■第七夜:別れ路で
ヒトは生まれながらにして自由を手にしている。
王権を主張する支配者たちはその簒奪者であり、打倒すべき悪である――そんな世迷言を信じていたことがある。
ナハトは回想する。
もう十年も前のことだ。
理想に燃え、夢を追い、世界を変えられると信じていた。
支配者を打倒し、その特権と資産を民に分配しさえすれば健やかな未来が来ると信じていた。
ナハトヴェルグ・パロウという名も実家の屋根裏にしまわれていた家系図から頂いた。時の王に諌言し、そのせいで家を取りつぶされた騎士の家系だそうだ。自分にはぴったりだと思った。
農民の三男坊に字の読み書きを教えてくれていた父母に感謝した。
そして革命に参加した。
イグナーシュ王家を相手取った大きな戦争だ。
救国の騎士として戦った。そして、困難な戦いに勝利した。
武器を手に取ったこともない人々が正規軍に勝利したのだ。
なにかが変えられる気がした。
だが、気がしただけだと気がつくのに時間はいらなかった。
王とその臣下を根こそぎ絶やしても世界は変わらなかった。
それまで協調路線を取ってきた派閥同志の醜い権力闘争。
とっくの昔に戦費で底をついていた国庫。
そして、愚昧で無責任な民衆。
その全てにナハトは絶望した。
革命に続いた血塗れの権力闘争は、あらゆるものを変えた。
ナハトの民衆に対する感情は革命前と後とでは間逆になってしまった。
教育と財産と自由の権利から、支配階級によって隔絶された被害者だと以前は思っていた彼らが、被害者の皮を被った怠惰な家畜に見えるようになった。
学ばず、努力せず、犠牲を払わず、ただ、自身の権利についてだけは声高に主張する。目に見えるものだけ、すぐに手に入るものだけに執着するズル賢くも愚かな家畜の群れ。
それが民衆に対してナハトが得た答えだった。
ガシュインの敷いた圧政の意味がわかった気がした。
世界は変わらず、自身が変わってしまったことに愕然とした。
それでもこの国にしがみつき群狼士団なる一派に属し続けてきたのは、まだ自分が夢の途上でいたいからなのだとわかっていた。
変わるべきはこの世界のほうで、そして、自分には世界を変える力があるのだと。
だから焚きつけのかわりに暖炉に投げ込まれようとしていた古文書に〈デクストラス〉を見出した時、そして、その記述にあった王家の墓を自力で見つけ出した時、胸のうちで燻っていたものに、再び火がついたのをナハトは感じた。
イグナーシュ王家の人間にしか扱えぬ秘宝。
――〈デクストラス〉と〈パラグラム〉。
いつだったか、声高に王権の復活を叫ぶジジイを退屈しのぎの決闘で刺し殺した時、王家の血筋は絶えていないと、うそぶくそいつを、ただの物狂いだとナハトは笑い飛ばした。
だが、なぜか、ずっと心のうちにそれが残っていたのは、その名前:アルマステラという姫のことを、ナハトが知っていたからだ。
王宮が陥落した際の略奪で、民衆の手より先にナハトたちが確保できた貴重な戦利品だった。
年端もいかぬ子供だったが、その美貌と具合のよさといつまでも初々しい反応のおかげで戦後を生き延びた女だった。
もっとも生き延びたことが彼女にとって幸せだったかどうかは、わからなかったが。
いつも何人もの男にのしかかられ、玩弄され仕込まれていた。
苦痛に耐えるために肉体が快楽を憶え、その恥辱と己の意志との差異に翻弄されるさまが、たまらなくそそった。
ナハト自身もお気に入りだったが、可愛がりすぎたのか一年ほどで病にかかり、捨てるかどうかの際で通りすがりの修道士が引き取ると言い出した。
満場一致でくれてやった。
修道士の語る死後の世界の救いと罰の話に多少なりと影響されたこともある。
最後はボロ布のようにすり切れた姿をしていた娘をナハトも憶えている。
どうせ死んだだろうと思っていたあの娘が生きている、とジジイは言ったのだ。
だがそれも〈デクストラス〉と〈パラグラム〉、そして王家の墓でグランの亡霊に邂逅しさえしなければ信じられなかっただろう。
瘴気渦巻く地獄の果てに、老王は立っていた。
同道した他のメンバーが遁走するか、発狂して死にいたるかするなか、ナハトだけが王の御前に対峙した。
