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■第六五夜:生き餌




 アシュレはアストラの衣装に指を伸ばした。


 もはや虚飾でしかないティアラ様の兜と胴鎧、勲章をちりばめられた軍服を力づくで剥ぎ取れば、アストラ本来の精神の在り方を具現化したというべき、清楚な装いが姿を現した。


 白いシルクのブラウスに、濃紺のフレアスカート。

 聖堂騎士時代のアシュレであれば、触れるのさえためらいを覚えたであろう侵し難き姿がそこにはあった。


 けれどもその聖域は、いまやその内側から食い破られようとしている。

 恐怖と、それが引き起こす狂気とによって。


 アシュレは、狂気に犯され陸に打ち上げられた魚のように跳ね回るアストラを押さえつけると、その唇を強引に奪う。


 両手両脚はすでに拘束済みだったが、それを自らの目的に合わせて仕立て直した。


「な、あむっ。あ──アシュレ……なに、なに、なに」


 恐怖に濁っていたアストラの瞳に、かすかにだが理性の光が戻ったのはこのときだった。

 アシュレはこの期を逃さず語りかけた。


「アストラ、オレだアシュレダウだ」

「アシュレ、アシュレダウ……わたし、わたしはどうしてどうなって、あ、ああアアアアアッ!」


 彼女のなかで理性と記憶の再現とが争っているのだろう。

 正常に戻りかけたアストラが、また上から押さえつけられ無理やり水面に沈められるように、狂気の側に落ち込みかける。

 

「アストラッ! アストラしっかりしろ!」

「アシュレ、アシュレダウ、こわいこわい、わたしはアストラはどうなるんだどうなってしまっているんだ!? なんで、なんでこんな体中が、蟲に這い回られているみたいに痛いおぞましい、壊れるこわい」

「オマエはいま眠らぬ悪夢どもの見せる悪い夢に囚われかけている」

「悪い夢、あれは夢なのか、いいや夢であるはずが、ああ、なアアア」

「だがそれはどうでもいい。オレはただ、オマエを奴らに渡したくない。奴らの思惑の通りにはさせない。なにより、」


 なにより──オマエを陥れようとした真祖:スカルベリの、

 

 と、そこまで言いかけてアシュレは途中で言葉を切った。

 アストラが、アシュレの想いを代弁するかように台詞を奪い、父を呼んだからだ。


「陛下、父上、スカルベリ──我が君、どうして、どうしてわたしを、アストラをお見捨てになられたのですか。わたしがアストラが代わりの子だからですか。なぜなぜ、なぜにこれほどにも恐ろしい場所にわたしを放り込んだのですか、こんなこんなこんな!」


