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■第十八夜:暗い道で、祈り忘れず

         ※


 波しぶく島の首都:カテルの波止場に隣接する倉庫街の暗がりをするり、と抜け出す影があった。


 それは密航者であった。

 だが、その密航者を運んできた法王庁からすればそれは意図的な――つまり図られた密航である。

 員数をごまかし、荷に紛れて自らの密偵を潜り込ませる意図が法王庁にはあったのだ。


 老齢にさしかかりかけた男であった。

 灰色になりかけた頭髪にヒゲを蓄えていた。

 身なりはどこにでもいる、盛りをすぎた男のようであった。

 これが、法王庁が密かに送り込んだ密偵だとすれば、ずいぶんくたびれた人選である。


 しかし、見るべき者が見れば、その身のこなしには遅滞がなく、老齢から来るはずの関節の軋みなどどこにもないことに気がついたであろう。

 それは絶え間なく体幹と柔軟性を鍛え続け、その鍛練と同じかそれ以上の時間、肉体の手入れを抜かりなく行ってきた者だけが獲得することのできる技だと気がついただろう。


 バントライン・パダナウ――バートンという愛称で呼ばれるこの男こそは、かつてアシュレの従者であったユーニスの祖父だった。

 実際に現在でもバラージェ家の執事と密偵を兼任する。

 法王庁から奪取された聖遺物奪還の任を受け旧イグナーシュ領に赴くアシュレを補佐していた男である。


 国境の村:パロでアシュレに重要な情報を届けた後、バートンは一度、エクストラムに戻った。

 そして、事件の解決を待ち、法王庁の遠征軍に先んじて再びイグナーシュに赴いたとき、衝撃の情報がバートンを見舞う。

 アシュレが聖遺物強奪の賊を追討する旅へと法王庁側の裁可を得ず、無断・・で出立したというのだ。


 なにかある、と直感した。


 幼いころからアシュレを知るバートンは、己の孫同然であった少年騎士――そして、当主:グレスナウ亡きいまではバートンの主である若き騎士が、法王庁への報告を怠るような気質の持ち主ではないことを充分すぎるほど心得ていたのである。

 バートンは一週間をイグナーシュで過ごした。

 困窮に喘ぐ旧イグナーシュ領の民を救済し、また生活と治安とを恒久的に回復させるため、一時的に法王領に編入するとの名目で進駐してきた聖堂騎士団と聖遺物管理課の先遣隊と入れ替わりに、いったん法都:エクストラムへ戻ろうとした。


 ともかくバラージェの屋敷で、ひとり息子の安否を気づかう未亡人:ソフィアに、とにもかくにも無事であるという報だけは持ち帰ろうとしたのである。

 その矢先、法王庁側が接触を持ってきた。

 すなわち、ラーンからの正規の委任状を携えたジゼルである。

 “聖泉の使徒”との異名を持つ聖騎士が、復興の悦びとようやく到着した救いの手がもたらした物資の分配に湧く人々の輪からひとり離れようとするバートンを呼び止めたのだ。


 知己、という堅苦しい記し方が滑稽こっけいになるくらい互いを知るふたりであった。

 これはある意味では必然が呼び寄せた邂逅であったと言えよう。


 バラージェ家とオーベルニュ家。

 古い貴族の血に連なるふたつの家が結びつきを強めるため取り決めた結婚――将来アシュレの奥方となることを定められたジゼルのことを、バートンもまた幼少からよく知っていた。


 許嫁の取り決めはアシュレ九歳、ジゼル十三歳のときであった。

 そして、その取り決めは、本人たちにさえ秘されていた。


 もし成人までにアシュレに《スピンドル》能力の発現がなかった場合、さらにアシュレが聖騎士に昇格できるほどの能力者でなかった場合、この婚約は破棄されることになっていたからだ。

 アシュレがそのことを知らされたのは、成人を迎えた直後……つまり従士時代のことである。

 思うところはあっただろうが、まだ少年と言ってよい歳であったアシュレは、その双肩にバラージェ家当主としての責任を負った。

 グレスナウの死去から、まだ、それほど時は経っていない。

 ただ、ユーニスとのことで、少年がひどく心を痛めていたことをバートンは知っている。

 しかし、それをおくびに出すこともなく、アシュレは全てを受け止めた。

 

