■第十五夜:水音に問う者
その夜は冬の嵐となった。
北風が吹きすさび、普段であれば山の陰となっているはずのカテル島東南部でも巻いた風に船が煽られた。
その風に雪が加わり、島の様子は一変する。
カテル島においては、嵐は慣れっこでも、地表に降る雪など生まれてこのかた見たこともないという島民は少なくない。
悲鳴のように鳴る強風と天から舞い降りる白魔の先触れに、島民の不安と一種異様な興奮が高まっていたその夜、島の沿岸を強風に逆らい航行する漆黒の船を見た、という者が現われた。
それは奇怪な――聖典に約束された終末の日に来るという死者の船のようであった、と証言する者さえいた。
激しい落雷が加わり、彼らの恐怖に拍車をかけた。
翌朝、鋭い衝角を備えた小舟のごとき姿をした棺桶の群れが焼け焦げ、砂浜に突き立っているのを島民たちは発見し震え上がる。
二重螺旋の刃を持つ剣の柄に高い峰々でしか見ることのできぬ高山植物で作られた花輪の紋章が、その棺桶には刻まれていともいう。
その棺桶のすべてには中身がなく――なにより恐ろしいことはその棺桶は内側から鍵がかかるようにできていたことだ、と島民は語った。
そして、彼らがそれを発見するよりもずっと以前に、暗闘は始まっていたのだ。
この夜、カテル市街は炎に沈む。
※
「どうかね、ジゼル?」
「“教授”と相部屋だとは……これはいささか、燃えるシチュ(エーション)と言わざるをえない……。なにがあっても言い訳できない、という感じがたまらない――というところですか」
しつらえのよい羽毛のベッドにジゼルは腰かけている。
癖毛だが、それが逆に豪奢な印象を与えるブロンドの髪が暖炉の炎に映えて、赤く照らし出されている。
甲冑の上からではうかがえなかった成熟した女性の肉体を、暖炉の明かりは陰影をつけて照らし出す。
やれやれ、と“教授”と呼ばれた男――ラーンは苦笑した。
「そうやって男を試す癖は直らんようだね」
「試しているように聞こえたなら、謝罪します。本気でした。ええ、本気です」
ジゼルの返答にやれやれ、とまたラーンはかぶりを振るのだ。
「燃えるシチュなどと、妙齢の女性が軽々しく口にしてはいけない。万が一、わたしが焚きつけられて間違いがあったらどうする気だね? わたしはオーベルニュとバラージェのふたつの名門を相手に争いを起すほど愚かではないが、男として枯れているわけではないのだよ?」
「それはつまり、ひとの許嫁に手を出すほど愚かではないけれど、人妻なら後腐れなく楽しめる、という意味でとらえて間違いないでしょうか? ないですね? それに、いまさら間違いだなんて、わたしと“教授”の間柄で?」
間違いなら、もう十年も前に済ませたはず。
平然とジゼルは告げる。
うぉっほん、とラーンは咳払いしたが、その表情には部下の言動をたしなめるためというより、過去の己の行いを恥じるようなニュアンスがあった。
手ずからブランデーをグラスに注いで渡す。
「キミからのラブレターは、まだ机の引き出しの奥にしまってあるよ」
「“教授”からのご返事も、厳重保管にて。
『バラージェ家の許嫁であるキミの愛をわたしが受け取るわけにはいかない』――あれは暗に『人妻ならそのかぎりではない』『肉体関係だけならかまわない』ということだと認識しています。
狡い。狡猾。女の敵。
治癒系の異能が得意であることは、ヒトによっては悪徳を助長させる。
証拠隠滅的な意味で」
醒めた口調と、すこし眠たげなまぶたのせいで内心は伺えないが、その紅い唇がブランデーに濡れて艶めかしく光っていた。
ラーンはトレードマークの片眼鏡を外し、神経質そうに拭きながら問い直した。
この部屋で醸成されているシチュ、ではなく、と前置きして。
「それで、実際のところ、どうなのかな? 聖騎士:アシュレダウの動向、その痕跡は。
さきほど、試してみたのではないのかね――キミお得意の――探知を」
「すこし気合いを入れすぎて、のぼせかけました」
「いきなりしなだれかかってくるから、驚いたよ。だいたい、あれはひどいな、生殺しじゃないか」
「失敬な。わたしが探知能力を使うときは、探知の有効範囲拡大に伴って意識が希薄になるのだから、“教授”は常にかたわらで待機が基本では?
