■第十九夜:人魚姫の記憶(1)
※
法王庁特使側にとっての作戦司令室となった旅籠の特等室に入るなり、ジゼルがもたれかかってきた。
ラーンは慌ててその身体を抱き止める。
「大丈夫かね」
「いきなり、撃たれてしまったようです。《シスターズ・オブ・ピスケス》――忍ばせていた分身のうちの一体を失いました」
「ひどいな。顔色が真っ青だ」
ラーンの指摘通り、ジゼルの顔色は蒼白で、ショック性のものだろう痙攣に全身が震えている。
ばら色の唇が赤い口紅の下で青く変色しているのがうかがえた。
探索に放った分身のうちの一体が、アシュレの放った《ラス・オブ・サンダードレイクズ》が起こした水蒸気爆発に巻き込まれたのだ。
浜辺を目指す奇妙な小舟の集団をジゼルの分身は発見し、追跡し、上陸地点を特定した。
その強襲揚陸スタイルから、その小集団が夜魔の襲来であることも、ジゼルには予想がついたし、事実、そうであることを目視確認した。
その直後のことである。
一万度を優に超える超高温の粒子が、ジゼルと意識・感覚を共有する《シスターズ・オブ・ピスケス》が潜む海面を直撃したのだ。
ジゼルの使う《シスターズ・オブ・ピスケス》に限らず、使い魔や分身を作り出すタイプの異能は恐ろしく強力だが、同時に意識や感覚を共有する分身が損壊したとき被るショックやダメージが、その意識・感覚共有の精度に比例するという特徴を持つ。
水を媒体とするジゼルの《シスターズ・オブ・ピスケス》は、それらの異能のなかでも情報収集に特化した、特に高精度・高感度なものである。
それを三体、同時に繰ることのできるジゼルの才能こそまさに特筆すべきものであったが、それは同時に喪失時に被るダメージの高さを示してもいた。
生きながらにして瞬時に沸騰する海水によって、肉体の内外から蒸し焼きにされる恐怖と痛み。
並みの能力者なら、ショック死さえありうる事態だったはずだ。
気絶で済めば、たいしたものだと言えただろう。
それをジゼルは、会食の場面で殺し切って見せた。
ワインをこぼしただけ、たったそれだけで。
笑みを絶やさず、淑女としての振る舞いを演じ切って見せた。
凄まじい精神力だとラーンは思う。
ちなみに、ジゼルの《シスターズ・オブ・ピスケス》は伝説の人魚姫そっくりの姿形をしている。
「教授、苦しい、です」
「胸元を緩めるよ? いいかね」
ラーンはジゼルの了解を待たず、ジゼルの胸元と腹部を締めつけるコルセットを緩めていった。
鋼鉄の補強が入ったコルセットは、言うなれば社交界という戦場にご婦人方が赴くための戦闘用重甲冑だ。
全身をこんな拘束具で固めたまま、並みの能力者では一体でも精一杯な《シスターズ・オブ・ピスケス》の制御、統御を並列処理で進行させてみせるジゼルの力量には、ラーンと言えど感嘆するほかない。
だからこそ、反動も凄まじいものとなる。
馴れた手つきでラーンはジゼルを解きほぐしていった。
ジゼルの肉体は冷たい汗に濡れそぼっている。
「寒くないかね?」
ラーンはささやくように聞いた。
こくり、と震えながらジゼルは頷いた。
「脱がすよ」
濡れて貼り付く冷たい衣服を剥ぎ取れば、成熟した女の肉体があらわになった。
ラーンは乾いた柔らかいタオルで、その肉体を拭いてやる。
ジゼルの肉体は冷えきり、突端は硬く尖っていた。
「なにを視たのかね?」
女の体をいたわる運指とは裏腹に、ラーンは冷静に訊いた。
男ならば誰しもめまいを覚えるような絢爛な美を前にしてさえ、ラーンという男は小揺るぎもしないのだ。
聖務を遂行する。
その《意志》がヒトのカタチに凝って、地に降り立ったかのような存在。
それがラーンベルト・スカナベツキという男だった。
「夜魔の、群れ。棺桶のカタチをした船団――閃光と爆発……を」
「竜槍――〈シヴニール〉かい?」
ラーンの問い掛けに言葉を紡ごうとして、ジゼルが弱々しく首を振って見せた。
とても言葉だけでは伝えきれない、という仕草。
かわりに両手がラーンを導くように差し出された。
繋がってください、の合図だ。
直接、わたしのなかを覗いてください、というサインだ。
ラーンとジゼルの関係は、ジゼルが聖堂騎士団に入団を果たした頃まで遡る。
その当時、従士隊に入団したジゼルはすでに《スピンドル》能力者としての覚醒を果たし、またその血筋も名家の出とあって将来を嘱望されていた。
