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■第十五夜:〈アステラス〉


「それにしてもシオンって、なに着ても“お姫さま”ってオーラが出てるよね」


 カテル島の東側に広がる海岸線は砂浜を持っている。

 そのなかで比較的大きな教会を持つ村のひとつに、アシュレとシオンは居た。

 海を見下ろす村は、島の西側とは大きく景観を異にするなだらかな斜面に建っている。

 アシュレはその村の教会の食堂で暖炉の炎にあたっていた。


 卓上には食事の跡。

 レッソ――新鮮な魚介を水で煮たものだ。


 意外に海が近いエクストラムでもよく見かけた料理で、凝った料理屋ではさらにドライトマトやニンニク、ハーブを使いアクアパッツァという料理にしたりする。

 だが、アシュレは母やユーニスの作ってくれた真水で茹でるシンプルなレッソのリチェッタのほうが好みだった。

 味の濃い凝った料理は瞬間、瞬間を楽しむためのもので、毎日となれば舌が疲れてくる。

 そこへくると、レッソは味付けも自分でできることもあり、飽きるということがない。

 淡泊な白身魚の身をとりわけ、塩とレモン、オリーブオイルで食すると、なんともいえぬ滋味じみあふれる味がしたものだ。


 この修道院のものも、やはりそのシンプルなリチェッタ(レシピ)に準じていて、違うのは水とオリーブオイルの風味だった。


 明るい色のオリーブオイルはさらりと軽い。

 北側のオイルは緑が深く味わいも濃厚だが、なるほど、温暖な地域で毎日食べるにはすこし重たいのだろう。

 ダシュカマリエの話では、日差しに恵まれた南に行くほど、その傾向は強いらしい。

 種の別もあるが、熟したものを使うなど収穫時季が関係しているらしい。

 不思議なものだとアシュレは思う。


 シオンとアシュレ、ふたりで中くらいの鯛を一匹、丸々平らげてしまった。

 ちなみに調理はアシュレがしたものだ。

 まあ、内臓を取り去り、鱗を除去して、煮るだけなのだが。


 つけ合わせはセルバチカという名の草だ。

 ルッコラに似ているが、ゴマに似た風味が強く辛味がある。

 これもイダレイアの草原のどこにでも生えている。

 庶民が台所の母親に「草を採ってきて」と言われたら、まずこれのことだ。

 アシュレは昔、セルバチカとルッコラは同じもの、せいぜい亜種くらいだと思っていたのだが、“教授”に言わせるとぜんぜん違う草なのだそうだ。


 だからどうした、と言われたらそれまでの差異のような気もするのだが、そのディティールが重要なのだ、とやり込められた。


 これもアシュレがサラダにした。

 といってもよく洗ったものを、ただ木のボウルに入れ、塩、酢、オリーブオイルの順で入れて手で調味料をまとわせたものだ。

 サーレ胡椒ぺーぺ(高価なので省略されることが多い)、アチェートオリーブオイルオーリオ

 調味料を加える順番。

 工夫といえば、硬い茎の部分を丁寧にひとつひとつ取り除いたくらいである。

 だが「草など」となかばバカにしていたシオンが、一口食べるなり目をいたのには笑った。


 放浪生活の長いシオンは、その出自からは考えられぬほどの回数、草の根を枕に眠ったこともあったのだろう。

 その際、いくどもこの草は食べたはずだ。

 

