■第二十四夜:人形劇(グラン・ギニョール)
※
夜魔の艦艇が近くに潜んでいる――そのシオンの懸念は、すぐにも現実の惨禍として顕現する。
その連絡を受けたのは、馬上でシオンがヒラリと同調してからだった。
昨夜のうちに、カテル市の衛星都市:ラダコーナが月下騎士の襲撃を受けた。
時刻的にはカテル市が襲来を受けたのとほぼ、同時刻だ。
月下騎士のひとりが、別動隊として動いていた。
上陸地点を違え、時間差・単独で。
つまり、ヴァイツは自分たち本隊を、ある意味で陽動としたのである。
戦力の分散は、アシュレたち人間側のセオリーつまり、法王庁立アカデミーや兵科学校で悪手として教えられる基礎の基礎だ。
それも戦力的に数で劣る側が仕掛けるのは愚の骨頂だ。
だが、吸血によって体力の回復と手勢を生み出せる夜魔となれば話が違う。
ラダコーナへ潜入した月下騎士は手勢の補充と、さらなる混乱を巻き起こす役割をヴァイツに命じられていた。
正面からの交戦を避け、相手の疲弊を狙うゲリラ的戦術は、主に下級の夜魔に見られる行動で、少なくとも月下騎士団の精鋭が戦闘行動として採択したことはこれまで一度とてない。
誇り高き夜魔の騎士たちは、一騎打ちによって相手を打ち倒すことに、強いこだわりを持っていたからだ。
だが、ヴァイツはそのこだわりさえ、勝利のために自ら踏みにじることを命じた。
さすがのカテル病院騎士団も、これには翻弄された。
月下騎士が狙うとすれば追討の対象であるシオンか、法王庁の特使が逗留するカテル市のいずれかであろうと踏んでいたのだ。
手薄だった箇所を突かれたカテル病院騎士団員:二名が到着したのは、戦時に備えあらかじめ取り決めた定時連絡が途切れてから一刻が経過したあとだった。
致命的な二時間が過ぎた。
このときすでに、市民約百名が夜魔の下僕に成り果てていた。
ヴァイツの命令を月下騎士が忠実に実行した証であった。
おそらくふたりの到着があと半刻遅れていたなら、ラダコーナは完全に陥落していただろう。
ふたりの騎士が振う槍と剣が群がる群衆を刺し貫き、切り捌き、血臭と血煙が舞い、臓物と肉片と文字通りの血河が足元に満ちはじめていたそのころになっても、月下騎士は姿を現さなかった。
味方の、本来護らなければならぬはずの市民を、自らの手にかけなければならない――そして、このままでは殺し果てるまで凶行を続けねばならないという激憤に、ふたりの騎士が奥歯を割り砕かん勢いで歯がみしたそのとき、突如として、それは降ってきたのである。
ごしゃり、と重い音がした。
人体が石畳に叩きつけられる音だった。
それからそれは、血脂に濡れた路上を滑ってきた。
ヒトではなかった。
それは全身に杭に似た楔を打ち込まれ、銀色に輝く糸でがんじがらめに捕らえられた月下騎士の成れの果てだった。
特殊な杭が、ときおり生き物のように月下騎士の体内に溜め込まれた血液を吐き出すせいで、血臭にワインの匂いが混じりはじめた。
夜魔の血液は、人類のそれとはちがい、まるでワインのように薫る。
アシュレがここにいたなら、すぐさま判別したことだろう。
「や! どーもどーも、ごくろうさん、ごくろうさん!」
夜魔の下僕と化した群衆の後ろから、無造作に彼らを掻き分けつつ現れたのは、ほかに誰あろう――イズマだった。
「捕まえておきましたよ? 《チェインズ・オブ・イセリアルベイン》をはじめとして転移系や変成系の異能を封じる異能や道具で、てんこ盛り括っておいたから、基本、手も足も出ませんよ?」
あの軽薄な笑いのまま、イズマは顔をあげかけた月下騎士の頭を上から足蹴にした。