 孫娘:ユーニスがアシュレに向ける叶えようのない恋慕については、重々承知のバートンである。

 かつての主、つまりアシュレの父:グレスナウに相談を持ちかけたのもバートンであった。

 全てとはいわずとも、なんとか、慣習の檻を潜り抜け、半分でよいから、孫娘の想いを遂げさせてやりたいという。

 

 つまり、アシュレの苦しみを生み出したのは、バートンの勝手な《ねがい》なのだ。

 それを受け止めてくれた少年の後ろ姿に、バートンは知られぬよう、しかし、何度も頭を下げたものだ。

 

挿絵(By みてみん)


 いまでもやや優等生気質の強すぎるきらいのあるアシュレだが、当時にあってさえ、その責任感の強さはバートンであっても驚かされるところがあった。

 幼少期は病弱で、そこから抜け出してもまだ少女のような、ばら色の頬と柔和な性格・顔立ちの持ち主がアシュレである。

 だが、その柔和さのなかにときおり見える《意志》の強さに、バートンは貴くまぶしいものを見るような心持ちになったものだ。


 そして同時に、ひどく遠く危うい場所に、いつかこの少年が行ってしまうような予感を覚えた。

 おそらく、当時の当主であったグレスナウもそのような危惧を抱えていたのだろう。


 まったく正反対の気質――冷静沈着だが、突飛な発想と抜群の行動力を備える――少女:ジゼルテレジアを許嫁としたのは、単に政治的な背景からだけではない、とバートンは思ったものだ。

 ただまあ、ジゼルは薬としては劇薬過ぎたようで、その過激なアプローチに耐えかねたアシュレがバートンの居室に助けを求めて飛び込んできたり、ユーニスやレダマリアが幼いながらの乙女心を傷つけられたり、嫉妬に燃えたり。

 とにかく来訪の度に一悶着も二悶着も起してくれる娘だったのだが。


 それでもバラージェ家に新鮮な空気を運んでくれるという役割はした。


 しかし、これは見方を変えれば、当のオーベルニュ家でもジゼルを持て余していたのかもしれない。

 なんのかんのと理由をつけてはジゼルはバラージェ家に入り浸った。

 

 アシュレが《スピンドル》能力を発現させ、聖騎士となり、その初任務を済ませたら――法王から賜われるはずの恩賞に替えて、アシュレはジゼルをめとる申し出をする、というのが両家の取り決めだった。

 

 これはアシュレは知らぬ――聖務に恋慕や政略結婚的思惑を持ち込むことは不敬――だった。

 二心を抱くことは、たしかに手元を誤らせる。

 公にするのは、ことが成就してからでよい、という発想だ。

 

 その初任務こそが、今回の事件の発端、イグナーシュ領での出来事だった。


 現地でバートンが得た情報を総合すると、任務を続行するためとはいえ、なんの報告もせずにアシュレは旅立ったことになる。

 これは、どんな事情があるにせよ、聖騎士の行いとしては少なからぬ難があると言わざるをえない。

 もし、アシュレがイゴの村人に言い残したという『追討に赴く』なる言葉が方便という名の虚偽であったなら。

 もしそれが、法王庁からの離反を意味することであるとしたら――アシュレはジゼルとの婚姻をも破ったことになる。

 

 なにごとも真面目に捉えすぎるところのあったアシュレを知るバートンからすれば「よくやった」と褒めてやりたいくらいだが、その後の政治的状況を考慮すると手放しに称賛するわけにもいかない。


 そこへ、民衆の救済という大儀の御旗を掲げ救援部隊を率いてきたジゼルとの遭遇である。

 

 もちろん、こちらもそのような大儀・・を鵜呑みにすることなどできない。

 アシュレの動向については、バートンが疑問を抱くくらいだ。

 法王庁側も『聖騎士としてのアシュレの離反を疑っている』と考えるのが筋だった。


 ややこしい人物に、ややこしい場所で、おまけにややこしい状況で捕まったものだ。

 バートンは神に毒づいた。


挿絵(By みてみん)