 じつは、カテル島の対岸に居を構えるアラム庶民の好物でもあって「ガルギール」とか「ギルギール」などと呼ばれる。

 この草を本当に美味しく食べる工夫は、その茎の部分を取り除くこと。

 その小さくちまちまとした作業しかないのだと、母親には教えられたものだ。


 貴族の男には珍しく、父親が料理に通じていたせいもあるだろうが、母は日々、こういう細かい部分で手を抜かなかった。

 「味付けとか大胆さとかでは勝てないけれど、そのぶんこういう隠れたところで勝つのが、わたしなの」と母は言ったものだ。

 たしかに、いずこかの料理屋で食べたセルバチカのサラダはすでに雑な味がした。


「ただの水で煮て、ほんとにうまいのか?」

 レッソのほうも、シオンは心配だったらしい。

 野宿と同じくらい諸国を巡り、ときには宮廷に招かれたこともあるシオンだ。

 料理人たちの創意工夫に溢れた料理と比べたら、これはたしかに「うまそうにはみえなかった」だろう。

 気乗りしないようすでアシュレの取り分けた分を口にし、また目をいた。

「水で煮るだけでよいとは……なんだ……料理とは、簡単なものだな」

 アシュレ的には、シオンのお言葉に目をいたのだが。


 食事を終え、アシュレは武具の手入れをしている。

 本当なら食器などを片づけるべきだが、いまは戦時だ。大目に見てもらおう。

 それというのも、教会はおろか、いまこの村はアシュレとシオンを除き無人なのだ。

 枢機卿一行の歓待の名目で、多くの住人がカテルの都市に集められたからである。


 これはひとつには人海戦術によって使節の処理能力をパンクさせ、おそらくは隠された使命であるアシュレたち一行の追跡を困難にする目的で行われた作戦であった。


 そして、この作戦には別の側面もあった。

 すなわち人命の保護である。


 正面切っての戦争ならいざ知らず、数千名の大規模戦力が立て篭もる戦略拠点に正面から挑むような真似は、やはりいかに夜魔、土蜘蛛の精鋭であろうとも犯さぬ愚であったから、おそらくその上陸は秘密裏に、防御の弱い部分を狙って行われるであろうという予測は、すぐに立てられた。


 そこで、領民を非難させる方策が練られた。

 カテル病院騎士団の所領となってからすでに半世紀。

 領民はアラム側との幾度の戦いを経て、非常時には騎士団が守る城塞内へ避難することには馴れていた。

 戦場から遠のいたエクストラムとは、庶民の心構えからして違っていた。

 