「なにが望みか」とグランの亡霊は言った。
「変革を。世界を更新する力を」とナハトは応じた。
そのときグランの口もとに浮かんだ笑みの意味が、ナハトにはいまだにわからない。
墓所には莫大な副葬品が納められており、ナハトはその一部を資金とした。
持ち出しにあたりグランの亡霊は首肯し、ナハトの行いを認めた。
好きなだけ使うがよい、と言われた気がした。
実際一部だけで、かつての革命軍の資金の実に二割が賄えるほどの額があった。
まる三年を投じた。
国境の防衛線を夜陰に紛れて突破し、ヒトを使い情報を集めた。
金の威力というものが骨身に染みた年月だった。
アルマステラは生きていた。
驚くほどの美貌と肉体、そして輝きを取り戻していた。
都合のいい事に、過去の遺産に関する才能がアルマステラには備わっていたらしかった。
それを見出したどこかの司教が聖遺物管理課にポストを与えていた。
下級職だったが充分だった。
天が味方していると確信した。
オレは王になるべき――いや、王を超えた存在――理想の体現者:上皇となるべき男だと確信した。
夢想が止まらなかった。
そして、アルマステラに再会した。
当然だがアルマはナハトを憶えてなどいなかった。
十年という年月がナハトの骨相を変えていた。
若造だったあのころに比べ骨は太くなり肉もついていた。
髭を蓄えていたし、騎士として通るだけの容貌をナハトは備えていた。
イグナーシュ王臣下の最後の生き残りとして、貧民街の教会で再会した時のアルマの顔が忘れられない。
逃げ切ったはずの過去に襲われる彼女の表情に、嗜虐的な喜びを覚えた。
ことさら丁寧にナハトは言葉を選んだ。
震え涙するアルマは、たしかにナハトに組み敷かれながら許しを懇願していた少女本人だった。
大丈夫です、となんども繰り返すと安堵したように目が虚ろになることを、アルマ自身は気がついていないだろう。
大丈夫だ、とナハトは表情を悟られぬように隠し、つぶやいた。
オマエの穢れなど、やがて洗い流せる。
オレは救国の英雄となり、世界に変革をもたらす男だ。オマエはそのとき、ただオレのかたわらにいればいい。愛でてやる。愛してやる。
だが、まずは働いてもらう。
ナハトが追憶から戻り、彼方に王家の墓への目印を見出した時、馬車の客室からアルマが身を乗り出し叫んだ。
止まれ、だと? ナハトは怪訝な顔でアルマの指し示す先を見た。
法王庁の騎士だった。
女だろうそれを神輿のつもりか亡者たちが玩ぶように爪牙にかけるその瞬間だった。甲冑が剥ぎ取られる音が聞こえてくるようだ。
ぞわり、と首筋の毛が逆立った。
法王庁の追っ手と、おぞましい亡者どもの群れ。厄介事が束になっている。
おまけにすっかり姫様気取りのアルマが示し時を間違えた自己犠牲精神を発揮して、突撃しろと命じてくる。
だからアンタ喰いものにされんだよ。
ナハトは舌打ちし、しかし、アルマの指示に八割の速力で従った。
亡者ども、早く済ませてしまえよ、と心のうちで念じながら。
※
ユニスフラウ・パダナウ――ユーニスは背教者である。
そのことをだれも知らない。
家族も、アシュレも、幼いころからの親友でさえ。
背いたと感じているのは己だけだとわかってはいた。
だが許されないことだった。
ユーニスには親友を陥れた経験がある。
結果として親友は栄光の道を歩むことになったが、それが彼女の本当の《ねがい》だったのかどうか、ユーニスにはわからない。
ただ、親友の行く道をねじ曲げてしまったのだという自覚がユーニスにはあった。
親友の名はレダマリア・クルス。
史上最年少の、しかも女性枢機卿。
アシュレへの愛をレダマリア――レダが口にしたのはアシュレが重篤な病の峠を越えた時であった。
ユーニスが十三、レダが十二の時だ。半年ほどユーニスの方が年上だったが、物静かで敬虔イクス教徒であるレダは大人びて見られることが多かった。
ふたりはアシュレの母とともに、一月以上も泊まり込みで世話をした。
この直後、アシュレの父であるグレイが法王猊下より賜ったという妙薬のおかげで奇跡的にアシュレは回復するのだが、この時はまだ予断を許さぬ状況だったのだ。