《スピンドル》能力者以外に護衛などまかせられるわけがなく、この特務使節には他に能力者は“教授”以外いない。
つまり必然であった」
「キミ、最初から、それが狙いだったよね?」
「そんなバカな。なにを根拠におっしゃられるのか、枢機卿。
人聞きの悪い。
けっきょく、なんにもイタズラしてくれなかったみたいで“教授”には失望と言わざるをえないですね。
……役立たず」
男兄弟に挟まれて育ったせいか、それとも本人の資質なのか、あるいはオーベルニュの家の教育か、ジゼルの言葉遣いには、すこしおかしなところがある。
また、その冷静沈着な表層とは裏腹に、ときおり突飛な行動に出ることがあった。
これを天才的な資質と見るか、不安定な性情と取るかは判断の分かれるところであっただろう。
おそらく聖騎士の試験では、素行に関して落第寸前であったはずだ。
だが、それでも選抜を潜り抜けられたのは、家柄でも、オーベルニュ家が毎年聖堂騎士団に投下する寄付金の額でもなく、ジゼルの異能があまりにも希少であったせいだ。
足環と腕環、そして頸環からなる宝飾品の姿をした《フォーカス》:〈クォンタキシム〉――法王庁によって聖遺物に認定されたそれに適合した希少な《スピンドル》能力者――“聖泉の使徒”というふたつ名で、ジゼルが呼ばれる理由であった。
強力な探知能力を秘める〈クォンタキシム〉は、《スピンドル》適性だけでなく使用者の自我に多大な負荷をかける。
使用者は水を媒介にして連続するあらゆる場所に自らの知覚力を飛ばすことができる。
だが、それとともに自身を薄く引き伸ばされるような感覚を味わうことになる。
海のように広がる外部記憶世界に精神が投げ出され、そのなかで溶け消えてしまうのではないかという恐怖に耐えなければならない。
装身具のカタチをした〈クォンタキシム〉によって探知・探索の範囲を広げすぎた能力者は文字通り、自我を希釈され過ぎて二度と戻れなくなる。
薄められすぎた砂糖水がある濃度を境に、まるで味を感じ取れなくなるように。
そのような危険性を孕んだ聖遺物――それが〈クォンタキシム〉であった。
適応者は否応なく絞られる。
必要であれば自分を限りなく希釈し、その希釈液のなかから再び必要に応じて自分を組み上げ取り出すことのできる希少な存在。
それがジゼルの特異な才能だったのだ。
ラーンはジゼルの特異な言動と風変わりな性格も、その才能を支えているのではないかと睨んでいた。
すなわち、“物語の主人公に没入するように、自らの挙動も心の動きさえ簡単に差し替え、また別の物語を読めば、瞬時にそのようになれる”――卓抜した役者のようなメンタリティこそ、その根源ではないのかと考えていたのだ。
「それで、どれぐらい潜ってみたのかね?」
水が媒介する記憶の海に、という意味でラーンは聞いた。
「手始めだということで、近場をぐるりと。本体を掴んだわけではないけれど、匂いは感じました。
少なくともイグナーシュ領での探知に比べればずっと濃厚。
確実に近づいてます。追いつめる感じ」
「恐いね。キミ相手に浮気はできんな」
「ほう? 互いの浮気を許し合うという選択肢もあるのでは?
本気でないなら、わたし、たいていのこと許せてしまう性分だと自負していますが」
なるほど、それはある意味で理想的な夫婦像だね。
聖堂騎士の頂点たる聖騎士にあるまじき考え方を莞爾と受け流してラーンは片眼鏡をかけ直す。
この片眼鏡も同じく《フォーカス》であった。
ラーンの個人所有だが、イリスが所有するものとカタチさえ違えど、その効果は同じ〈スペクタクルズ〉だった。
オータム・リーブス=枯葉、という。
「その鷹揚にして寛大な夫婦観を備えるキミの意見として聞きたいのだが、彼――アシュレダウは、ズバリ、この島にまだいるのかね?