 ただし、今回はあくまで枢機卿使節の歓待を目的とした宴への参加を促すカタチとなった。


 昼の間は自由に帰宅してよいが、夕暮れ前には歓待に参加することが推奨された。

 うまい誘導だとアシュレは思う。

 人間、祭りの機会は逃さぬものである。

 それでなくとも娯楽の乏しかった当時のことだ。


 農作業も漁もままならない荒天に、降って湧いた宴の、それも領主お墨付きの祝い事に参加しない者などいるはずがなかった。

 普段は口にできぬ料理や、上等なワイン、そして甘い砂糖を使った菓子にありつけるチャンスだったからだ。

 法王庁の枢機卿はお大尽であろうとも、やはり目されてもいた。


 そんなわけで、家畜たちのいななき以外には生き物の気配の絶えた村落で、アシュレたちはたったふたり、来るであろう刺客を待ち受けていたのだ。

 もちろん、闇雲に網を張っていたわけではない。

 夜魔には同族の接近を感知する力がある。

 それは生来の狩猟生物であり、強大な力と無限に近い寿命を備える夜魔という生物が互いの狩り場を荒らさないために発達した能力だ、とシオンはアシュレに説明した。


 シオンはその能力によって接近するガイゼルロンの追手――夜魔の大公に仕える精鋭:月下騎士団の上陸予想地点を割り出していた。

 おそらく月下騎士率いる小戦隊が、この村落から見下ろせる海岸線に上陸するであろうとの事前予想が立てられた。


 拠点防御であれば敵襲に備えて篝火かがりびが焚かれ、歩哨が列をなし、海岸線を見張るというのが通常の対応であっただろう。

 だが、それでは逆に被害が増す、とシオンは今回の防衛隊の直接的な指揮権を持つ男――つまり、ノーマンに進言した。


 そして、ただの人間がいくら見張りについたところで月下騎士の襲撃に気づくことはできないであろう、とも。

 それは夜の帳が日に一度、この世を覆うのを、人間の力を持ってしては防げぬくらい自明のことだと。

 文字通り影と闇に完全に同化し、その歯牙によって望むならいくらでも下僕を作り出せる夜魔の精鋭を相手に人海戦術を挑むことは愚の骨頂であると。


 また、月下騎士の行動に人類の考える仁義、道義を持ってあたることは危険であるとも説いた。

 すなわち――月下騎士たちの標的はシオンであるのだから、これ以外に危害は加えぬだろうとの考えでいることは危険だと。

 月下騎士たちは、その喉を潤すついでに進路上にある人家という人家を襲撃し、その民という民を鏖殺せしめるであろう、と。


 そこでアシュレとシオンはこの村落の人々を丸ごと、法王庁の特使歓待にかこつけて移送させたのだ。


 シオンが居れば、見張りはいらない。

 目視する必要すらない。

 それほどまでに、はっきりと夜魔の姫であるシオンは同族の来襲を感じ取れるのだ。

 この血の共振とでも言うべき能力は夜魔の上位種になればなるほど、精度も範囲も高く広大になるのだという。


 シオンは大公の直系だ。

 夜魔であるかぎり、これを欺くことはできぬ、と断言した。


 だから、その上陸地点に少数精鋭を配置する、と決めた。

 釣り餌であるシオンはいうまでもない。

 そこにアシュレが志願した。


 どのみち、アシュレの主武器である竜槍:〈シヴニール〉は市街地では危険すぎて最大能力を発揮できない。

 儀式の中心、カテル病院騎士団の深奥:〈コンストラクス〉の収まる地下通路内も危険だ。

 シオンとのコンビネーションもあり、即座にその提案は受け入れられた。


 連絡は、地下の司令室に設けられた文字盤をヒラリが指し示すことで行われる。

 相互の意思疎通も完璧だった。

 文字列だけでなく、地図に始まり、敵発見や、交戦中、危機的状況などを示すおおまかなアイコンも事前に決められ、配されている。

 じっさい、なかなか優れものだとアシュレは思う。

 

 また、シオンは村落の教会に赴くにあたって、いざというときヒトを欺くために尼僧の衣装を身に纏うべきだというノーマンの提案を受け入れもした。

 それは名案である、とノーマンを褒めもしたのだ。


 のだが、いまは、その尼僧の頭巾の上から、あの重厚な冠をかけているものだから――なんというか、背徳的というよりバチあたりな絵面が展開していたのだ。

 となりで〈ハンズ・オブ・グローリー〉を手入れするシオンに、だからアシュレは言うしかない。

「なにを着てもお姫さまに見える」と。


挿絵(By みてみん)


 んあ? と返答があった。

 むくむくとドルチェのアマレッティ(アーモンドペーストと卵白を使った焼き菓子)を頬張りながら、シオンはアシュレに視線を向けた。

 そういうところは、まったくお姫さまのようではない。

 むしろ武人だ?


「なんだ? 冠か?」

「うん。まあ、その、ちょっと目立つな、と思ってさ」

「わたしだって、わかっているさ。これがひどくアンバランスなことは。しかし、手放すわけにもいかぬ。いかぬようになってしまった」


 シオンのほうでも気にはなっていたのだろう。

 重たいその冠を外し、分厚い胡桃材のテーブルに載せた。

 ごとり、と鈍い音がした。


 そういえば、シオンはいつもこの冠を手放さない。

 アシュレはその由来を聞いてみたくなった。


「夜魔の大公の血統を証立てる品――〈アステラス〉――もとは、わたしの父の持ち物だ」

「〈アステラス〉――〈エフタル〉のなかでも、詩的表現のなかにあったな……。星……いや、主星、だったっけ? 星座のなかでも、その中心となり煌々と輝く星にだけつけられる単語だったような? アステリクス、って言葉で残っているよね?」

「そなた、やっぱり、考古学者になるべきだったのではないか?」


 アシュレの博覧強記ぶりにシオンは笑った。

 その指摘の通りだったからだ。

 