 聖騎士に任ぜられてからは、バラージェ家には、とんと顔を出さなくなったジゼルとの邂逅はひさしぶりだったが、互いの顔を忘れることなどなかった。

 赤みを帯びた豪奢ごうしゃな金髪と長身、さらには抜群のスタイル、と強烈な印象を残すタイプの美貌の持ち主である。

 忘れたり見間違えたりするほうが難しい。

 成人前、いや成人してからも治らなかった不言実行型のお転婆ぶりに、手を焼かされ続けてきたバートンである。

 冷静沈着かつ、実行型という恐ろしい気質だ。

 忘れろというほうがムリだった。


 奉仕活動中なのであろう。

 尼僧の僧衣と被り物に聖堂騎士団・聖騎士:聖遺物管理課と所属を示す記章インシグニア――腕章、袖章を身につけた彼女は、ごった返す人波のなかで使節に従軍してきた輜重隊の商人を装うバートンを見抜いた。


「バラージェ家のバントラインさま? ご同行いただけますね?」

 柔和なジゼルの微笑みにも、バートンは決して気を緩ませたりはしなかった。


 聖遺物管理課というその字面だけを追えば、異端審問課などとは違い、歴史的・宗教的遺物の発掘と回収、管理を司る内政的な部署だと勘違いしがちだが、それは大いなる間違いだということをバートンは心得ていた。


 聖遺物――多くの場合それは強大な力を秘めた《フォーカス》である。

 それを「法王庁の手に回収せよ」という任務の意味するところは、その聖遺物で武装した敵対勢力から実力・・で持ってそれを奪還せよと言うことである。

 つまり、その実動部隊こそ、聖遺物管理課であるということだ。


 そして、聖遺物管理課にはさらに上位の使命が存在する。

 それは聖人認定の聖務だ。

 イクス教の教義に厳密に照らし合わせれば、聖人とは生前、そして、死後の奇跡により認定されるものとある。

 問題はこの“死後”の部分だ。


 この世界――ワールズエンデには数多の魔物が息づき、恐るべき不死性を備えた魔の氏族も実在する。

 そしてなにより、己の所領――《閉鎖回廊》のその深奥で、王として、あるいは恐れ多くも神を気取るオーバーロードたちの振う《ちから》は、民衆の思い描くところの“奇跡”となんらかわらない。


 その正否、正邪を見届け確かめる任こそ、聖遺物管理課に在籍する聖騎士に課せられる最大級の聖務であった。

 聖人認定という聖務の困難さ、特殊性は聖遺物管理課が法王直属の機関であることからもうかがえる。

 これは異端審問課に匹敵する権力だ。


 このような特殊な所属、聖務に対し聖遺物管理課に属する聖騎士たちは、それらを全うするため子飼いの――つまり私的な密偵を必ずと言ってよいほど囲う。


 それは正攻法だけではいかんともしがたい局面が現実には無数にあり、旗印として嫌でも目立ってしまう聖騎士の影として、汚れ仕事を担当する者たちが、やはりどうしても必要であったからだ。

 法王庁が元締めである下級異能者集団:スパイラルベインからの選抜や(この場合は、死を装われることが多い)、あえて、《スピンドル》能力者でないものを選りすぐるなど――その方向性は聖騎士たちによって千差万別であった。


 そして、法王庁は聖騎士たちが、いかなる人間を雇い入れたのか報告する義務までは課さなかった。

 これは管理がずさんなのではない。

 いざ面倒事が起きたとき、政治的にしらを切り通すための保険であった。


 バラージェ家の前当主:グレスナウもその例に漏れず、執事であるバートンが同時に密偵であることを法王庁に届け出たりしてはいない。


 だが、聖騎士となったジゼルはいつのころからか、それに気がついていたらしい。

 ジゼルのふたつ名――“聖泉の使徒”とは「いかなる嘘も見破る水鏡」の伝説から着いたものだという話に、バートンは眉をひそめたものだ。


 そうでなくともこの時代、エクストラム法王庁は西方世界で一、二を争う情報網を持つと恐れられた集団である。

 懺悔室というものは――ある意味で人々が「後ろ暗い秘密」を投げ捨てていく「穴」でもあったと言えば、すこしは理解の助けになるだろうか?