だれよりも月下騎士に対する怒りを募らせていたカテル病院騎士団ふたりが、思わず目を剥くほどに非情で冷酷な扱いをイズマは見せた。
「んで、残りの下僕どもだけど――焼いとくね?」
イズマが言い終わるか終わらぬかのうちに、背後に火線が走った。
いつか見せた《クローリング・インフェルノ》ほどの規模でも熱量でもない。
だが、指向的に高熱の猛火を走らせる《コータライズ・ナパーム》の威力は、吸血鬼と化した群衆を薙ぎ払うには充分すぎる威力を持っていた。
返り血に汚れた騎士たちが、苦悶に喘ぎながら紅蓮の炎のなかで死の舞踏を躍るかつての同胞の姿に言葉を失う。
「どったの?」
燃え盛る群衆の姿を振り返りもせず、能天気にイズマは問うた。
騎士たちからすれば心中は複雑だっただろう。
最大の脅威であった月下騎士は完全に無力化したうえで捕縛、下僕となった群衆は火によって清められた。
これ以上ない成果のはずだ。
だが、イズマの態度にはどこにも誠意が認められなかった。
さらには、この男は土蜘蛛であった。
異人種である。
これまで人類の敵対者、殲滅すべき仇敵として教えられてきた人外に属する者である。
グレーテル派の首長であるダシュカマリエ、騎士団長:ザベルザフト、そして筆頭騎士:ノーマンが認めた男ではあったし、先のフラーマの漂流寺院での一件――その武勲はカテル病院騎士団の全員が知るところだ。
そのなかでイズマが果たした役割を知らぬ者はいないし、異種族、敵対者であれ、その実力、実際に起された行動に対しては偏見なく認めていくのが戦士階級の気質だ。
こまかな文化や教義の差異について議論を繰り返すのが騎士の仕事ではない。
武勲は武勲、行動は行動、結果は結果だ。現実を認められない人間は戦場では死ぬしかないからだ。
それでも、イズマの軽薄なふるまいからは敵への、そして、死者へのあるいは死に行く者への敬意がまったく感じられなかった。
ヒトとして示すべき悼みがない。
追い討ちのようにイズマは言った。
「あー、《コータライズ・ナパーム》はボクらが病魔とやり合うときに使う異能でさ、消毒的な効果もあるからさ」
それは、いま焼き払った人々を、いかに夜魔の下僕に成り果てたとはいえ無辜の民を「病原」と言い放ったに等しかった。
ついに騎士のうちひとりが食ってかかりそうになった。
イズマは慌てて掌を広げて見せて他意のないことを示す。
「ごめん、ごめんねぇ。考え方の違いをボクちん、ちゃんと理解できてないみたいでさ。気に障ること言っちゃった?」
そうやりとりを続けるイズマの背後に、同じく土蜘蛛の美女が降り立ちひざまずいた。
血と臓物と脂に溶けた雪で汚れた石畳が水たまりを作っている、その上にだった。
よく見れば、女の体はその表面に浮かぶようにしてあり、まるで汚れないことに気がついただろう。
もうひとりの騎士が武器を構えた。
だが、女はその騎士を一瞥すらせず、熱意のこもった視線をイズマに向け、言った。
「残敵を一掃してございます、マスター」
「ごくろうさん。あ、カテルのみなさん、これは敵じゃないから。いや、正確には敵だったんだけど、ボクちんの魅力(ミリキ、とイズマは発音した)で、もう完全に操り人形にしちゃったから、だいじょぶ」
あっけにとられたカテル騎士が質問した。
なにごとか、と。
なにものか、と。
その質問にイズマは答えた。
「夜魔の侵攻に合わせるように、土蜘蛛の刺客もボクちんたちを狙ってたの。
んでまあ、今回の事件の戦力配分を見るにつけ、ちょっと盤面上の駒を奪ってをひっくり返しておこうと思ってさ。
あ、ちなみにこの子、土蜘蛛の凶手:ベッサリオンのエレヒメラ。
とびっきりの美人しょ?
なんなら、おにーさんがたの寝室に忍ばせましょうか?