ただ、その素行にはさまざまな問題があり、特に座学・講義をおろそかにする傾向が指摘されていた。
実際、ラーンの受け持つ神智学、歴史、練金学のうち、神智学、歴史では落第すれすれの成績を特別講義で補わなければならなかったほどだ。
総じて座学関連の講師たちからの評判はすこぶる悪かった。
テストの結果が悪いのではない。
むしろ、満点か、限りなくそれに近い状態であることが常だった。
問題は、素行と口述試問だ。
授業をおろそかにしておきながら、その頭脳は怜悧、教養は広く深く、一度口を開けば舌鋒鋭い。
試問では逆に試験官をやり込めてしまう――くだらないことに時間を裂いているヒマなどない、という態度で。
歯に衣を着せぬ淡々とした調子で一刀両断、相手の退路まで断ってしまう始末。
それが倫理・道徳に厳しい聖堂騎士団教官たちの勘に障るというのも、やがて聖騎士に登用される可能性のある騎士団の下部組織と考えれば、当然の話だった。
聖職者に求められる徳のひとつに「上位者に対する服従」というものがある。
それがジゼルにはない。
敬意が足らない、というのだ。
だが、実験や応用実践で見せるジゼルの鋭い観察力、記憶力、洞察力をラーンだけは見逃さなかった。
さらに行動力と、異性を魅了してやまない魅力で、物事の中心になる才能がジゼルにはあったのだ。
そして、興味の向く事象に対しては、驚くべき忍耐力を発揮することも。
そんなこともあってか、なにかと目をかけるようになったラーンに、ジゼルは懐いてしまった。
いつそれが、好意から恋愛感情に発展したのかはわからないのだが。
恋文が送られてくるようになった。
ありえない、とラーンは取りあわなかった。
少女にありがちな恋に恋する恋愛のあり方だと捨て置いた。
時間が解決するだろうと考えたのである。
ジゼルがすでにバラージェ家の御曹司との婚約を結んでいることは周知の事実だったし、火遊びなら成熟した人妻相手のほうが後腐れないことを、ラーンはよくわきまえてもいた。
当然、恋文に返事を書こうともせず、そして、ジゼルのほうも面と向かって相対したとき、そのような素振りを持ち出したりはしなかった。
だが、恋文だけは毎月、一、二通必ず届いた。
それは座学のレポートに擬態していた。
暗号のカタチをとっていたのである。
たぶん、ラーン以外では気づきもしないだろう方法で――それは考え抜かれた恋文だった。
小癪で生意気な。
けれども、秘密を守るには最適のやりかただ。
だから、ラーンは気づかぬフリを押し通すこともできたのであるし、だから“教授”と“生徒”という関係を続けてこれたのである。
相手を追い詰めすぎない、しらを切り通せる余地を残しておくジゼルのやり方は、なるほど、政治的配慮に満ちており、それゆえ逆に法王庁内での政争に身を置くラーンに対しては「評価対象になる」のだという計算まで感じられた。
こんな手間と配慮を考える力があるのではないか。
うわべだけでも素行を正していれば、おそらくトップクラスの成績を叩き出せるだろうジゼルに――ラーンは苦笑したものだ。
そんな矢先に、ジゼルは不祥事を起した。
暴力沙汰だった。
ジゼルの出自と男子生徒からの人気をやっかんだ女生徒数名が、その素行不良をネタにしつこくジゼルをからかったらしい。
ジゼルはしかし、暴力には訴えなかった。
かわりに、言葉に訴えた。
ジゼルを中傷した女生徒たちをひとりひとり指さし、彼女たちがひた隠しにしたきた秘密――まあ、多くは性的な――を白日の下にさらしてのけたのだ。
それも、もはや独創的にして天才的としかいいようのない修飾――罵詈雑言を駆使して。
例の淡々とした口調で。
だから、暴力に打って出たのは取り囲んだ女生徒たちのほうだった。
だが、これさえもジゼルは鎧袖一触に蹴散らしてしまう。
指導教官が問題の起きた食堂に駆けつけたとき、ジゼルを取り囲んでいた女生徒たちは仲良く床に転がり、気絶していたそうだ。
いや、それだけならまだ情状酌量の余地があったかもしれなかった。
だが、よりにもよって指導教官は座学関係のそれも女性――ジゼルに日頃からあまりよい感情を抱いていない尼僧だった。
頭ごなしにその場でジゼルを叱りつけた。