 

 バートンは連れ込まれた法王庁特使の天幕で聖騎士:アシュレの支援を前提とした捜索への協力を要請・・された。

 “教授”ことラーンと“聖泉の使徒”ジゼルテレジアのふたりからである。

 ふたりはアシュレを案じる様子で、暗にその離反の可能性をほのめかした。


 もし、仮に離反が明らかとなれば、バラージェ家への沙汰は相当なものとなるだろう。

 所領の、あるいは財産の没収程度で済めばよいほうで、異端審問課が口を挟まないとも限らない。


 アシュレの母:ソフィアはまだ三十五にも達さない若き未亡人であった。

 異端審問官たちが女の口からどんな手管で、彼らの望む証言を引き出すのか、バートンはよく心得ていた。


 ラーンとジゼルは暗にそれをほのめかしながら「聖遺物管理課としてアシュレを支援したい」「そのために彼の足跡を追いたい」とバートンに話した。

 つまり、バートンはバラージェ家とソフィアを人質に取られ、協力を強請ゆすられたのである。

 

 もちろん、バートンもこれまでいくども困難な状況を潜ってきた男であった。

「願ってもないこと」と快諾して見せた。

 それは半分は演技であり、しかし半分は本心だった。

 

 アシュレの安否とともに、同道した孫娘のユーニスのそれをバートンは案じていたのだ。

 無論、アシュレとユーニスを襲ったことの顛末てんまつをバートンは知らない。

 知るよしもない。

 アシュレとともにあるだろうことを、祈ることが出来ただけである。


「それで具体的には、なにを調べればよいのですかな?」

「“なにか”をだよ。バントライン氏。わたしは貴方の、いや、貴方だけが持つその“なにか”を期待している」

 曲者ぞろいの法王庁で“教授”と徒名されるラーンの要求は、なるほど哲学的かつ直感的だった。

 だが、その言葉にしきれないニュアンスはバートンにはよくわかる――いや、むしろたいへんに馴染み深い感触ではあった。


 バートン自身に《スピンドル》能力はない。

 しかし、《スピンドル》とはヒトの《意志》が引き起こす強力なエネルギー反応だと、バートンは経験から学んでいた。


 そして、《意志》の《ちから》に無自覚であっては見落としてしまう“なにか”が、聖騎士を代表とする《スピンドル》能力者たちが立ち向かう《世界》には無数にあることを、バートンは知悉ちしつしていた。

 主であり無二の友であったグレスナウとともに幾多の暗い夜を駆け抜けた経験が、バートンに見落としてはならぬ“なにか”を見出す注意深さを養わせたのだ。


 それは予兆、前兆――しるし、だ。


 ラーンはあえて、法王庁がすでに得ているであろうアシュレの足跡についての予備情報を、限定的にしかバートンに開示しなかった。

 これはバートンという男をラーンが信用していないことのしるしであると同時に、なんらしかの錬金学的変化――予期せぬ遭遇が引き起こす“なにか”を期待しているのだ、とバートンは理解している。


 それにしても妙な具合だ、と闇にひそみながらバートンは思う。


 ラーンからバートンが要請された案件は、大きく三つ。

「アシュレダウと接触を持ち、状況と事情の詳細を報告させること」

「同時に正規の支援体制を法王庁は整えつつあり、これを受けるよう通達すること」

「もし、接触できない場合は、その足跡を可能なかぎり細部に渡るまで調べ、ラーンに報告すること」

 だった。


 けれども、いったん法王庁に戻ったラーンたちとともに、秘匿された任務を負い商船に偽装した特務艦に乗せられ辿り着いたのは、同じイクス教徒、それも勢力を拡大するアラム教のオズマドラ帝国に対して、東方世界ではもはや唯一といってよい対抗組織:カテル病院騎士団の本拠地、カテル島だった。