 わたしは、わたくしはやっぱり、いらない子だったのですか。


 一瞬、正気の側に帰ってきたのかの思わせるような口ぶりだった。

 だがそれは、より一層深く破滅の縁へと沈没してゆく予兆でしかなかった。

 深く潜ろうとする漁師が、一瞬水面に伸び上がり、勢いをつけるかのように。


 もはや声にならない叫びを上げて、アストラの肉体が跳ねた。

 悪霊にでも取り憑かれたかのように、すでに四肢の自由を奪われたはずの華奢な肢体が痙攣して跳ね回り、弓なりに反る。

 皮膚のそここが大蛇の鱗めいて捲れ、その下で夜魔の本性が蠕動ぜんどうするのが見える。


 一刻の猶予もないとアシュレは判断した。

 アストラの色素の薄い頭髪を掴む。

 強引に自分のほうに引き寄せ、正対させた。


 一瞬の躊躇ちゅうちょもなく、思い知らせねばならんと決意した。


「オマエを抱く」

「なに? なにを言っているアシュレダウ、なにをしようというのだ? いやだこわい」

「さっきも言った。同じことを言わせるな。オマエを奴らのものにはさせない」

「でも、でも、わたしはアストラはいらない子だ。それに抱くとは、どういうことだ」

「言葉の通りだ。そして有用・不要はオマエの定めるところではない」

「でも、でも、でも──わたしは捨てられたんだぞ、陛下にさえ。つまり無価値だ。それを、それを、欲する者などいようハズがない!」 

「だれから捨てられようと関係ない。欲しているのはオレなのだ」

「そうかわかったぞ、憐れみかアシュレダウ! 貴様に、なにがわかる! わたしがいままでどんな想いで──どうしてここにきたのか!」

「それも関係がない」

「貴様、アシュレッ!」


 錯乱しながらも牙を剥き出し警告するアストラの、その灰色の瞳を覗き込んでアシュレは宣告した。


「オマエを抱く。愛しているからかどうかは……わからない。だが、奴らの思惑通りにオマエをさせない。そのことに関してだけは、オレの意志ははっきりしている」

「抱く……欲して抱くとは……どうするつもりだ。どういう意味だ。そなたまさか」

「そのまさかだ」


 オマエを手折る。


 それまでどこか宙を見るようだったアストラの瞳が、ゆっくりと焦点を結んでいくのがわかった。

 数秒の沈黙。


「そなた、馬鹿、愚か者!」


 夜魔の大公の娘を手折るというのが、なにを意味するのか。

 アストラは溺れかけていた狂気の濁流から、必死に浮かび上がり叫んだ。


「死よりもおぞましい運命が、そなたを待つのだぞッ!! そんなことが露見したなら、ただでは済まん。生きたまま腑分けされ、干物のように吊るされたいかッ!?」


 スカルベリが得意としたという生けるタペストリーの刑を仄めかして、アストラが警告する。

 自分のことを無価値と断じたその口が、アシュレに思い止まるように諭す。


 それが彼女自身の純潔を失うまいとする怖れからくるものか、アシュレの身を案じてのものかはついにわからなかったが、ただひとつだけそれが狂気を一時的にせよ凌駕するほどに強い感情なのだということだけはわかった。


 アシュレは微笑んでかぶりを振った。


「ここでオマエを失うよりずっといい」

「〜〜〜この、ばか、大馬鹿者ッ! わたしなんかに、もう意味などない。捨てられたただの要らない子なのに、それなのに────」 

「要るか要らないかは、オレが決める」

「ああ、ああああああっ、まてまってくれアシュレッ」

 

 言葉を行動で捩じ伏せ、アシュレは行為に及んだ。

 万力のごとき力をもって、跳ね回るアストラの肉体を押さえ込みながら、ゆっくりとまるで儀式のように、アストラの裸身を覆う城壁を、一枚一枚丁寧に剥ぎ取っていく。


 当のアストラは、千々に乱れる心を抑え切れないようだった。

 恐怖とそれが呼び起こす狂気の発作は続いている。

 けれども、それと同時にアシュレから求められているという現実が、アストラの心に強烈に作用した。


 はっ、はっ、と荒い呼吸とは裏腹に、その肉体がわずかに安定を取り戻す。

 アシュレはアストラの着衣に手をかけた。


 しばらくして、水晶の瓶に収められた発光体の放つ光が、アストラの肌を完全な暗闇のなかに浮かび上がらせた。

 観念したように、あるいは精一杯の合意を示すかのように、アストラが瞳を閉じる。


 すこし前まで想像だにしなかった、求婚にも似た決死の想いに胸を貫かれて。


「これは──」

 

 だが、アストラの肌を前にしてアシュレの口から漏れたうめきは、その純白のはだえが生み出す複雑な陰影の美しさに対するものではなかった。


 信じられないもの、あってはならぬものが、そこには隠れ潜んでいた。

 まさかと怖れ、もしやと疑ったその証拠が、器物の姿を取ってそこにはあったのだ。


 記章インシグニアの群れ。


 それもいくつもの家の紋章が刻まれた雑多で歪な群体が、染みひとつない剥き身の卵のごとき純白の世界のそこここを、侵略していた。

  

「そういうことか」


 やはり、という続く言葉を噛み殺しアシュレは唸った。

 この娘はすでに一度、いや幾度も悪夢どもに敗れ、組み伏せられ玩ばれてきた存在だ。


 腹の底から瞬間最大風速的に湧き上がってきた激情を押さえ込みながら、アシュレはアストラを蝕み続ける記章インシグニアどもを睨みつけた。


 純白の肌に半ば潜り込み、あるいは陰りに潜んで、いまなおアストラを辱め続ける魔具どもは、アシュレによって白日の下に晒され、また敵視を受けたことを恨むように身じろぎし、キィキィと不満げ鳴いてみせた。


 ああっ、とアストラが恐怖のうめきを上げ、ふたたびその肉体を踊らせたのは直後だ。


 アシュレがアストラを手折り、それによって正気の側へと彼女を連れ戻そうとする試みに対し、これを阻むがごとき動きを記章インシグニアたちは見せたのだ。


 これによってアストラの身に振るわれた記章インシグニアたちの正体が、悪夢どもの持ち物であることがハッキリとした。


 この悪夢の手下どもは、対象の強烈な心の傷に触れるような場面だけでなく、犠牲者をそこから回復させるような働き、たとえば愛の告白などをを鍵として、過去その身に加えられた凄惨な陵辱の数々を、その場で即時にそっくりそのまま再現してみせるのであろう。