「愛しているの。あのヒトを」
毎日わずかな睡眠時間で通してきたおかげでぼぅっとする頭に、レダの固い声が突き刺さった。なにを言われたのか理解できず、ユーニスは問い直した。
「愛しています。アシュレダウを」
小さな、しかし、よく透る声でゆっくりとレダは言い直した。
がらり、と足場の崩れる音を、ユーニスはたしかに聞いた。
「冗談でしょう? あんな、男か女かわかんないやつを?」
なんであなたが。きっとそんなニュアンスをユーニスの問いは含んでいたはずだ。
「それじゃあ、かまわないのね。わたしが愛を告げても」
ユーニスの否定的な問いかけを、軽くいなしてレダは言った。
「軽率だわ」
二人で潜り込んだベッドに手をついてユーニスは身を起こした。
レダが向き直った。白銀の頭髪がさらさらと音を立てた。
親友は口を噤み、深い翠の瞳でユーニスを見つめ返した。
軽率かどうかはユーニスが一番よくわかっていた。
本を読んでいるときは、いるのかどうかさえわからなくなるほど物静かなレダという娘がその実、隠れた情熱家であることをユーニスは知っていた。
そして、軽挙妄動からもっとも遠い存在であることも。
軽々しい気持ちでものを告げるような娘ではないことを。
取られてしまう、と恥も外聞もなく思った。
蝶か、花か、と並べられともに讚えられることの多いふたりの少女だが、ユーニスは知っている。自分の陽に焼けて荒れた肌とレダの剥き身の卵のようなそれのすべやかさの違いを。
自分は同じ花でも野に咲くアザミで、レダは温室で花開く貴種の蘭だ。
男なら指で触れた途端にわかるはずだ。
品の違い、流れる血の違いに。
戯れに肌を合わせたことのある互いだからわかるのだ。
「僧職は、あなた、司祭位はどうするの?」
「愛を告げることと、僧衣を脱ぐことは違うわ。別のことよ」
決然とレダは言った。
だが、そうならないであろうことはユーニスにはわかっていた。
年頃になりつつある男女が、愛を告げあったあとで何も起こらぬはずがない。
レダはそれさえ覚悟の上で、いや、だからこそユーニスに告げたのだろう。
もしアシュレに受け入れられ、求められたなら全てを手放すと。
そして、そのあとで充分すぎるものをレダは手に入れる。
古い貴族の一門であるバラージェ家ならば、現法王の姪が嫁ぐ先として問題ない。
恋に身を投じる姪を老マジェストは許すだろう。
むしろ祝福さえするだろう。
教会の権力闘争の道具となるならむしろ、そちらを推すだろう。
だが、ユーニスはそうはいかない。
決定的な身分の差が、家の違いがアシュレとの間にはあった。
決してアシュレの妻となることはできない。妾の地位が関の山。
ガチガチと鳴りそうになる顎を奥歯を噛みしめて殺し、ユーニスは親友を諌めた。
諌めるふりをした。
詭弁を弄するとはこのことだった。
レダの純真、真心、優しさにつけ込んだ。
このままいけば成人を待ちマジェストがレダを枢機卿に任命することはまちがいなく、いずれか女性法王の誕生がありえること、そうすればレダの采配ひとつで救える人々の数を実例を挙げて見せた。
結果としてレダはアシュレへの告白を思いとどまった。
そして、ユーニスはアシュレに純潔を捧げた。
枢機卿となったレダは相変わらずの態度でユーニスと接してくれる。
それどころか、礼を言われた。
あのとき、あんなに親身に話をしてくれた貴方があったからこそ、いまのわたしがあるのだと。そういって微笑むレダの顔を見るたびに、ユーニスは心臓に針を突き立てられるような痛みを味わうのだ。
いつだったかひさしぶりに女ふたりでワインを飲みかわしたことがあった。
公務でフラフラのレダは、ユーニスのベッドに身を投げ出して言った。
「あのとき、てっきり、ユーニスもアシュレを愛していると言ってくれるものだと思ったの」
どういうこと、とかたわらにはべり問いかけるユーニスにレダは言った。
「わたし、提案するつもりだったの。わたしが正妻、あなたがお妾さんにならないかって。そしたらふたりとも夢がかなう。
世間の人たちはどう言うかしらないけれど、わたしたち親友なんだもの、いいでしょう?