 アシュレが聖遺物を強奪した賊を追い、イグナーシュ領から出立するのを影ながらカテル病院騎士のひとりが支援したことは、すでに判明している。


 そして、その男が精鋭ぞろいのカテル病院騎士団で筆頭騎士を勤める、ノーマン・バージェスト・ハーヴェイであることも。

 そこまでわかっていながら、ラーンはあくまで今回の来訪は、新法王:ヴェルジネス一世の誕生を報せるためだとしら・・を切り通している。

 その裏で、バートンをアシュレ捜索に駆り出しておいて、だ。


 バートンはこの使節に同道してからというもの、首筋に走るぴりぴりとした感触が抜けずにいる。


 単刀直入に訊けば済むものを、あえて切り出さず、それなのに背後で秘密裏に諜報戦を仕掛けるこのやり方は、相手の失脚を狙う貴族たちの権力ゲームに構図がそっくりだ。

 つまり、法王庁側は、カテル病院騎士団を恐れているのである。

 無理もない。

 代々のカテル島大司教位=グレーテル派の首長は「法王庁が認めた正しき預言者」の資格を有しているのである。

 うかつに薮をつつけば、飛び出してくるのは毒蛇どころか、怒りに燃える竜であるかもしれない。

 

 ただ、多くの引け腰貴族と違うのは、ラーンはやるといったらやり通す男であるということだろう。

 さらに、その背後には強大な権力を備えた組織――法王庁が控えている。


 軍事面では聖堂騎士、従士隊を含めて正規兵は二〇〇〇程度、傭兵を雇い入れて総兵力:四〇〇〇から五〇〇〇といったところ=つまり少ないとは言えないが、専制君主型の軍事大国と張りあえるほどではない法王庁だが――新法王:ヴェルジネス一世は十字軍の提唱に熱心であるらしい。


 アシュレの父、グレスナウが戦死した第十一次十字軍では、その総戦力は二十万に達したとも言われている。

 戦地から遠く離れた法王庁、イダレイア半島ではとっくの昔に終了宣言が行われていても、あちこちに飛び火した戦の火は消えず――じつに十年以上も火種は燻り続けたのである。

 グレスナウはその火消し役に駆り出された、とそういうわけだ。

 竜槍:〈シヴニール〉と、聖盾:〈ブランヴェル〉だけが帰ってきた。

 だが、これでも十字軍としては小規模なほうで、最大と言われた第九次では、なんと一〇〇万人もの人口が参戦したのだ。

 いったいいかなる熱情が、彼らを突き動かしたのか。

 バートンの肉体は、もはや国家が移動を始めたとしか思えぬような――巨大な軍事行動を支えた人々のなかの“狂熱”を思うとき、震える。


 そして、それだけの軍事力を再び揃える覚悟――いや、狂気が現在の法王庁では胎動している。

 あの思慮深いレダマリアという少女を、幼少時からよく知るバートンにとっては信じ難い話だが、ないことではない。

 権力の座に着くとともに豹変する指導者の姿は、ある意味で歴史のなかでは風物詩とも言えるありふれた光景だ。

 まさか、あのひとが、あのひとだけは、そんなふうには見えなかった――などというのは人間という生き物に対してよほどの無知か、無関心なだけであろう、とバートンは思う。


 いや、本人ではなく取り巻きの枢機卿団が吹き込んだ可能性についても、大いにある。

 なにより、純粋さ、それゆえの鮮烈すぎる苛烈さというものは若さ・・と切り離すことのできない美点であり、それゆえに恐ろしい――なによりも恐ろしい性質であった。


 新法王選出ともはやひとつそろいの行事となった感のある新枢機卿の任命にあたり、ずいぶんときな臭い名前を聞いたことをバートンは忘れていない。

 

 イグナーシュ教区の新任大司祭としても任命されたブラドベリ枢機卿は、復興財源としてイグナーシュ出身者を法王親衛隊に雇い入れるという構想を、レダマリアに持ちかけたらしい。

 これは、かつて国外に逃れたイグナーシュ出身者でもよく、一般的な傭兵部隊に比べて、かなりの厚遇が約束されている。

 

 これは結果論的な仮説だが、オズマドラ帝国がイダレイア半島に乗り込めなかった理由のひとつにはイグナーシュの《閉鎖回廊堕ち》があったとする見方すらあるのだ。

 つまり十字軍に対する報復行動によってオズマドラに制圧された小国家群の抵抗と、そのいちばん西端に位置したイグナーシュ領が《閉鎖回廊》と化していたから、という話だ。

 ある意味で、イグナーシュの民はエクストラムの平和、その功労者であると考えられなくもなかったのである。

 

