■第十六夜:フィティウマの紋章
※
氷雪吹きすさぶ夜であった。
波荒れ狂う海岸に棺桶が流れ着いた。
全部で九つ。
黒塗りの蓋には荘厳な銀のレリーフが確認できる。
それは押し寄せる波に翻弄されることなく、まっすぐに湾の岸辺を目指した。
銀のレリーフは不思議な紋章を形作っている。
二重螺旋の剣に、いくつもの爪をあわせたような花弁を持つ高山植物。
目の醒めるような美しい青紫の花弁をそれは持つ。
しかし、その花が咲くイシュガル山脈の麓で暮す人々は、この青い花弁を「悪魔の爪」と呼んで恐れる。
それは、この花を紋章とする国家こそが、大公:スカルベリが統べる夜魔の国:ガイゼルロン大公国だったからだ。
不思議なことに柩の群れが向かう周囲では波は静まり、そこだけが鏡のように凪いでいた。
まるで波も風も、その一軍に恐怖し、なりを潜めるかのように。
そして、ついに奇怪な柩の一団が砂浜に接岸した。
しばらくの間があった。
波も風も、その周囲だけ喪に服したかのように静まり返った。
どれくらいしただろう。
出し抜けにがちり、という重い錠の外れる音が響き、その柩が開いた。
そして、姿を現す者があった。
まず九つのうち五つが、同時にその蓋を押し開けた。
姿を現したのは夜会服に身を包んだ美男美女である。
男達は洗練されたスーツに身を包み、みな首筋をスカーフで隙なく巻きしめていたが、そのだれもが一目見て戦士として卓抜した美丈夫たち。
美女やたちもまた首筋まで覆うカットラインの美しい夜会服に着飾り、それぞれが首から大ぶりのルビーやサファイアの首飾りを身につけている。
豊かな胸乳が、肌もうかがわせぬドレスの上からでも確認できる。
だが、隙のない身のこなしと背筋に現われる鋭角な肉の陰影が、実のところ、このふたりの美女もまた恐ろしい刺客であることを如実に示していた。
これが五名。
彼らこそガイゼルロンの名を人類国家に恐怖の代名詞として知らしめてきた戦闘集団:月下騎士団である。
彼ら彼女らには必ず半裸の少年少女たちが一名ずつ、付き従っていた。
薄絹とストールだけを羽織ることを許された子供たちは、主人である騎士たちを旅の間、暖め、その無聊を慰めるための道具でもある。
目を凝らして見れば忠誠を誓い、所有物となった証の首輪が見てとれたはずだ。
無論、そのいずれもがすでに人外のものたちである。
年齢も外見の通りではない。
五人の従者たちは、まるで白い亡霊のように残された柩に向かった。
残された柩のうち、三つが開け放たれた。
ぞろり、とそのうちふたつの柩から獣が這い出してきた。
巨大な灰色オオカミが都合、四頭。
これもまた、月下騎士のワイルドハントに付き従うものたちであった。
金色の瞳が闇夜に光を放つ。
野生のオオカミはそれだけで充分に恐ろしい狩猟者であるが、彼らはその血筋を人狼に持ち、また夜魔の血肉を与えられた――夜魔特有の再生する肉体を、永劫に渡り狼に貪らせる恐るべき刑罰:イフ城地下でのそれに専従し続けてきた――血統であった。
結果として、人狼の血筋に夜魔の特性を受け継いだ恐るべき混淆種として、彼らは生を受けたのだ。
そして、彼らすべての陣容が整って初めて、最後のひとつがその扉を開け放たれた。
まず、同じく少年従者が三名、柩から現われた。
彼らがかしずくと、柩の縁に白手袋に包まれた手がかかり、ぐう、と男がベルベットの内張から身を起した。
長身であった。
鷲鼻に薄いあごひげ。
秀でた額を強調するように太い毛質の頭髪をなでつけていた。
はっきりとした眉の下、奥まった眼窩にはまった深紅の瞳が燃えている。
こおう、と呼気が蒸気となってその唇から漏れる。
熱い呼気のその奥に、鋭く発達した犬歯が見えた。
酷薄な印象を与える薄い唇が、笑みのカタチとなる。
紛うことなき偉丈夫が立ち上がった。