問題はあのヒトがふたりとも愛してくれているかどうかで、どちらが妻か妾か、なんてどうでもいいことだわ。
ときどき交代すればいいだけのことよ?
それにあなたとなら妻妾同衾してもいいって、思っていたの。ほんとうよ」
若かったわ。
そう言って屈託なくレダは笑った。ユーニスも笑った。
だがその笑顔の下でユーニスは打ちのめされていたのだ。
人品の違い、器の大きさの違いに。
自分が親友を騙してまで手に入れようとしたものを、レダマリアは自身の世間体と引き換えに共有しようと考えてくれていたのだ。
代価も、誹謗中傷をも恐れもせず。
少女の考える甘すぎる夢想だっただろうか。
いや、レダなら必ずそうしただろう。
あのとき、なぜ正直な気持ちを告げられなかったのか。
得られたかもしれない未来を、ユーニスは自分で破り捨ててしまったのだ。
けっきょくレダには告げられないままだった。
レダのアシュレへの想いをアシュレ本人には告げていないこと。
自身がアシュレに全てを捧げたこと。
そして、どうしてもアシュレを独占したかったこと。
もし、とユーニスは思う。
もし、わたしがレダと同じかそれ以上の血筋に生まれついていたなら、わたしはいったいどうしていただろう。
どんな未来にいただろう。
※
「借り受ける」
馬に跨がろうとしたアシュレの足下からシオンが敷布を取り上げる。
アシュレは軽く眩暈した。
アシュレが寝かされていたのは法王庁の軍旗の上だったのだ。
国葬の英雄でもなければ許されないことだ。
そのうえ、あろうことか、シオンはそれを〈ローズ・アブソリュート〉の巻き布にしようというのだ。
止める間もなかった。
手慣れた様子で梱包を済まし、ヴィトライオンのウェポンラックに手挟む。
いったいなにが起ころうとしているのか、わからない自分がもどかしい。
おまけに馴れた者以外に触れられることを極端に嫌うヴィトライオンが、従順にシオンのいうことをきいている。
オマエ、とアシュレは思う。
「美人には甘い……飼い主とおなじデスネ」
いつのまに占いの道具を片づけたのか、あらぬ方角を向いてイズマがイヤミを言った。
羊は変わらず黙秘を貫いている。
「ささ、荷物を預けたら、姫はこちらですよ」
シオンに対しては、イチジクのコンポートもかくやというとろけ具合でイズマは手を差し伸べた。
シオンはその手に気づかずアシュレに手を伸ばした。
反射的にアシュレはシオンの騎乗を手伝う。
ふわり、とスカートの裾がひるがえり奥まったレースが見えた。
「どうした?」
突然の出来事に動揺するアシュレと、噛かみしめるべき幸せと嫉妬の狭間で懊悩するイズマの二人を見回し、シオンは叱咤の声を上げた。
なにを惚けているッ、と。
「急がんと手遅れになるぞッ!」
二騎に跨がる三人が荒野を駆けはじめた。
※
まるで薔薇の花束を抱えているようだ。
むせ返る芳香にアシュレは幻惑されそうになる。
思えば〈ハンズ・オブ・グローリー〉を取り戻しにきた彼女に押し倒されたせいで、こうして戦いに身を投じることになったわけで、アシュレにとってこの香りは因縁浅からぬものだった。
そして、こんなに身体を密着させていては濃厚な残り香のせいで、ユーニスのいらぬ嫉妬を買ってしまいそうだ。
怒られるくらいならまだいいが、泣かれてしまうとアシュレはどうにも弱い。
普段が気丈な分、そういうときのユーニスの泣き顔はひどく儚げで、アシュレは罪悪感で眠れなくなってしまうのだ。
「想い人のことを考えているのか?」
女というのはどうしてこの手の勘に優れているのだろう。
アシュレは正直に答えた。
「ユーニスに再会した時、言いわけできないな、と思って」
アシュレの困窮の度合いがよほどおかしかったのだろう。シオンが朗らかに笑った。