四半刻ばかり、ジゼルは黙って尼僧の長い説教を聞いていたらしい。
だが、ややヒステリックめいた尼僧の説教が一息ついた瞬間に、やり返した。
クラスメイトたちを逆上させた、例の舌鋒で。
口は禍の門、とは先人というのは良いことを言う。
ラーンは思う。
危うくジゼルは退団を言い渡される直前まで行った。
ところが、その事件の現場にはラーンがいた。
眼前で始まってしまった騒ぎから逃れるように柱の影に移動して、愛読書とともに茶を啜っていたのだが、あまりの事態の進展に厄介事はごめんとばかりに逃げ出そうとしたところを見つかり、姿を現したのだ。
しぶしぶという態度とは裏腹に明解かつ明晰な口調で、私見を交えず、しかし一語一句に至るまで違えずやりとりを再現して見せるラーンによって、ジゼルの正当性が立証された。
もちろん、女生徒たちの秘密、尼僧の秘密についてはうまくぼかし、根も葉もない作り話だと弁護しておいた。
それでもジゼルは謹慎処分となった。
一月にもわたるそれは普通の従士であったら、もはや学業についていけなくなるほどの時間だ。
処分を受け寮の自室に戻るジゼルに、ラーンは訊いた。
どうやって、彼女たちの「秘密」を暴いたのか、と。
簡単だったから、とジゼルは答えた。
受け答えとしては、筋がおかしいが、ラーンには意味が理解できた。
ジゼルのたぐいまれな資質にラーンが気がついたのは、その時である。
同時に、ジゼルに足りていないものを、いまのうちに誰かが教えなければ、いずれとんでもない事件が引き起こされるに違いないと確信した。
だが、そんな面倒な役目を負うのは、まっぴらゴメンだった。
自分の人生は聖遺物の発掘と管理・研究、そして人妻とのアバンチュールに費やされるべきだという確固たる信念がラーンにはあった。
ところが、翌日、定例の枢機卿団会議で法王からこの問題の処理に当たるよう勅詔(直接の命令のこと)を受けてしまった。
否も応もない。
法王からの名指しとなれば、ラーンに拒否権などない。
原因は、あの座学の尼僧だった。
ジゼルを庇ったラーンに、すこしでも厄介事をなすりつけようと彼女なりに画策したのだろう。
つまらない話に、つまらない結末だ。
ラーンは肩をすくめた。
それ以降、毎晩、夕食後、談話室での「倫理・道徳」の講習が行われた。
ジゼルは正当な理由なく一度でも講習をサボタージュした場合、即退団。
ラーンは法王本人からの名指しで、得意どころかもっとも不得手な科目の講師。
うまくいくはずがなかった。
だいたい、倫理や道徳というものは座って習得するものではない。
そこでラーンはそうそうに講話・説教を諦めた。
教本を投げ出し、ジゼルの話を聞くことに終始したのである。
素行不良というものは、本来、だれかに言葉で伝達できれば表出せずに済ませられるものが、それが叶わず、集団の規律を乱す行動となってで現れたものだ――そのように、ラーンは理解していたのである。
驚くことに、これは恐るべき効果をあげた。
ラーンがただ話を聞くだけで、数日おきに行われる口頭試問においての、ジゼルの素行は驚くほどよくなっていった。
穏やかな口調で、試験官への敬意を忘れぬ態度、それでいて解答は素晴らしい出来栄えで、それは全教官が認めざるをえない完成度を持っていた。
ただ、当のラーンだけは言い知れぬ不安に、襲われていた。
これは、なにか巨大な災厄の前兆なのではないか、と。
それは毎夜、交される会話のなかからも感じ取れた。
たとえば、この状況の発端となった事件に話題が及んだ時のことだ。
どうして、あのとき、女生徒や教師である尼僧の秘密を言い当てることができたのか。
ラーンがふたたび、そう問いかけたときのことだ。
「知りたい――ですか?」
それまで、ぽつりぽつりと、自分の胸のうちを語るだけだったジゼルが、わずかに感情的な動きを見せた。
ほんの少し口調が速くなるとか、視線が動くとか――その程度のものだったが、ずば抜けた観察力と洞察力を持つラーンには、それで充分だった。
なぜ、あのようなことが可能だったのかとはじめて問うたとき、ジゼルは「簡単だったから」とそう答えた。
じつにそっけなく。
それなのに、なぜ、いま、このとき、たまたま気まぐれのように投げた質問に対して、ジゼルはこのような反応を見せたのか?