率直な意見を聞きたいな」
「はい――必ず」
ラーンの問いかけに、まったく迷いのない回答が返ってきた。
「根拠は?」
「女の勘、です」
「嘘だろう?」
「はい、じつは。――“味”がしましたから」
「なるほど……“味”ね、具体的には?」
ラーンの問い掛けに、ジゼルはベッドから立ち上がると、ラーンの膝の上に腰掛けた。
ブランデーが注がれたグラスを、机に置く。
「わたしは『これ、有望そうな』と思った対象の“味”は、記録・記憶することを心がけています。同性、異性を問わず、です」
「“味”というのは、どうやって計測するのかね?」
「舐める。噛む。しゃぶる。吸うなどです。当然、味覚のこと。それ以外になにか? “教授”、もしかしてわたしを馬鹿にしていませんか? 具体的に言えば接吻、さらに正確を期するなら“ベロチュー”によって、です」
真面目くさった顔で、ジゼルは言い、その記録に用いた器官=舌を出して見せる。
ラーンは笑った。
それはアシュレ坊も災難だったな、という笑いだ。
ベロチューでは表現がハシタナイから接吻にしなさい、と叱ることもない。
ジゼルはラーンの笑いを、冗談と受け取ったのだろう。
すこし、語調を荒げて言った。
といってもそれは、ごくわずかなものだったけれど。
「このわたしが言うのだから、これは間違いないこと」
「唾液鑑定士、とでもいうのかね? 興味深いテーマだな」
そう言って笑うラーンの唇を、突然、ジゼルのそれが奪った。
一瞬驚いた様子のラーンだったが、部下であり聖騎士であり、同時に聖職者であるジゼルの口づけを甘受した。
それは愛の行為に熟練した男の振舞いである。
そうして、ジゼルの唇と舌を味わいながら、ラーンはなるほど根拠のないことではない、と思う。
相手の情報を調査する、という意味でだ。
特に、水を媒介とするジゼルの異能と組み合わされば、それは絶大な威力を発揮する。
そして、このジゼルの突飛な行動も、ラーンにとっては人生を面白くする興味深い事例のひとつというわけだ。
どれぐらいそうしていただろう、おさまった語気のかわりに、こんどは呼吸を荒くしてジゼルが言った。
濡れた唇を手の甲で拭うジゼルの目は、いたって事務的だ。
「どうですか? これが、つまり、実践。いざというときの為に、このように様々な“味覚”を採録しておくことを、わたしは心がけているわけです」
しかし、やはり“教授”は美味しい、というジゼルのつぶやきを聞き流し、ハンカチで口元を拭くラーンの表情もまた、平静なままだ。
キミのも素晴らしいものだよ、とジゼルのそれを褒める余裕すらあった。
「しかし、アシュレ坊は、どうしたものかな? 長年、中央平野の懸念だったイグナーシュ領のオーバーロード討伐に成功。
聖遺物奪還の任の途中とはいえ、一度、報告に戻ってきてもよかったろうに。
それがないがために、このような大掛かりなことになってしまって、聖遺物管理課の責任者としても頭が痛いよ」
「〈デクストラス〉〈ハンズ・オブ・グローリー〉――法王庁から奪取されたふたつの聖遺物奪還が聖務であったわけですから、行きがけの駄賃としてオーバーロードを撃破、その後も主犯の追跡を諦めないというのは聖騎士の鑑、と褒めたいところですが。
むろん、それが事実なら」
「現場に残されていた戦闘の痕跡から、どうも〈ローズ・アブソリュート〉の使い手と、アシュレダウは共闘したことが推測されているからね」
「遺失されたとしていた聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉の最後の使い手こそ、夜魔の姫――夜魔の大公:スカルベリの息女:シオンザフィル。
〈ハンズ・オブ・グローリー〉を奪ったのが彼女であるというのなら、その辻褄も合う。
なんというか、バラージェ家というのは魔性に魅入られやすい血筋なのか。
考えの浅いこと。
たとえ一時的な共闘であったとしても、査問は免れないというのに」
アシュレの父:グレスナウの身に降りかかった事件の真相を知るのだろう、ジゼルがぼやいた。
非難というよりロマンチストの血統にどこか叶わぬ恋をしているような声音だと感じるのは、それがラーンだからだろう。
ジゼルをただの鉄面皮と考える連中とは、つきあいの年月、深さが違う。
「土蜘蛛の技の痕跡も検出された。
おそらくは夜魔の姫に付き従ってきたというはぐれ土蜘蛛の従者のものだろう。
失われた古代の王の血統だと聞いたが……イズマガルム・ヒドゥンヒ――塚の、とか古墳の、あるいは隠された、という意味だからね。
“ヒドゥンヒ”というのは土蜘蛛の言葉で」
ラーンの指摘にジゼルは頷いて卓上に腰かけた。
「それらしい気配も感じましたし。たぶん、間違いないでしょう」
「では、仮にアシュレの行動が本当に『聖遺物の奪還』であったとして、その追跡行の途中だとして、この島内で優に一月以上も、容疑者たちは潜伏し続けていたのだろうか?