「そなた、冗談のセンスがあるな」
アシュレは思わず、むくれ面をしてしまう。
シオンはひとしきり笑ったあと、詫びてきた。
「すまぬ。……臭いか」
「逆で……絶対に浮気を疑われる」
「嫌な匂いではないか?」
「むしろ良すぎて、困る、というか」
ああ、ボクはなにを言っているんだ。
芳香にくらくらとなりながら、アシュレは懸命に手綱を捌く。
だから振り向いたシオンの瞳が、茶目っ気に輝いていたのを見逃した。
「好きか?」
ええと、と言いよどむアシュレの左腕に、シオンが首筋をなすりつけてきた。
思わず手綱を誤りそうになり、蛇行する。
一瞬ひやりとした。
シオンもそうだったらしく、顔を見合わせると緊張した顔をしている。
それからシオンは破顔した。
「甲斐性のあるところを、そなたの女に見せてやれば良い」
この程度で愛想を尽かされるなら大したことがないというわけだ、そなたへの愛もな。
ふふ、とアシュレは思わず苦笑してしまった。
そうだ、とシオンが言った。
「笑っていろ。暗い気持ちで行うことは必ず悪い結果を引き当てる」
アシュレはこの夜魔の姫の慈愛の深さに感銘を受けた。
気づかわれていたのだ。
冷静になれ、と言葉ではなく言われていたのだ。
「ありがとう」
「受け売りだよ。ヒトに限らず生きものというものは、だれかから与えてもらったものしか、別のだれかに与えられない。
だから、もし、わたしの行いがそなたを救うなら、わたしは過去、別のだれかに救ってもらったのだということだ」
ルグィンに? とは訊けなかった。
あの荊の丘でシオンが見せた表情が忘れられなかった。
「安全運転を心がけていただきたいねッ。ダメッ、絶対ッ、騎乗時のいちゃつきッ」
並走しながらイズマが言った。目が血走っている。泣いているのかもしれなかった。羊は恐ろしい速力を示した。
ふたつの聖遺物:〈ローズ・アブソリュート〉と〈ハンズ・オブ・グローリー〉、そしてシオンの全重量を合わせて仮に六十ギロスと見積もろう。
それがいま、新たな荷重としてかかっているとしても、競走馬の血筋であるヴィトライオンの脚についてくるなど、ただの羊ではありえない。
それについて褒めると、
「脚長羊だっ」
となぜか自慢げにイズマが胸を張った。
騎手はイマイチだが、とシオンがささやいた。
「あの体毛は夢見心地だ。すばらしいぞ」
いつのまにか自然体に笑えている自分を発見してアシュレは驚いた。
ユーニスの無事を信じられるようになっていた。
「どうして、同道してくれるんですか」
馬を疾駆させたまま、アシュレはシオンに訊いた。
耳朶に身を寄せると自然に睦言を交わしているような姿勢になってしまう。イズマの視線が刺さるようだった。
「事情はそなただけにあるのではない」
だから気にすることはない、とシオンは言った。
アシュレが納得できない様子でいると、
「オーバーロードのひとりと痛み分けたと言っただろう」
と返答がある。
それでアシュレは合点した。
なぜ〈ローズ・アブソリュート〉が荊の茂みに変じていたのか。
だが、続くセリフは、さらなる謎と衝撃をアシュレに与えた。
「奴、グランとわたしには因縁がある、ということさ。……責任もな」
風にさらわれそうなセリフをアシュレがかろうじて拾い集めた時、イズマが警告を発した。
「姫、いちゃついてる場合じゃありませんよッ」
「いちゃついてなぞおらんッ」
「ムキになるところが怪しいッ」
「じゃあ、いちゃついてやろう」
シオンがアシュレの首筋に頭を埋めた。
うっとりと目を閉じ挑発的な表情をする。
イズマに対するゼスチャーだと信じたいアシュレである。
その様子を見るにつけ、声にならぬ気炎を吹き上げイズマが西を指さした。
ゆるせーん、と吠え哮り、