きょーれつよ?」
どこかの奴隷商人のような口調で言うイズマに、呆れ返ったのか、カテル病院騎士たちは閉口した。
「ま、とりあえず、捕まえたコイツを本部に連行しようよ。情報を聞き出さなくちゃならんし。あ、拷問はおまかせくださいましー。げーじゅつ的なやつをお見せするよ」
こうして、捕らえた月下騎士と下僕となった土蜘蛛の凶手を引き連れ、イズマがカテル島の中央指揮所――ノーマンが陣取る地下施設に向かったのは、ちょうど陽が昇る直前のことだ。
アシュレたちが短い仮眠を取っていたころと時間は重なる。
※
「ふー、まったくなんなんでしょうか。こいつらの団結力の強さは。はっきりいって、たいへん鬱陶しい」
ジゼルが避難施設と化した旅籠を見下ろしながら言った。
悪態の対象は、カテル病院騎士団である。
ラーンとジゼルの宿泊する部屋は旅籠の離れ、高台にあり、源泉にもっとも近い露天風呂からは、眼下に旅籠の施設を一望できる。
陽が昇るまで焼け出された人々の誘導や手当てに奔走していたジゼルは、乱暴に甲冑を脱ぎ捨て、兜を蹴り飛ばすと、先に帰投していたラーンを引きずるようにして戦塵を落しに来たのだ。
友軍である騎士団へに対するジゼルの悪態を諌めようともせず、ラーンも同感だという様子で返す。
「指揮権の委譲を含め、ザベルザフトにはあれこれ打診してみたけど、突っぱねられた。
誇りにかけて、と重傷をものともせず、言い切るんだから始末に負えない。
おまけになにを訊こうが、提案しようが融通の利かない猪武者のふりを決め込んでる。
こりゃあ、騎士団側は事前にだいぶん対策を施したんだろうね。
ガードが堅くてつけ入る隙がない。
頭の切れる古ダヌキほど手強いものはないよ。
穴に籠られて、手も足も出ない。
そのうえ、本拠地がこんなになっているのに姿を現そうともしないダシュカマリエという女は――いま、本当に手が離せないほどに切迫しているのか、それとも神経が太いのか。
強力な天啓の力によって東方の守護を任されるカテル島大司教位は、法王庁が認めた正しい予言の力――〈セラフィム・フィラメント〉に拠るものだから、こちらも手を出し難いんだよなあ」
「“教授”――ぜんぜん困っているように聞こえない。むしろ、喜んでいませんか?」
「んー、ゲームは難しいほうが燃えないかい? ま、わたしの嗜好なんてどうでもいいんだけれど」
煤煙に汚れた顔をラーンは温泉で洗った。
本国の属するイダレイア半島もそうだが、このあたりの島々、沿岸は火山帯の影響で温泉には事欠かない。
ラーンが洗顔を終えると、いつのまにかジゼルが身を寄せてきていた。
強い意志を示すはっきりとした眉の下から、言うことありげな瞳がラーンを見ていた。
「なにかね?」
「“教授”がそういう口ぶりの時は、もう攻略の手口をつかんだときですから」
ジゼルの断定的な問い掛けに、ラーンはかぶりを振って答えた。
「それはかいかぶり過ぎだよ、ジゼル。ただ……」
「ただ?」
問い詰めるようにぐいっ、とラーンに身を寄せてジセルは言った。
豊かな胸乳が触れるのも厭わない構えだ。
「妙だな、とは思ってさ。ほら」
ラーンはジゼルの追及の矛先を躱すように、背後を振り返った。
そこからは一夜のうちに灰燼に帰したカテル市内と、その周辺で生き残った施設――この旅籠や一部の騎士館、カテル市の城塞などが一望できる。
焼け出された人々がどこに集中しているのかも。
「なにかわからないかい? このヒトの流れから?」
「だから、推理は苦手だと。ヒントを」
「キミ、一瞬たりとも思考しなかっただろう、いま」
はー、とこれ見よがしにラーンは嘆息するが、ジゼルは馬耳東風と受け流す。
いいだろう、とラーンが折れた。
「このカテル島はグレーテル派の中核をなす教区だったよね? それを象徴する大聖堂と病院と」
「ええ」
それがなにか、とジゼルは小首を傾げて見せる。
胸の谷間を強調するように腕を組んでみせたのは、たぶん、意図的ではないはずだ。
「その施設群は島の中腹から上方に密集している。避難民を受け入れるなら、延焼の危険性が高い市街近隣ではなく、そちらの施設群のほうじゃないか、普通は?」
ああ、とようやく、という感じでジゼルが手を打つ。
「なのに、なぜかヒトの流れは教会や病院施設にはほとんど流れていっていない――そう“教授”は言うのですか」
「表向きは重傷者のみ受け入れる、ということになっているがね。
見たまえ、階段を上って行こうとする子供たちを、大人たちが引き止めている。
この状況って、これまでのカテル島の篭城戦ではなかったことなんじゃないかな?