「よく、冷えているではないか。わが故郷:ガイゼルロンのゼクト(瓶内で二次発酵を行う発泡ワイン)のような冷え方とは違うが」
なかなかに素晴らしい天気ではないか。
男は言う。
先ほどの半裸の少年従者三人が、うやうやしく防寒具を捧げ寄る。
最上級のクロテンのそれを、偉丈夫は馴れた仕草で羽織った。
紳士は、その名をヴァイデルナッハ・ゲデア・ハイネヴェイルという。
ガイゼルロンに三つある伯爵家のうちのひとつに繋がる男である。
すなわち、かなりの上級夜魔ということだ。
このヴァイデルナッハ=ヴァイツと愛称される上位夜魔を司令官に、旗下五名、従者八名、軍狼四頭、これがガイゼルロン本国より反逆者シオンを討ち取るために今宵、派兵された全戦力であった。
柩については、沖合を擦過した霧の軍船から送り出された強襲揚陸艇であったと表現して間違いない。
これは相手が《スピンドル》能力者でなければ大国の軍事遠征:約二万をまるまる平らげてしまえるだけの戦力である。
それほどまでにシオンと彼女の操る聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉は恐れられていたのだ。
百年を優に超える年月、幾度となく送られた刺客のことごとくをシオンは下していたし、侯爵・伯爵級の上位夜魔を、従者と目される土蜘蛛の男の助けがあったとはいえ、一名ずつ抹殺している。
中途半端な戦力投下では効果があるまい。
それがヴァイツの見立てであり、騎士団中枢へ進言した内容であった。
伯爵家の血筋としては、逆賊に対する高評価――苦々しいことこの上ないことではある。
だが、現実を認められなくなれば古い因習にとらわれた老人たちと同じ轍を踏むことになる。
そして、ヴァイツは現実を楽しむ気質の持ち主だった。
オオカミたちの出現とともに開け放たれた空の柩の奥の暗がり――《シャドウ・クローク》と呼ばれる湾曲・屈折空間――から剣を引き抜きながらヴァイツは言った。
「さて、我が親愛なる月下騎士団精鋭の諸君。絶好の狩り日和だ」
朗々としたヴァイツの声に、賛同の笑いが満ちる。
雪はいっそう激しさを増していたが、夜魔の騎士たちは濡れる様子もなかった。
「聞き及んでいるとは思うが、今宵の獲物は美しい牝鹿だ。それと、虫のオマケもついている」
雌鹿とはシオンのことであり、虫とはおそらく土蜘蛛の男:イズマを指しているのだろう。
イズマが聞いたら目を剥いて怒りを表明したこと請け合いである。
「獲物の牝鹿は、貴種として生まれながら、恥知らずにも人類などという家畜に加担する反逆者にして殺戮狂:シオンザフィルである。
その手にかかった我が血族の者たちの数は、両手では数え切れん。
そこには敬愛すべき侯爵、伯爵もひとりずつ含まれている。
これは高貴なる我が血統に対する大いなる侮辱である。
畏くも、我が絶対なる君主であるスカルベリ大公陛下は、この反逆者に対し、ついに我ら月下騎士団:残月大隊の投入を決定された。
この追討に関して、対象の生死は問わない。
また、その際の吸血・捕食、そこにいたるあらゆる行動が、すでに認可されている。
つまり、捕らえた者は獲物のすべてを自由にできるということだ。
その一切に、たとえ諸君の上官であるわたしといえど、口を挟むことはできない。
すべては、それを先んじて成し遂げた者の権利。
端的に言えば、早い者勝ち――達成者の総取りだ」
ちなみに、と美食についての知識を披露するように、厳かな口調でヴァイツは付け加えた。
「シオンザフィルは、これ以上ないほどに美しい獲物だ。
その美は、我ら夜魔の血統においても類い稀なるものだ。
その血も甘美であろうことは、わたしが保証しよう。
そして、前菜として人間たちを蹂躙するのも心地よいものだ。
我らが残月大隊のナイトハントはひさしぶりだ。
ああ、言うまでもないことだが邪魔な土蜘蛛――虫は踏みつぶせ」
諸君、励めよ?