 たとえばまずをもって、“子負い”の姿を目の当たりにしたアストラは、その再現によって、かつて自らが受けた拷問の手管の数々を再現された。


 さらにそこから逃れたあとも、彼女を救おうと試みるアシュレの呼びかけに対して、記章インシグニアどもは悪意を剥き出しにし、アストラを追いつめた。


 そう──記章インシグニアたちは、彼女がだれのものであるか、忘れられないように振る舞うのだ。


 だから、アシュレがいかに呼びかけて、いっときの改善を見ようとも、すぐにアストラの容体は悪化して悪夢の側に落ちてしまう。


 だがたとえそうだとしても、ひときわ奇妙なことがあった。

 そう、アストラには自身を見舞う悲劇の原因がまったく認識できていないのだ。


 いまアシュレからの性急な求愛に戸惑い、脅え戸惑う彼女の心は、穢されたことのない乙女のままだ。


 アストラは、かつて自分が悪夢どもに、“子負い”に一度ならず敗れ囚われた記憶を失っている。


 あるいは……その部分だけを丁寧に舐り取られたか。

 ケダモノが甘い蜜を舌を使って舐めとるように、執拗に。


 アシュレはそこに眠らぬ悪夢どもの真の邪悪さを目の当たりにした気がした。


 この娘は生き餌だ。

 ある種の魚を捕らえるとき、そのなわばりに針と糸を仕掛けた同種の魚をわざと放ち、なわばりの主が敵を追い出す仕草を誘って釣り上げる、あの漁法と同じ。

 記章インシグニアどもは、その針と糸だ。


 あるいは悪夢どもにはそんな知能はすでになく、ただ戯れに犠牲者を解放することで、ときとして新たなる獲物が掛かることを経験則として学習していただけかもしれない。


 気まぐれに檻から放ち、微かな希望を与えた後、捕らえて、じっくりと時間をかけてその心を折る。


 この場合、希望とは絶望を際立たせるための最悪のスパイスとして働く。


 アストラの肉体に突き立つ記章インシグニアどもは、その過程でひとつひとつつけ加えられたと見て相違あるまい。


 真っ白な雪原を思わせるアストラの肌に、両手の指に余る数の記章インシグニアたちは、その瞬間瞬間において、信じ難き恥辱と屈辱を刻み込んでいったのだ。


 悪夢どもは、その敗北と絶望の記憶だけを丁寧に舐めとり、つかのまアストラを檻から自由にする。


 ただその屈服の記録だけは、記章インシグニアとなって、物理的に彼女の肉体に残される。 


 いつしかその負荷に耐えられなくなった彼女が、それまでの長き年月に渡って自らを襲った悲劇をついに認識して、爆ぜて壊れてしまうまで……。


 そうなってしまったら、彼女は夜魔の本性を一気に踏み越えて、間違いなく眠らぬ悪夢と化すだろう。

 雪崩を打って襲いかかる現実の刻印に、アストラの精神はもはや堪えられまい。


 その決定的瞬間がいつ来るものか、悪夢どもは舌なめずりをしながら待ち構え、待ちわびているのだ。

 

 アストラに可憐な花を見たひとりの騎士として、到底許されることではなかった。

 そしてだからこそ、このときアシュレは強くアストラを求めた。


 まだこの娘の心は、完全には穢されてはいない。


 夜魔の騎士たちによる人類圏への大侵攻の直前に、アストラがガイゼルロンを発ったというのであれば、彼女が奴らの手に落ちたのはせいぜいがひと月かふた月か前の話であろう。


 数百年の刻を経てなお生にしがみつく悪夢どもにとって、それはほんの瞬き程度の時間でしかない。


 まだ希望はある。

 あるはずだ。


 なによりアストラのために成し遂げなければならないことを、アシュレはすでに見出していた。


 真祖:スカルベリを問い詰め、一連の出来事、すべてのあらましを、そのたくらみの深層に至るまで彼女の眼前で洗いざらい吐かせること。

 なんのために、アストラをひとり、この地獄の道行きへと叩き込んだのか。


 地に這わせ、その襟首をつかんで泥を吐かせねば、到底収まりがつかぬ。


 人類圏の平和を守り抜くという己の任務に、アシュレはアストラの名誉のために戦うという一事をつけ加えた。


 挑むように身を重ねれば、記章インシグニアたちが牙を剥き、ガチガチと威嚇するように身を震わせる音がした。


 




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