「でも、父の持ち物ってことは……それ、まさか、夜魔の大公、ガイゼルロンのスカルベリの所有物ってことかい? どうやって、持ち出したの?」

「もちろん、奪ったのだ。――ヤツの首からな」

「!」


 シオンの発言に、アシュレは心底、驚いた。

 それはシオンの父殺しの告白であると同時に、ガイゼルロン王崩御の報せでもあるはずだったからだ。


「それって……シオン……きみは……」

「いや、一秒と経ずにヤツは肉体を再建した。破壊されたのは、わたしの使っていた聖別武器のほうだった。だが、その一瞬に、わたしはこれをヤツから奪ったのだ」


 あのとき、手のなかにあったのが〈ローズ・アブソリュート〉であったなら、話は別であったろうがな。

 シオンは掌を見つめて言った。

 遠くを見る瞳。

 シオンがこういう目をするとき、その小さな頭蓋と胸の奥で過ぎし日の出来事がまざまざと甦っていることを、アシュレはもう知っていた。

 

 だから言った。


「そのときのこと、聞いてもいいかな」

 シオンの記憶を、過去を共有したい、という願いを込めて。


 アシュレの申し出に、シオンは驚いた顔をした。

 それから、その深い紫の瞳が濡れて、震えた。

 うん、と小さく頷く。

 アシュレは胸のうちが、上質のブランデーを飲み干したときのように、かあ、と暖まるのを感じた。

 遅れて鼻腔に、奥歯で酒を噛みつぶしたときの芳香が。

 