統制はとれているが、なにか戸惑いのようなものを感じたんだよ。
人々の流れに、ね。
これでと違うルールに従って行動しなければならない、というような?
精鋭中の精鋭であるカテル病院騎士団はともかく、民衆すべてにそれを徹底させることはできないよ。
普段からの慣習というものは、人間が思っているより、ずっと強い《ちから》なんだ」
その動きからは見えてくるものがあるじゃないか。ラーンは淡々と言った。
「見えてくるもの?」
「カテル病院騎士団が、教団中核から民衆を隔離しようとしている意図、みたいなものがさ」
「“悪”の秘密結社、的な?」
ジゼルが真面目な顔で言うものだから、ラーンは思わず吹き出してしまう。
「“教授”ヒドイ。わたし、いま、けっこう真面目に推理をしました」
「戦時に部隊を率いているときのキミと、そうでないときのキミのギャップはヒド過ぎるよ、ジゼル。だけど、そこがたまらなくカワイイわけだけれど」
続くジゼルのリアクションをラーンは軽くいなしながら推論を続けた。
「それは……推理が大胆すぎるけれども、秘密結社的である、という部分は真理を言い当てていると思うよ」
「つまり?」
「彼らカテル病院騎士団は重大な秘密を抱えている。
法王庁にすら明らかにできないようなね?
そして、その秘密はこの島が戦場となったとき、明確な攻撃対象となる=そこには教団中枢である大聖堂と病院施設が含まれている。
だから、戦時にあって市街に被害が出ても、避難施設として使用していない。
けれども、これは今回限りの特別な対応だ、とわたしは思うんだよ」
すべては民を守るため、と言えば聞こえはいいけれどね?
「それってアシュレたちと、なにか関係が?」
「関係はないかも。
でも、カテル病院騎士団には後ろ暗いところがあって、アシュレたちがこの島にいることは昨日の戦端を開いた攻撃から確定で、なのに、アシュレたちがここにいることをカテル病院騎士団は知らないと言いきったわけだ。
そんなことってあるだろうか?
認めて差し出せば、それでいいはずなのにね?
これはつまり、だとしたら、差し出せない理由があるんだよ。
そして、アシュレもアシュレだ。
本当に無罪なら、どうして出てこない?