それは、ラーンの質問の意図が「どうして秘密を知りえたのか、それを聞き出し再発を防ごうとしたこと」ではなく「ジゼル本人の秘密への興味」へとシフトしていたからなのだと、ラーンは後になって気がつく。
端的に言えば、ラーンの興味がジゼルに向いたから、だと。
「聞きたい、ですか?」
ジゼルがわずかに急くような調子で、もう一度、訊いた。
「聞きたいね」
「どうしても?」
「どうしても」
講堂の一番前の席に座るジゼルに対し、ラーンはすでに教壇があるステージの端に腰掛け、自らの膝に肘をつく格好で話を聞いていたのだが、少し姿勢を変えて言い直した。
「“教授”がどうしてもというなら、しかたないか」
独り言のようにそういうジゼルの頬が、心なしか赤らんでいたようにラーンは記憶している。
うん、とラーンは頷いた。
「わたしは――水を通じて接触した対象のことを調べ上げることができる」
そして、ジゼルの告白を聞いた瞬間、動揺のあまり頬杖が外れて、壇上から転げ落ちそうになった。
「なん、だって?」
「調べ上げることができる、と言ったんです。たとえば食器を濯ぐとき、あるいは洗面時、たとえば洗濯の時、もっとも効果的なのは入浴時――そこに触れてさえいれば」
「それは――異能かい?」
「?――わたしには、これが普通ですが」
「!」
今度こそ、ラーンは自ら転げ落ちるまえに飛び降りていた。
異能力者――いや、たしかにこの当時、ジゼルはすでに《スピンドル》能力者としての開花を見せていた。
身分は従士だが、すでに特別カリキュラムでその制御について学んでいる。
このまま素行が改善されれば、おそらく、次の選抜試験で聖堂騎士団入りを果たしてしまうだろう。
だが、《スピンドル》は通常、開花しただけではうまく使いこなせない才能だ。
制御と統御、そして伝導バイパスを指導と反復と理解によって時間をかけて太くし、ようやく実戦使用に耐えるまでに成長する《ちから》だ。
だから、どれほど才能に溢れた者であっても聖騎士に叙任されるには、その前段階の聖堂騎士時代での教練にひたすら時間を費やし、反復によって基礎を培わなければならない。
そうでなければ、いかに《スピンドル》の発現を見たからといって異能を発動することも、制御することもおぼつかない。
学習を怠れば、手痛い代償を支払うハメになる。
特別な異能の行使には、《フォーカス》の助けも必須となる。
まだその教練を受けて一年にも満たないジゼルの発言は、それを覆すものであり、ラーンの驚愕は当然だった。
「《フォーカス》もなしに、かね?」
「いくら、オーベルニュが名家とはいえ、従士に《フォーカス》を持たせるようなマネはしません」
ジゼルのあくまで淡々とした口調のなかに宿る熱を感じながら、ラーンは唸った。
「ヒトの記憶を、読む、とキミは言うのか?」
「正確には、水に記憶されたものを、と言うべき。それに、読むというようなはっきりとした物語性、連続性はありません。あくまで、香りのようなもの」
ふむん、とラーンはふたたび唸る。
やはり《フォーカス》という焦点具なしには、いかに刮目すべき特異な才能とはいえ、そのあたりが限界なのだろう。
しかし、とラーンは思うのだ。
その程度であっても、水を媒介に記憶や記録を感じ取る能力は、使い手の高い知性と結びつけば、あっというまに決定的な切り札となる。
きっかけとはいえ事実なのだから、カマのかけかたによっては簡単に相手を追いつめることができるだろう。
他者に知られたくない隠しごとのひとつやふたつ、人間だれしも持っているものだ。
そこを突けば、清廉潔白と謳われる人格者も、堅固に見える人間関係も、簡単に破綻する。
危険だ、とラーンの理性が告げていた。
この娘は、その異能は――危険すぎる。
だが、ジゼルの言葉を聞くうち、ラーンは深入りしてしまうのだ。