 ふたりが共有する心臓を通してシオンの気持ちが流れ込んできたのだ。


「上奏しに行ったのだ。夜魔は人間と共存できる、と。

 いや、むしろ、ヒトの作り出す夢は永劫に縛られた我ら夜魔を、ゆっくりと時間の流れにそって老いさせることのできる品を作り出すことさえできるではないか、と。

 その可能性を検討すべきなのではないかと」

 驚くべきことをシオンはさらりと言ってのけた。

 アシュレは一気に高まった気持ちの昂ぶりと拍動を精いっぱい押さえ込むようにして、聞き返す。

「スカルベリ――キミの父上は、その申し出を拒絶したの?」

 キミが――スカルべリとの対決したというのなら。

 そう訊いた。


「いや、そうであったなら、わたしは父に斬りかからなかっただろう。

 聖別武器を携えていたのも、いざというとき父を取り巻く側近どもを斬り伏せるつもりだったからだ。

 わたしは、父を護るつもりでいたのだ――そのときまで……あの計画を知るまでは」


 父は、たしかに夜魔の王には似つかわしくない奇矯な言動をする男ではあった、とシオンは語った。

 医者のように冷静な口調と涼しげな態度を崩さぬものだから、冷酷で遠謀深慮に長けた王者として恐れられていたが、その内面は違った。

 すくなくとも違うものだと信じていた。

 わたしだけは。


 シオンの口調に現われた隠しようもない父親への親愛の情に、アシュレは戸惑った。

 命を狙い、狙われるシオンとスカルベリ、ふたりの関係は憎悪と怨恨に彩られたものだという先入観があった。


 だが、たしかに以前、シオンが口の端に上らせたことのあるスカルベリの人物像には、どこか親しみ、いや、茶目っ気さえもがあった。


「そなたの混乱はよくわかる。上奏しに行ったわたしが受けた混乱と、それは方向性が逆だが、同じ性質のものだ」

 わたしが、あのガイゼルロンの宮廷で唯一信じ、心を開くことができた相手、それが我が父:スカルベリだった。


「喰えないオヤジ、というのが物心ついてからのわたしの感想だったのだがな」

 おそらく、人類で夜魔の大公の人柄、その真実について拝聴することのできた数少ない人間に自分はいまから数えられるのだという興奮に、アシュレはさらに高揚した。


 くすり、とシオンがそのアシュレの心の動きを感じ取って笑った。


「変わり者だけど……いい親父さんだったんだね」

 それはシオンの高潔さと、それ以上に行動に滲み出る慈愛の深さを見れば、一目瞭然のことだった。

 ガイゼルロンの宮廷で唯一信じられた。

 そうシオンが言う。

 で、あるならばスカルベリの養育がシオンの精神形成に与えた影響は計り知れないはずだ。

 アシュレにとっての両親がそうであるように。


「すくなくともわたしは、そう信じて生きてきたよ。

 わたしには変わり者なりに惜しみない愛を注いでくれた。

 ただ、なによりも、亡き母への愛はそれを上回っていた。

 娘であるわたしが嫉妬するくらいに。

 だが、そこが素晴らしいと思っていたのだ――あの晩までは」


 わたしが人類という種へ興味を抱いたのも、その手なる創出物が血の渇きを鎮める力を持つと教えてくれたのも、じつはスカルベリだったのだ。

 

 シオンはそう告白した。


 アシュレは大きな驚きを持ってその言葉を聞いた。

 だが、同時に深い納得も得た。

 シオンの夜魔らしからぬ発想、考え方の根底には夜魔の真祖の一柱:スカルベリの影響があったのだ。


「古い伝説――いや、もはや神話に近いお伽噺にあるね。

 むかし、むかし、スカルベリは夜魔ではなくヒトであったと。

 この世界を暗闇――暗黒時代から取り戻した九人の英雄のお話だ」

「“ザ・ナイン”――いろいろ脚色はあるが、あの話は基本的にはすべて実話だぞ」

「!」


 話が逸れるから、割愛するがとシオンは言ったが、アシュレはまた仰天させられた。

 幼心に母に読み聞かせられたあの英雄譚が実話である、とシオンは言ったのだから。

 だか、その一節に「医術王の堕天」として語られるスカルベリの離反は、ガイゼルロンが夜魔の国となる顛末てんまつで終わる。

 

 そのスカルベリが、夜魔の大公が――息女であるシオンに人類の生み出す文化、夢への理解、興味への萌芽ほうがを与えたというのか?

 アシュレは己が震えていることに気づけずにいた。


「考古学者の性がそなたにはあるのだな――思えば、そういうところ、スカルベリに似ておる気がする。

 いかんな――いま気づいたが、わたしは、ファザコンの気があるのか、これは、もしかして?」

 シオンが困ったように笑って言った。


「じゃあ、もしかして、人類と共存共栄できるかもしれないって話は、スカルベリとは以前からしていたの?」

「共存共栄、という議題を持ち出したことはなかった。

 幼いわたしにも、それがどれほど危険な話題であるかの分別くらいはついた。

 ただ、人類の文化について、血に替わって我らが命脈を長らえさせる方法について、語り明かしたことなら幾度となくあった。

 父はわたしの未熟で奔放な意見を決して否定しなかったし、同じく手放しで肯定することもなかった。

 黙って聞き入れ、自分の考え、意見を展開した。

 思えば、あれはわたしの考え、思考の力そのもの――《意志》を育ててくれていたのだな。

 ワインの味を教えてくれたのも、スカルベリだった」

 シオンの言葉には、はっきりと敬愛と尊敬があった。


「それなのに、なぜ?」

 だからこそ、アシュレは問うた。

 それほど敬愛した父を、尊敬と信頼に値すると信じた偉大な王を、どうしてシオンは弑しようとしたのか。


「ある晩、わたしは決定的な議論をすべくスカルベリを訪った。

 当時、血気に逸るガイゼルロンの若い貴族たちの間で人類国家を征し、支配体制を確立させ、家畜として人類を隷下におくべし、との機運が瞬間最大風速的に高まっていたことがあった。