ボクらが保護してやるのに――その出てこれない理由、後ろ暗いよねえ。
それでね……そういう後ろ暗さって、ぐるっと回ってどこかで繋がっているもんじゃないだろうかな、と思ってさ」
「さすが、“教授”――腹黒い。汚い。」
「それは本当に褒めているのかい?」
「もしわたしがアシュレと結婚していたなら、過去の関係をネタに“教授”に強請られてしまう未来しか思い浮かばない。『イクス様、ごめんなさい:神の端女は夜の下僕』……そういう鬼畜なタイトルの」
淡々と言うジゼルの頬は上気していて、たぶんおかしな方向に興奮しているのだ。
ジゼルの精神はどこかに行ってしまっていて、荒い鼻息に頬を染める存在だけが現世にはあるのだ。
ラーンはかけるべき言葉を持たない。
しばらくの沈黙の後、んんっ、咳払いしてからとラーンは言った。
「まあ、要約すると、近場にいるとわかった獲物の後ろを闇雲に追い回してみるよりも、ここがどんなところであるのか把握すること、彼らの協力者=つまりカテル病院騎士団の思惑を探るほうが有益なこともあるんじゃないか、という話なんだ。
だから、キツネを狩るにはまずキツネ穴、ってわけさ」
すると、最終的に獲物を狙撃すべき場所もおのずと見えてくる、とわたしは考えているんだ。
ラーンはそう話を締めくくった。
「狙撃といえば、昨日はひやり、としました」
大筋でラーンの話の有効性を認め、現世に帰還したジゼルが言った。
「なんの話だね?」
「狙撃を受ける覚悟をした、という話です」
「だれが、どこで?」
「わたしたちが。わたしと“教授”が。昨日のあの豪商宅の屋上で。あんなに背景の抜けがよくて周囲が開けていて、西の斜面、特に丘陵からは撃ち下ろしになる……絶好の狙撃点」
「それは〈シヴニール〉で、ということかね? カテル病院騎士の加勢に赴いたわたしたちを、アシュレ坊が? まさか、だね、それは」
笑って否定するラーンに、しかし今度はジゼルが食い下がった。
「わたしがアシュレの立場なら、撃ちました。もともと〈シヴニール〉はそうして運用するための兵器です。遠距離から区画ごと敵を消し去るための」
ジゼルの真剣さに、ラーンは表情を引き締めた。
たしかに、と。
「たしかに、いまの聖騎士:アシュレは、かつてわたしが知っていた彼とは別人だと考えなければならなかったのだね。失念していたよ。気をつけねばならん、ということだね。相手を甘く見て判断を誤れば、それは即、死に繋がる、とキミは言っているのだね?」
こくり、とジゼルは頷いた。
ラーンもうなずき返して理解を示すと、こんどは逆に提案した。
冷えたジゼルの肩を抱き湯船に浸してやる。
「今後について、われわれの“関係”を深めるべきではないかな? そのあとお忍びで行きたい場所もできたな……まずは、キミが狙撃に最適だと評した丘かな? なにか残っているといいが」
※
「やはり、あったね」
一刻の後、ジゼルとラーンのふたりは人目を欺く純白のコートを羽織り、昨夜アシュレたちが決戦を見守ったレモンの木々の間にいた。
気流の関係だろうか火事場となったカテル市から吹き上がってくる風に、延焼の匂いがひどい。
風呂上がりだというのに鼻のなかに炭の粉をまぶされたような気分だ。
枢機卿と聖騎士がお忍びで外出など、難しいと思う者もいるかもしれないが、現場はいまだ多忙を極める状態だ。
異能を駆使するふたりが組めば、一刻ほどの不在など、なにほどのこともない。
雪の斜面を難なく歩くジゼルたちの足取りしかり、少し離れるだけで視認を困難にする偏光レンズの護りも、すべてはふたりが卓越した《スピンドル》能力者であればこそだった。
夜明けには止んでいた降雪だが、ふたたび勢いを取り戻している。
その雪さえもふたりには届かない。
戦闘の本職である騎士たちが習得を後回しにしがちな身体維持、体力温存のための異能をラーンは数多く習得している。
生きてさえいればかならず逆転の目はある、それにはまず、生き残る術に知悉し精通すべし。
そう考える不屈の精神がそこにはあった。
ラーンは見た目通りの、単なるインテリではない。
ラーンが爪先で示す先に、馬によって荒らされた雪原が広がっていた。
付着している体毛、糞の具合、蹄鉄の形式。足跡だけではない。残された痕跡のそのすべてが、雄弁に昨夜の状況を語っていた。
「ふたり、だねこれは」
「“教授”、足跡は馬のもの、それに男性のもの……二種類しかありませんが?」
「馬の蹄鉄が深くめり込んでいる。男の手綱捌き、馬の足さばきも妙だ。
男の足跡から見て装甲していることは間違いないだろうけれど、重装というほどでもない。体重含めてせいぜい八〇ギロス程度じゃないかな?