そう言い放ち、自身の演説と冗談が充分に隊に行き渡り、志気高揚の効果があったことを認めて、ヴァイツは顔を引き締めた。
口調が変わる。
「さて、寝起きの挨拶はこれぐらいにしよう」
大隊指令の顔つきとなる。
「だが、くれぐれも敵を侮るな。
忌まわしき邪剣:〈ローズ・アブソリュート〉は、危険極まりない呪われし出自の剣だ。
その刃に侯爵、伯爵それぞれひとりが倒れたことを忘れるな。
邪悪な刃は触れただけで我らの肌を焼く。
貫かれれば、いかに純血の夜魔である我々とてただでは済まん。
臓腑を灼かれ、心の臓を燃やされる苦しみが待っている。
獲物は美しい。
しかし、その角は、牙は――剣呑だ。
怠るな。
しかし、臆するな。
冷酷に、慈悲の心を捨て、追い詰めろ。
我が血が感じるのだ――高揚に震えて。
やつは、反逆者:シオンザフィルはすぐ間近にいる!
騎士たちよ、油断するな!
月が見ていること、そして月下には我らがあることを忘れ、安眠を貪る愚鈍な人類どもに思い出させてやれ!
愚かな家畜とそれに加担する反逆者に、我らの牙の味を思いしらせてやれ!」
ぞろり、とその言葉が終わらぬうちにヴァイツの手にした風変わりな剣の峰に、牙のような突起が芽吹いた。
貪る者:〈ヴァララール〉と名づけられたその片刃・異貌の剣は、ヴァイツの属する血統:ハイネヴェイル家に受け継がれた品――《フォーカス》である。
代々王の狩りの供を務めるハイネヴェイル家の武器であるそれは、ひとたび相手に突き立てば容易には抜けぬ凶悪さを兼ね備えた代物だった。
司令官であるヴァイツの激に応じるように、月下騎士のそれぞれが、柩から刃とこれもまた独特の様式美に彩られた弩を取り出そうとする。
その、瞬間だった。
ごうらん、と大気が吠えた。
それは文字通り雷竜の憤怒を思わせた。
――《ラス・オブ・サンダードレイクズ》。
アシュレの持つ竜槍:〈シヴニール〉が放った地上の雷霆である。
青白く燃える超高熱の粒子が暗闇を裂き、網膜を焼いて夜魔の軍勢に襲いかかったのだ。
ヴァイツがそれを躱せたのは、獲物であるはずのシオンと己の血が起した共振=接近を告げる本能的な警告が一瞬速く身を逸らさせたからに過ぎない。
月下騎士のうち二名、従者四名、軍狼二頭が閃光のなかで消滅した。
優に一万度を超える焦点温度を発生させる〈シヴニール〉の光条だ。
その身に世界法則をねじ曲げる:《閉鎖回廊》を纏うオーバーロードか、それに比肩しうる最上位種でない限り、いかに強大な再生能力を誇る夜魔といえども、直撃を喰らってしまっては、瞬時に骨まで蒸散するほかない。
「卑怯な!」
思わず口をついて出たヴァイツの呪詛は、しかし、続いて着弾した超高熱の粒子と海水が反応して起こる爆発によってかき消された。
※
第一射を放った直後、アシュレは即座に移動を開始した。
強力な長距離砲撃である《ラス・オブ・サンダードレイクズ》は、連射できるような技ではない。
そもそも《閉鎖回廊》外では、精度の安定しない大技である。
それがこのカテル島で運用できることに、アシュレは驚き、戸惑った。
だが、数カ月前のアシュレならばともかく、すでに死地を二度も潜ってきたのだ。
その修羅場からの生還が《スピンドル》能力者としてのアシュレに、《スピンドル》励起に関する莫大な経験値を授けていた。
原因・理由は不明でも《閉鎖回廊》外では安定しないはずの《スピンドル》が、なんの支障もなく運用できるのであれば――そして夜魔相手に千載一遇の狙撃のチャンスがあるのであれば、躊躇することどなにもない。
かつて、聖騎士の最年少として期待されていたころであるなら、選択肢にさえなかったであろう攻撃を、アシュレは躊躇なく選び取る。
それが法王庁の特使たちへ、自らの存在を高らかに誇示することになろうとも。
すべてを覚悟して、渾身の技を見舞った。
そして、不意打ちである一撃目はともかく、それ以上、足を止めての攻撃は逆に危険だと告げる戦士の勘をも、すでにアシュレは戦場から学び取っていたのである。
それはイグナーシュ領で、降臨王:グランの分体:投影を狙撃した経験からであった。
愛馬:ヴィトライオンの腹に蹴りを入れる。
気心知れた軍馬は間髪入れず駆け出す。