 そして、その勢力を一部の老獪な古い貴族が秘密裏に支援し、穏健派を追い落とし、人類国家との全面戦争を引き起こそうという風潮があったのだ。

 わたしはその動きを知り、急進派の勢力拡大に手を打とうとしないスカルベリに国家方針の一新を求め上奏すべく――つまり、人類との共存共栄を打ち出してくれと直訴しに、そのための交渉に――出向いたのだ」

 我ながら青臭い理想論者だったとは思う。

 シオンは自嘲気味に笑った。


「その頃すでに人類の生み出す文化に心打たれていたわたしには、全面戦争など許せるはずもなかった。

 もちろん、父が難しい立場にあることを完全に理解していたかといえば、そうでもない。

 つまり、異文化に恋をして盲目になってしまった少女だったのだ。

 あのころのわたしはな」

 そう語るシオンの顔には歳経たワインのような深みがあった。


「思えば、融和政策へと国家方針の変更を性急に迫るわたしは、結局のところ領土拡大政策を唱えて全面戦争を煽る青年将校たちと、その根本においてあまり変わりがなかっただろう。

 だが、それでも、スカルベリはわたしとの会談を設けてくれた」

 人払いをさせ、来意を告げたわたしに、スカルベリはついてくるように促した。

 ガイゼルロン:イフ城の地下――王以外に立ち入ることを許されぬ暗く深い地下迷宮がシオンに追従を促すスカルベリの背後に、その虚ろな口を開けていた。


「おそらくそこはなかば魔術的空間――強い呪術で括ってある――だったのであろう。

 不思議な木製の迷宮であった。

 複雑な影を投げ掛けるランプシェード。

 熱を発さない明かりがいくつも揺れていたのを憶えている。

 長い沈黙に耐え切れず、わたしはスカルベリに己の考えをぶつけた。

 その道々で、幼いころ幾度となく繰り返したあの議論のように、大公とその息女である公人としての立場から解き放たれ、己の理想を言葉にしてスカルベリに叩きつけていた。

 あれは、じっと黙って、わたしの主張を受け止めていた」


 そして、唐突に、視界が開けた。

 シオンは言った。


「巨大な空間がそこにはあった。

 そして、巨大な生物の遺骸――聖骸とスカルベリは呼んだ――が吊り下げられていた。

 アンカーを打たれ、何本ものワイヤーで吊り下げられて。

 それは純白で、美しく、同時に吐き気を催すほど醜悪だった。

 あえて、たとえるなら――アシュレ、このたとえを許してくれ――この島の奥地、あの穴蔵の最深部で見た《ポータル》に……つまり《御方おかた》の死骸にそれは酷似していた」


 なんだ、という声が、わたしの喉から漏れていた――シオンは言った。

 これは、これはなんだ、と。

 その問い掛けに、スカルベリは振り返り言った。


「わたしの妻。キミの母だ」と。

 オルヒデア・アテン・ベリオーニ・ガイゼルロン。


「どういうこと……?」

「同じだよ、アシュレ。わたしにも、最初、スカルベリが、父がなにを言っているのか、わからなかった。

 だが、スカルベリがそう紹介した途端、遺骸の頭頂にあった純白の女の像、そのまぶたが震えた。

 ゆっくりと開いた。

 金色の虹彩がわたしを見て、微笑んだ――深い慈愛の眼差しで。

 わたしは直感した。

 スカルベリの言葉に嘘はない、と。

 ただ、ただ、同時にわかってしまったのだ。

 父は、そして、母は……もう、すでに」


 それから、スカルベリは言った。

 淡々とした、穏やかな口調で。


「きみなら、そう言ってくれると思っていた。

 きみにはすべてを明かしたい、我々が生まれた秘密、どうして夜魔が、ひいては、すべてのヒトならざるものどもが生まれ出でた理由。

 なぜ我々の住まうこのワールズエンデは、運命の括りがこうも脆いのか――容易に改変されてしまうのか。

 ヒトの文化――《夢》が、いったいなぜ我々に作用するのか。

 そして、再統合の刻。

 融和、さらに融合。

 この世界から苦しみと争いを消し去る。

 アセンション。

 制約を超え、規矩から逃れて、さらなる上位者へ、永劫を真に我がものとする――そのための」


 がくがくと、シオンが震えていた。


 己の《意志》によってではなく脳内で、あるいは胸中で、強制的に再生される、鮮やかすぎ、そして、完全すぎる記憶が、シオンに過日の恐怖と苦痛を文字通り追体験させているのだとアシュレにはわかった。