それなのに、馬のほうは、まるでもうひとり分の体重を引き受けたかのような足取りだ。
ホバークが雪に擦れた形跡もないから、馬も装甲はないね。
思い切りのいいことだ。
対異能者戦と、完全に割り切っている。
となると、もうひとりは我々のように異能で足跡を消すことができるのだろう。
男の側がだいぶ気を使っているね。大事な相手、敬うべき存在、という感じだ。手を引いて歩調を合わせている」
追跡の手がかりとなる痕跡を崩さぬよう気を使いながら、時間を遡るようにラーンは歩を進めて続けた。
「いかにも貴族のお坊ちゃんと姫君のやりそうなことだ。痕跡の後始末を考えたこともない、という感じだよ。スパイラルベインの密偵や野伏たちなら、こうはいかない。法王庁のアカデミーでは戦闘の痕跡隠滅までは教えないからね」
ジゼルが声にならない唸りを上げた。
ラーンの慧眼には感服するしかない。
異能などなくとも、人間はその教養と知識・見識、観察力と推理の力だけで、ここまで相手に肉迫できるのだ。
「夜魔の姫、です?」
「“反逆のいばら姫”――シオンザフィル。たぶん間違いないのではないかな?」
夜魔ならば雪上に足取りを残さない説明もつく。
「やはり、夜魔に魅入られていたか――やれやれ、バラージェ家の男どもは、揃いも揃って……破滅願望でもあるのか。わたしというものがありながら。なにが不満だというのか」
ジゼルが胸甲をそらして強調するポーズを取ってみせた。
たぶん『ゆさっ』というカンジのけしからん音がしたはずだ。
鋼鉄の装甲で覆われてさえなかったら、の話だ。
「恋の業火に身を投じることは、理屈では説明しがたい狂気なのさ。それが破滅的で、成就が困難であればあるほど――恋愛はその当事者たちを物語の主人公に近づけてゆく。夏の終わりに、ランプの明かりに吸い寄せられる蛾のようなようなものさ」
その身が炎に焦がされて火だるまになるまで気がつかない。
あー、となにか心当たりがあるのだろうか、ジゼルが頬を赤らめた。
「どうかしたかね?」
「たしかに、さっきは燃えました。アシュレのことを笑えない」
ジゼルの軽口にラーンが生温く笑う。
「あれは一時的な同調回路を開くための儀式だよ? “関係”を結んだおかげで、わたしたちは互いに《スピンドル》を融通しやすくなったじゃないか」
「あんな深いところまで入ってきて――“教授”は責任取らない派に違いない」
やはり淡々というジゼルだが、その目は笑ってはいない。
責任の話ではなく、アシュレの動向についてだ。
「まあ、アシュレ坊が夜魔に魅入られているかどうかは、まだ断定できないけれどね」
「聖騎士が夜魔の姫と連れ立っているってことは、そういうことでしょう?」
疑う余地などない、という感じでジゼルは断言した。
「穏やかじゃないね。じゃあ、もし、そうだとしたらどうするのかね?」
「火刑、ですかね? イクス教のその正統たるエクストラム法王庁の聖騎士としては」
「……婚約者としての発言とは思えないよ。まだ、解約したわけではないのだろう?」
「では、死刑で」
「ジゼル……キミの心の法廷には弁解や改心の余地はないのかね」
ラーンは額に手を乗せ天を仰いで大きく息を吐いた。灰色な空から雪片が舞い降り、呼気を白く染め上げていく。
「そうやってわたしばかりを、情知らずの殺し屋みたいな発言させてますが――“教授”はどうするつもりなんです? 所信を明確にしてもらわないと」
静かに詰め寄るジゼルにラーンは腕を組み唸った。こまったね、というジェスチャーだ。
「……とりあえず、尋問……かな?」
やっぱり鬼畜、とつぶやくジゼルの唇が艶めかしいのは、たぶん雪のせいだ。