 荒れ果てた国土が息を吹き返すまでの間、財源として人材を登用・運用するという建前だが、これは実質的な法王庁の軍備拡大、さらには《閉鎖回廊》からの生還者に稀に発現するという《スピンドル》能力者の原石を、法王庁が独占するということでもある。

 

 法王庁が、聖堂騎士団と聖騎士たち以外の、しかも法王個人の意志だけで動かせる私設軍隊を持とうと画策していると諸外国に取られても、これはしかたない。

 ブラドベリ=売血奴、などという揶揄やゆではすまされない事態が進行中なのだ。

 

「いまや時代は変わった。十字軍などありえない。現実的ではない」などという都合のよい夢想に身を任せてよい時間は過ぎ去ったのだ。

 そして、そうやって得た強大な軍事力を背景に、法王庁は政策転換=意思統一を図ろうとしているのではないか? 

 

 その意志表示として、まず、カテル病院騎士団を生贄・・に選ぼうとしているのではないか? 

 これは、おそらくは各地で同時に行われている生贄・・の選定、ひいては、それを皮切りとして戦端を合法的に、大義の御旗によって開こうという工作の――その前哨戦なのではないか。

 

 そうバートンは疑っている。


 カテル島はひどい嵐だ。

 気候が穏やかなことで知られるカテル島で雪が積もるなど、ここ一世紀の記録にはないはずだ。

 薄暗い倉庫が風雪と叩きつける海水に軋みを上げるなか、バートンは身体の凝りをほぐす準備運動を行いながら、夜陰に沈むカテルの街並みを観察した。


 法王庁からの使節歓迎のためだろう。

 嵐の晩であるにも関わらず、カテルには明かりが灯っていた。

 ガラス窓を備える富豪の邸宅や商館、各国の騎士館はいうにや及ばず、港をぐるりと取り囲む城塞にもいたるところに篝火かがりびが焚かれている。


 灯台の尖端で燃やされる盛大な炎が、バートンのいる倉庫街の屋根裏部屋からもよく見える。

 そして、バートンは夜陰に紛れて哨戒しょうかいを続ける軍人たちの姿を幾度となく見た。

 もちろん、歩哨や定期的に都市を見回る夜警番とは別に、だ。

 

 これは異例なことが動いている、とすぐに察することができた。

 

 これではまるで戦時ではないか。

 ガレー船三艘の乗組員が上陸しているとはいえ、そして、一手指し手を誤れば、致命的な事態を招く可能性のある会談が持たれているとはいえ――この警戒度の高さは尋常ではない。

 いかにこのカテル島が異教徒との闘争のその最前線に位置しているとはいえど、だ。


 これでは、まるで今夜のうちに襲撃があることを予見しているようではないか。

 そうバートンが疑問を抱いた瞬間だった。


 一瞬、夜陰が真っ白に消し飛んだ。

 バートンの目に雪に煙るカテルの街並みがはっきりと焼きついた。

 続けて、腹の底に響き渡る――雷轟。


 ごうらん、と大気が爆ぜ、次に地面がたしかに揺れた。


 ただの落雷ではない、とバートンは瞬時に理解した。

 これは《スピンドル》能力者による戦闘行動の余波だと、強力な《フォーカス》とそこに伝導され発現した異能・超技の影響だと。

 さらに見抜いた。

 この効果は、〈シヴニール〉によるものであると。

 少なくとも最初の雷轟に、バートンは馴染みがあった。

 グレスナウとともに暗闘を続けてきた経験は伊達ではなかった。


 ここにアシュレが、若当主がいる。


 しかし、多くの住民が、何事かと雷光と爆音とが飛来した側に目を向けるなかで、バートンはひとり冷静に観察していた。


 その雷轟に呼応するように、カテル山のそこかしこが発光したのを見たのである。

 それは一瞬だったが、たしかな光をバートンは認めた。


 数人の騎士だろう男たちが、市街からグレーテル派の教会が位置する丘を目指して駆けて行く。

 その教会の背後にカテル島はそびえている。

 バートンは見出したことを直感した。

 

 これこそが探し求める“なにか”だ、と。

 



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