そこはもはや人類の版図ではなくなっている。

 治める王などいない、汚染され、苗床にされた――死の大地が広がるだけだ」

「おっかないねえ。そんなことして、なんか得があるの? その、ええと、ハイビョー騎士団とかには?」

「その狂気に汚染された世界のなかにこそ、新たなる希望が芽生えるのだと、奴らは言うのだ。自らの実験がそれを生み出すと信じている。理解は不可能だ」

「今回のやりくちは、それにそっくり?」

「いや、どちらかといえば、土蜘蛛のやり方に似ているよ。拝病騎士団どもの放つ病魔はもっと強大だ。容赦がない。それゆえに結界に引っかかることも多いのだが。まあ、少なくとも月下騎士団のやりようではないな」

 ノーマンは凄みのある笑みを浮かべてイズマを見た。

 

 イズマも紙のように薄っぺらい笑みを貼りつけ応じる。

「あらー、なーんかボクちん、やぶ蛇ってかんじ? 疑われちゃってる?」

「じつはそうだ」

 あっさりとノーマンが言い、互いの間に一瞬の緊張が醸成された。

 だが、その緊張を破ったのは、ノーマンの方からだった。

 

「たしかに夜魔らしくはない。

 だが、それは今回の戦いぶりを見れば、すべてがそう見える。

 己の能力の強大さを信じるがゆえ、慢心するに値する強力な個を持つがゆえ、これまで組織立った軍事行動を起さなかった夜魔たちが今回、恐るべき連携を見せた。

 我がカテル島に進軍してきた連中はこれまでとは違う。

 また、イズマ、貴君とシオン殿下に繋がりがあることは夜魔側も承知のことだろう? 

 となれば、そのふたりと共闘する我らカテル病院騎士団の間に亀裂を生じせしめることは軍略家ならば真っ先に考えること……今回の件、オレは月下騎士団の策謀だと考えているのだ。

 確証はないが」

 貴君を信じているよ、とノーマンは言ったのだ。

 

「今回の毒は土蜘蛛のものだろう? 発見者の学僧はたしかに優秀な人物だが、他種族の毒をあれほど素早く特定はできない。貴君が、入れ知恵したのだろう?」

「あっらー、バレちゃってた? そうね。間違いないね、残念だけれど」

 ボクちんが言うと、いろんなところで角が立つかな、と思ってさー。

 イズマはへらへらと笑った。

「でもその書物――『青鈍坩堝あおにびかんか大全』――を判読できたのは、彼の優秀さだよ?」

 懐から件の薬学書を取り出し、卓上に置きながらイズマは言った。

 

「第一発見者は、つねに第一容疑者として扱われるからな」

 もちろん、それを覚悟で貴君が行動したものと信じて疑わない、とノーマンは言った。

 

「この毒そのものに致命的な効果はない。加えて、件の『青鈍坩堝あおにびかんか大全』から解読された処方で、どうやら事態は鎮静の方向に向かっているようだしな。オレはこの事態は、夜魔側が我々の結束にヒビをいれるために撒いた心理的な罠であると位置づけている。もっとも、五百名からの患者に施療せねばならんわけで、人手がとられてしょうがないが」

「ありがたいねえ、どうも。種族を超えた友情というのはさ」

 ノーマンの解釈に、イズマはしきりに顎を撫でて見せた。

 その様子に、ノーマンは目を細め、ゆっくりと席を立つ。

 

「友情ついでに、一刻ばかり、ここを任せてもいいか? 交替の時間だ。うまく休息のタイミングを計らねば、あと丸一日、持つまいよ」

 席を立ちながらノーマンが言った。

 不沈戦艦のように見えるこの男も人間なのだ。

 まったくの休息なしでは戦い続けられない。

 

「いいのかい?」

「なぜ? ここには貴君と、その忠実な下僕となった土蜘蛛の娘がいる。盤石だろう? 比べてオレは、少し根を詰めすぎている。休めるときに休まねばな。まだ宵も口だ。夜魔が仕掛けてくるなら夜半を回ってからだろう」

 ノーマンは、長い戦場での教訓を短く垂れた。

 さすがだねえ、とイズマは尻馬に乗り、さらに付け加えた。

 

「じゃさ、ついでにこのコ、試してみる? 土蜘蛛のって、流石に経験ないでしょ?」

「なに?」

「いや、だからさ、後学のためにどうかなーって。尋問とかするとき、いろいろ知っておくとあとが楽でしょ、こう、亜人体学ってやつ? 暗器の隠し場所とか、身体検査するときのー、ね?」

 交流を深める、ってのはどうかな、と思ってさ? 

 イズマの申し出に、流石のノーマンの顔からも表情が失せた。

 

 あはあは、とイズマは軽薄に笑うが、それが場をいっそう凍てつかせる。

 

 だが、数秒の沈黙の後、ノーマンはその申し出を受けた。

 それはこの場にノーマンという男を知る人間が同席していたのなら、目を剥くような発言だった。

 

「そうだな。では、そうしようか。たしかに、たまには、な」


 戦場とは生死が一瞬で交錯する場である。 

 ゆえに無意識下で生物は、その生存本能に翻弄され続ける。

 例えば性欲。

 死を前にして自らの子孫を残そうとする本能はごく自然なものだ。

 例外はなく、ただ、その発露が個体ごとですこし異なるだけのことだ。

 

 そして、ノーマンという存在も、その意味では男であったのかもしれなかった。

 

「シオン殿下への報告を任せてもいいか」

 イズマからエレの肉体を受け取ったノーマンは、イズマに言付けた。

「あ? ああ、もちろん、いいよ?」

 ただ、言い出したイズマでさえ呆気にとられるような意外さではあったのだ。

 

「じゃあ、ごゆっくりー♪」

 だが、傀儡と化したエレを拘引するノーマンの背にかけられた声は、もうすでにあの軽薄なイズマの調子を取り戻していた。




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