 シオンの胸の痛みは、アシュレには我が事として感じられる。


「シオン、わかった。もういい――いまは、もう」

 気がつけば震えるシオンを思わず抱きしめていた。

 現実を、存在を確かめられるように抱き返される。

 歯を食いしばり、声を殺したうめきをシオンがあげる。

 

 頭蓋の奥で吹き荒れる記憶の乱流と、それを振り払おうとするシオンの《意志》が戦っているのだ。

 やがて、強ばっていた指先から力が抜かれた。

 

 そっと引き剥がすように互いが身を離したとき、シオンの表情はいつもの、あの穏やかなものに戻っていた。


 アシュレは水差しに入れてあった赤ワインをゴブレットに注ぎ、渡した。


「気がつくとわたしは《スピンドル》を発現させ、スカルベリに切りかかっていたのだ。

 狂っているとしか思えなかった。

 スカルベリは、わたしの母は――」

 

 そして、わたしはあのふたりによってこの世に生を受けたのだ。


「すべてが疑わしく、信じ難かった。

 夜魔という種が、どうして生まれたのか――だれによって呪われた生を受けたのか、スカルベリはわたしに語ったはずだ。

 だが、その記憶を再現しようとすると、いまのようにわたしが壊れてしまいそうになる。

 それを抑制するために〈アステラス〉は必要なのだ。

 この《フォーカス》は着用者の精神を守る。

 だから、手放せない」

 

挿絵(By みてみん)


 笑ってくれ、アシュレ。

 わたしはこの王冠の能力に依存しているんだ。


「狂うのではないか、と恐いのだ」

 よほどアシュレが心配げな顔をしいていたのだろう。

 シオンのほうが先に余裕を取り戻してしまっていた。


「まあ……最近は、その、突然襲われる記憶再現という意味では……べつの、だな、そのこうなんというか、しあわせといったら、こう貞操観念を疑われるというか、だな」

「?」


 わからない、という顔をしたら、まるで拒絶されるみたいに掌で鼻面を押された。


「ちょっ、どういうこと?」

「やかましいっ。なにを言わせるのだ! このナチュラル・ボーン・ジゴロめが!」

「どういうこと?! ボ、ボクが悪いの? ナチュラル・ボーン・ジゴロってなに? どゆこと?」

「そなた、最近、芸風がイズマっぽくなってきておるぞ!」

 シオンの指弾を浴び、鳩みたいな顔になったアシュレを尻目に、シオンはさっさと宝冠:〈アステラス〉をかぶりなおしてしまう。

 顔が真っ赤だった。


「む。これでよい」

 さっきのこと、他言したらひどいからな、とシオンは念押しして〈ハンズ・オブ・グローリー〉まで着用しはじめた。


「シオン?」

「武装を急げ、アシュレ。来るぞ」

 来るぞ、とは無論、月下騎士のことに相違なかった。

 ついにシオンの感覚野にその襲来が、上陸地点が明らかとなったのだ。


 涙の跡も渇かぬうちに意識を切り替えるシオンの《意志》のありさま、その自律心の強さが、アシュレには逆に愛しく感じられるのだ。

 無論、愛する姫が戦地に赴くのに騎士が遅れをとっているようでは立つ瀬がない。

 アシュレもまた手際よく武装を整えていく。


 新調した鞍は馬上突撃には最適化されていないが、シオンを乗せて戦うことを想定して、ふたり乗りできるように融通が利く仕様にしてある。

 

 うまやで、ヴィトライオンが出番を待っているはずだ。




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