「そーではなくッ! あれはなんか燃えてませんかッ。いや、いいーんですけどねッ、イズマ的には。ヒトの村だか町だか燃えようと、かんけーねーしッ」
裏切りに満ちた世界を生きているらしいイズマの指さす方角を見れば、たしかに炎が上がっていた。垂れ込めた黒雲に松明のように燃え盛るのは、人家に違いない。
群がる亡者たちが見えた。木々を組み合わせた防壁に火が回っている。
アシュレは馬を止めた。岐路だった。
「どうします? 聖騎士?」
イズマ的には見なかったフリをオススメッ。ユーニスちゃんの救出が大事。
こともなげにイズマが言った。
「時には非情になれることが、よい王様の条件のひとつデスヨネ」
その点、イズマはカンペキッ、とよくわからない論理で自分を持ち上げる。
ぎりっ、とアシュレの歯が鳴った。
風の泣く音が悲鳴のように聞こえた。
「イズマの言うことは一理ある。だが、非情の王が滅ぼしてしまった国家もまた数限りない。なにが最善かは、だれにもわからん」
うつむいて、目を細めながらシオンは言った。手綱を握るのがそなたである以上、決めるのもそなただ、と。
アシュレは一瞬目を閉じ、それから言い切った。
「助けよう」
ヒトは与えてもらったものしか、だれかに与えることはできない。そうだったよね? アシュレはシオンに向かって言った。
「ここで人命を見捨てるような人間が、だれかを助けられるとは信じられない」
続く言葉の厳しさとは正反対に、輝くような表情でシオンがアシュレを見上げた。
「間に合わなくなるやも、だぞ」
「間に合わせてみせる」
そう言い切ったアシュレに、しかし、なぜだか、こんどはシオンの表情が曇った。
どうしてこんなにも切ない表情をするのだろう、とアシュレは思う。
もしかすると、自分が伝えた言葉がアシュレとユーニスの運命を変えてしまったのではないか、とそうシオンが思い至っていたのだと、アシュレが気がつくのは後のことだ。
だが、次の瞬間には、シオンはその暗雲を表情から退け、冷静沈着な夜魔の姫としての顔となる。
「武装を降ろす。イズマ、席を空けろ」
手早く〈ローズ・アブソリュート〉を降ろしながらシオンは乗騎を移る旨を伝えた。
「やたっ、ついに姫の胸が密着ライドッ。未熟なカンジがいいカンジッ」
「当たらんように気をつけろ。人外にはすべからく毒だからな、この刃は」
首筋を巻き布された刃がかすめて、イズマはごくり、と唾を飲んだ。
「乱戦で一番危ないのはなんだ?」
「み、みかたの刃と鏃ですっ」
「わかっていればよい。それから……なぜ貴様わたしの胸が未熟だと知っている?」
「いや、それは、その、そうあって欲しいという希望的、観測的というかなんというか」
夢? どうやっても自ら墓穴を掘る特技が唸りを上げてしまう男のようだった。
「アシュレ、あとでそなたの想い人と比べてどうか、見てくれぬか?」
イズマの焦りを煽るためだろう、シオンがひときわ過激な申し出をした。
黒衣に包まれた胸に手をやり、カタチはよいと思うのだが、と悪戯っぽく笑う。
いけません、そんなの姫ッ、とわめくイズマの脳天に装甲されたシオンの拳が落ちた。
「いかんのは貴様のおつむのほうだッ」
アシュレは笑った。
これから命を賭けたやりとりをするのだというのに、彼らには余計な力みがどこにもない。
幾度も死地を潜り抜けてきた歴戦の勇士、その心胆の強さをまざまざと見せつけられた思いがする。
「では、先鋒はボクが。敵陣を駆け抜けます。後詰めを」
「任せるがよい。よいかイズマ、怯えて進路を変えるな。正面突撃だ」
「ひ、ひいいい」
歓喜か、恐怖か判然としない悲鳴を背後に聞きながらアシュレは愛馬の腹を蹴った。
兜の面頬を下ろす。
騎士の仕事の始まりだった。