直後、つい先ほどまでアシュレが陣取っていた岩陰が、飛来する深紅の刃の群れによって粉々に砕け散った。
それこそは狙撃点を狙って打ち込まれたヴァイツの反撃だった。
――《ブラッディ・ファング》。
ヴァイツが手にする《フォーカス》:〈ヴァララール〉が、蔦のごとき器官を伸ばしヴァイツの掌に潜り込み、体内に溜め込んでいた血液を超音速で加速し打ち出したのだ。
音速の数倍の速度で発される血液の刃は、鋼鉄の装甲をやすやすと両断することができる。
もちろんアシュレの〈シヴニール〉に匹敵するほど長い射程を持っているわけではないのだから、それはヴァイツがアシュレの狙撃に即応し、急速に接近しながら打ちかかってきたことを示していた。
水蒸気爆発に飲まれたはずの月下騎士の反応速度の凄まじさ。
同時に、それがいまだに生存しているという証拠でもある。
距離を取り、振り返ったアシュレはぞっとした。
そして、もうもうと砂塵を巻き上げるかつて岩塊があったであろう場所に、ふたつの影が飛び込んでくるのを見た。
アシュレが視覚に捕らえることができたのは、影までだった。
ほぼ同時に、鮮烈なバラの薫りをともなった白銀の煌めきが横合いから迸り出、砂塵舞う範囲ごとそ、の影を薙ぎ払ったからだ。
飛び込んできた影は月下騎士に率いられた軍狼の一頭と、この部隊を率いる夜魔の首領=ヴァイツに他ならない。
夜魔の種族的異能:《影渡り》によって、瞬間的に間合いを詰めてきたのだ。
人類の軍隊であれば、指揮官がこれほど突出したりはしない。
しかし、己の再生能力に信を置く夜魔の軍勢では、組織的な戦闘行動より個人技による戦い、そして栄誉が優先される傾向が強い。
ゆえに、屈辱的な不意打ちに対し騎士として反射的に、直情的な反撃をヴァイツは行った。
だが、その反撃すらアシュレとシオンにとっては織り込み済み――予想された行動だった。
つまり、数秒前までアシュレのいた場所へ飛び込んできたヴァイツと軍狼を薙ぎ払った白銀の煌めきこそ――シオンの放った異能:《プラズマティック・アルジェント》――聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉が生み出した恐るべきエネルギー奔流だったのである。
一撃で相手を壊滅に追い込む超攻撃能力の瞬間的な応酬。
それこそが《スピンドル》能力者同士の戦い――その真骨頂と言い切って良い。
様子見の牽制など、なにほどの意味もない。
大技を陽動に、陽動を致命の一撃に。
まさに虚々実々の駆け引きが、戦いを支える。
この策略はシオンによるものだった。
これまで人類を相手取るとき、月下騎士団は、常に「狩る側」であり、圧倒的な戦力を持って「蹂躙する側」であったことしか記憶されていない。
その思い上がり、傲慢を利用して相手の高く伸びた鼻をへし折れば、必ずこちらの思惑に沿って行動してくる。
シオンはそう言った。
数百年に渡る逃亡生活で経験を得たのは、追う側だけではなかったのだ。
技を放ち終えたシオンが、ヴィトライオンに跨がるアシュレに向かって駆けてくる。
強大無比の広範囲殲滅型異能を得意とする聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉とそれを扱うための聖遺物:〈ハンズ・オブ・グローリー〉は、その着用者に文字通り究極に近い攻撃能力を授ける。
だが、その代償として夜魔であるシオンが失ったものは夜魔特有の異能:《影渡り》――一種のショートテレポート――による圧倒的な移動能力だった。
聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉使用に際して必須の籠手:〈ハンズ・オブ・グローリー〉が足枷となっていた。
影への潜航を阻害するのだ。
だから、アシュレとその愛馬であるヴィトライオンは、失われたシオンの機動性を補うための手段としてでもあったのだ。
「シオン、こっちだ!」
馬首を巡らし、手を伸ばしてアシュレはシオンを迎えようとした。
瞬間、アシュレは恐るべき光景を目撃する。
シオンの放った《プラズマティック・アルジェント》の着弾地点=もうもうと巻き上がる土煙の渦中から、深紅の刃が飛来するのを。