ずくずくと心中で疼くもの――よくないクセだ、とラーンは思う。
けれども、問わずにはいられない。
「“教授”、わたしの能力は、どちらかといえば“目で視る”よりも“耳で聴く”とか“鼻で嗅ぐ”に近いととらえてもらえれば、より正確です。無意識的なところがある。耳にも、鼻にも、まぶたはない。そういう感じ」
「! 自分で選択できないのかい?」
「だけど、どういうきっかけで、それが“感じられる”のか、わたしにはわからない」
曖昧にジゼルは笑う。
ラーンはそこに陰りを見出してしまった。
破裂寸前まで水を詰められた皮袋――なぜかそんなヴィジョンを幻視する。
「正直、重たいときが、ある。こんな能力なら、いらなかった。みんなが持っているものだと思っていたから。そう思えばこそ、我慢できていたのかも」
その虚ろな笑みに、ラーンは首筋が総毛立つのを感じた。
ひとつは、恐怖で。
もうひとつは――いまはもうはっきりわかる――好奇心で。
いったい、ジゼルはいつ、自分の才能の異質さに気がついたのだろう。
考えはじめると、震えがくるような寒気と、それゆえに意識される心臓の拍動の熱さをラーンは覚えるのだった。
そして、ラーンの沈黙が内心に巻き起こった葛藤からのものだと理解しのだろうか。
ジゼルは大理石の床にこぼしてしまったワインを拭きとるように、その虚ろな笑みを拭い去った。
冷静沈着な、いつものジゼルに戻って訊いた。
「怖いんですか? わたしが」
どこか挑むような調子で、ジゼルは言った。
試されている、とラーンはその意味を感じとる。
だが、ジゼルの挑発的な物言いに不快感など感じない。
逆にそういう部分に興味を覚えてしまうのが、ラーンという男の性であったのだ。
「つらいのかね?」
だから同じく挑発するように、切り返した。
くすり、とジゼルが笑った。
ラーンの心が本当に動いたことを――ジゼルに興味が湧いたことを――敏感に察知した、そういう表情だった。
こんな表情をするものなのか、とラーンはその微笑みを見て、内心驚いていた。
それほどに快活な、あの不穏な陰りなどどこにもない、それは笑顔だった。
「正直、どこまで行けるのか、行けるところまで行って試してみたいって気持ちは、ある。この世に隠された秘密があるなら、暴き切ってみたいという心の動き――“教授”なら理解してもらえますよね?」
だれにも、こんなこと話したことないのに、ふしぎ。
そう言ってまた、ジゼルは笑うのだ。
これは、ジゼルの本心だ。
ラーンはそう確信する。
それを聞いて欲しくて、ラーンを試し、プライドや好奇心を焚きつけて、深入りさせようしているのだ。
自らの秘密を釣り餌にする、危険な極まりない賭け。
下手に露見すれば、どんな処罰が待っているかわからぬ、それをちらりちらりと垣間見せて、その代償に得たいものは「話を聞いてくれる、だれか」なのだ。
その相手とは他ならぬラーンだ。
そして、その相手であるラーンとの時間を確保するためだけに「ジゼルはおとなしく振る舞うようにしている」のだと、その素行の改善に目を見張る人々は思いもよらないだろう。
危険だ、とふたたび、ラーンは思った。
道徳や倫理といった概念――社会理念を醸成・教育する、などというような悠長なことを言っている場合ではないと確信した。
だれもジゼルが駿馬などではなく、国ひとつ火の海に沈めかねない火竜の幼生だと気づいていないのだ。
だれかが死を覚悟でその背に跨がり、御さなければ巨大な災厄が育ってしまうと気がついていないのだ。
醜聞――いや、法王庁がひた隠しにしてきたこの世界の暗部という炎を、吐息にして吹き散らす最悪の邪竜の存在に。
いや、とラーンは己の聡明すぎる頭脳、先見性――想像力を呪いながら、ひとつの仮説に突き当たった。
バラージェ家当主:グレスナウは、それを見越してひとり息子とジゼルの婚姻を進めたのではないか?