それも、シオンがアシュレとヴィトライオンを目指し走るルートを先読みして、置くようなカタチで。
言葉で伝達していたなら、その回避は間に合わなかったであろう。
アシュレは瞬間的に、シオンの感覚野に“同調”していた。
それはすでに心臓をはじめとする重要な臓器を共有している――ふたりだからこそ可能な奇跡であった。
再結着し、剣の姿を取り戻した〈ローズ・アブソリュート〉を、シオンが雷光の速さで振り抜く。
まるで地面に刃先を突き立て、切り裂くように。
そのまま自身は倒れ込むように跳躍し、棒高跳びの要領で宙を舞った。
電磁網で闇夜に尾を引きながら展開した刃の群れが、シオンをアシュレの元へ運ぶ。
その一方で輝く切っ先が、打ち込まれた深紅の凶刃を叩き潰した。
もし、シオンが跳躍していなければ、確実にその脚を捕らえていた攻撃である。
じゅう、と叩きつぶされた刃が、焼けた鉄に押し当てられた肉塊のような音を立てた。
いや、それは実際に肉片であった。
月下騎士:残月大隊の一角を担うヴァイツが携える剣:〈ヴァララール〉は特異な性能を秘めている。
その柄と護拳は装着・起動と同時に使用者の肉体と同化する。
護拳の内側に備える牙と舌を使用者の体内に潜り込ませ、血液と肉を食み、我がものとする。
文字通り、剣がその肉体の延長となるのだ。
そして、その刃を通して振われる異能は、使用者の血液や肉体そのものを弾丸のように撃ち出すものであった。
人間が振えば肉体の構成要素を内側から失い、早晩、死に至る。
文字通りの魔剣。
いや、おそらくほとんどの人型生物にはまともに扱えない特性――重大な欠陥であるはずだった。
ただ一種、恐るべき速度で肉体を再生しうる夜魔を除いては。
つまり、〈ヴァララール〉は夜魔の使い手を得て、ほとんど無尽蔵の弾薬庫を備える危険極まりない鏖殺兵器として完成するのだ。
そして、たったいま撃ち込まれた凶刃はヴァイツの血肉を杭として再構成し、対象の肉に打ち込み、食い込ませる最悪の足枷――《グルートニー・クイルズ》であった。
対象の肉体に撃ち込まれた《グルートニー・クイルズ》は急速に同化異化し、癌細胞のように対象の肉体から建材=すなわち血液や肉、そのものを奪う。
早期に切開するか、その部分を切断すれば助かるが、失われた手足は高位の治療系異能でなければ戻らない。
また、なにより重要な器官であれば、切除そのものが不可能であることは想像に難くないだろう。
夜魔であれば少々の損壊は再生するが、戦場で部位を切断するような暇が簡単に得られるとは限らない。
相手の行動を阻害しつつ、ジワジワと確実な死に誘う最悪の攻撃であった。
だが、そのまさしく最悪の攻撃を、シオンはすんでのところで回避したのである。
アシュレは、修道女の装いをはためかせ腕のなかに迷わず飛び込んできたシオンをキャッチすると、ヴィトライオンを促し、全速で駆けはじめた。
一瞬の攻防の間に、アシュレは冷たい汗をかいていた。
「いまのを、躱したのか」
その驚愕はアシュレとシオン、そして、敵であり《グルートニー・クイルズ》を放ったヴァイツさえもが共有した感情である。
完全なタイミングだったはずの《プラズマティック・アルジェント》。
そのエネルギー乱流。
技を放ち終え交戦点から離脱しようとしたシオンに対する背後からの《グルートニー・クイルズ》。
撤退する相手の軌道を読みきった一撃。
いずれも容易に凌げるような技ではない。
しかし、ヴァイツは、シオンは、互いにその致命的な一手を回避して見せたのだ。
姿こそ確認できなかったが、土煙のその向こう側から、正確にシオンの足元を狙ってきたヴァイツの実力にアシュレは肝を冷やしていた。
これが、夜魔の騎士たちの攻防なのか、と。
その次元、発想の異質さに。
ヴィトライオンは疾風のごとき速度で走った。
けれどもこのときまだ、アシュレは気づいていない。
月もなく星も見えないこの嵐の闇夜にあって、アシュレ自身がなぜか闇を見通せている事実に。
ヴィトライオンはあらかじめ想定していた交戦地点へと向かって走る。
射かけられた鏃と中規模攻撃用の異能の嵐を、すり抜けるように躱しながら。