このとんでもないお嬢様の騎手として、自らの息子の将来性に賭けたのではないか?
バラージェ家とラーンには、親密というほどではないが繋がりがあった。
女の子とみまごうような美貌と、柔和で温和な性格を兼ね備えたバラージェ家の御曹司が、その内側にしっかりとした価値観と《意志》を育みつつあることは、ラーンには数時間、会話をすればわかったことだ。
たしかに、彼ならば、いずれこの怪物を御しきれるかもしれない、と感じた。
だが、『いずれ』では、間に合わない、とラーンは思った。
為政者、権力者としてヒトを御すには――優しさや、誠実さ、倫理や道徳、論理的で筋の通った説得だけでは片手落ちだ。
そこに必要なのは、暴力的な、あるいは時には実際の暴力に訴えかける冷酷さ、非情さ、苛烈さが必要なのだ。
それを、あの御曹司が学び取るには、まだ時間がかかる。
いまはまだ、己が必ず相対することになる厳しい現実や逆境に抗するための土壌を培っている最中――人品の豊かさを育んでいる最中なのだ。
聖職者ゆえに子を設けたことのないラーンは、だからこそ、このとき、聖騎士:グレスナウという男に戦慄にも似た感情を憶えたのだ。
自らのひとり息子に、この恐ろしいバケモノを伴侶としてあえてあてがおうという峻厳な、あるいは冷酷な《意志》に。
しかし、その試み、目論見は数年の誤差によって瓦解するようにラーンには思えた。
ジゼルの内側で萌芽し、急速に育ちつつある“なにか”は、グレスナウの読みを大きく上回って成長しようとしていたのだ。
けれども、それに気がついたからといって、だれが、この怪物の背に跨がろうというのか?
それは自ら燃え盛る火刑台に駆け登ろうとする愚行にそっくりだった。
いや、とラーンは思う。
このジゼルという娘は、わざと私の前で、そのことをほのめかしているのだ。
淑女のドレスの下に隠されたバケモノの尾を、ちらちらと、しかし目にとまるように見せて。
女心は謎かけに似たり、とはだれの言葉だったか。
危険なものほど、えてして、ヒトを惹きつける。
焔が、その顕著な例だ。
その輝きに近づき、一体になりたいと望めば、すなわち身を焼かれると知りながらも、手を伸ばしてしまうもののように。
なるほど、とラーンは思う。
おもしろい、と感じている。
どうやって、この怪物としての本性を隠した娘にを手綱をかけるか――じゃじゃ馬ならしの方法を、考えはじめている己の不謹慎さに笑う。
そうやって危険な個人授業は続いていく。
綱渡りのような会話のなかで、ラーンはジゼルなかに溜め込まれた暴発寸前の《ちから》のありように、惹かれていく。
周囲の空気が醸成したなにかが、ジゼルのなかに吹き込まれて出来た、怪物の姿に好奇心を揺さぶられた。
いや、言い換えてもよい。
愛でるようになっていたのだ、と。
ジゼルがその冷徹な仮面の下から覗かせる、暗さと、熱さを。
思えばこのとき、すでにふたりの運命は重なっていたのだ。
そして、運命はいつでもきっかけを待っているものだ。
諸事情により挿絵のUPは、後日とさせて頂きます。
しばらくお待ちいただければ、さいわいです。
2015/08/29記
挿絵UPいたしました。
2015/09/06記