アシュレはそれを追ってここまで来た?
カテル病院騎士団に気付かれることなく?
今朝方――もう昨日か――まで隠密を貫いていた我々の情報を察知するやいなや、これほどの歓待を用意してみせた連中を?
いや、それはありえないだろう」
むしろ、事情を話して協力を要請する程度のことは考えるべきだろう、とラーンは言った。
アシュレ坊は、あれでかなり頭の回る男だからね。
これはやはり、カテル病院騎士団にも注意が必要みたいだ、とそう感想する。
「それに、土蜘蛛の男はこれまで幾度も強力な転移の技で我々を出し抜いてきた。
連続で使えないとはいえ、すでに二月近くの時間が経っているのだ。
月齢も巡っているし、再使用は可能なはず。
痕跡を最小にして追跡を煙に巻くこともできたはずだ」
「カテル島は《閉鎖回廊》ではないから、強大な《スピンドル》エネルギーが確保できない。その可能性は?」
ふむん、とラーンは腕組みし、ジゼルに視線を流した。
下側から目だけを動かし見上げる仕草。
「それについてだけれど、試してみたかい?」
「驚きの事実が。まるで《閉鎖回廊》みたいに《スピンドル》が励起する。
回転が上がり過ぎて恐いくらいに。まるで――我らが法王庁敷地内のように」
ジゼル――とラーンがジゼルの軽口に言葉を挟んだ。
「失言でした。いかに聖務のための率直な意見交換とはいえ、《閉鎖回廊》と偉大なる法王聖下のおわします法王宮を混同しかねない発言は、不敬でした」
「いや、キミをたしなめたのではない。褒めたのだ。やはり、気づいていたのだね」
ラーンの称賛に、ジゼルは、ふふ、とようやく笑う。
「わたしの異能は他の多くの聖騎士たちと違って、ごくごく静かなものなので、派手なエフェクトなどはないけれど、」
ゆらゆら、とブランデーを掌の温度で温めながら、薫りを引き出すためにスワリングするような手つきでジゼルは言った。
いや、だからこそ――派手ではないからこそ、静かだからこそ、もっとも恐ろしい。
揺れるブランデーの水面を見つめながら、ラーンは思う。
「昔から法王庁の敷地内は、なぜか《スピンドル》の励起効率が良いのだけれど、ここ数ヶ月の高まり具合は少し特別だ。
そして、その感じと、このカテル島はよく似ている気が、たしかにわたしもするのだよ」
「なにかが起きている?」
「それを調べるのも、我々の仕事さ」
まあ、それはともかく、とラーンはジゼルに向き直った。
「アシュレ坊の動向、その推理――われわれふたりの見解を、簡単に照らし合わせておこうか」
言いながら、手慣れた様子で羊皮紙を取り出し、ラーンはその中央に“アシュレダウの動向”と書き記した。
「いつもながら、変わった記述法。落書きみたい」
「落書きはひどいな。箇条書きにするより、こちらのほうが発想が引き出しやすく感じてね。ある芸術家から学んだ方式なんだが」
さらさらとまるで地図を描くようにラーンは羊皮紙に自身の推理を描き出していく。
またたく間に羊皮紙の紙面が注釈とアイコンで埋まってしまった。
「“教授”、それは速すぎ。口を挟むスキがない」
「ああ、いや、ここに書き加えようと思ってね、とりあえずわたしの意見はある程度、列記、開陳しておかないと」
「アシュレの動向については、正直、不審な部分がいくつ見受けられます」
書き出された推理の地図を見下ろし、自らもペンを手にしながらジゼルが持論を展開した。
「たとえば?」
「たとえば、聖務の目的に掲げられたふたつの聖遺物のうち、〈デクストラス〉。これはもう、現存しないというのが、わたしの見立て」
ラーンの描いたまだ生乾きのアイコン=〈デクストラス〉を示す――を指さしジゼルが言った。
ほう、とラーンは相づちを打つ。
正直、法王から聖務を預かる枢機卿としては聞き流してはいけない発言だったはずだが、ラーンは咎めなかった。
善意や正義、体面や立場――本音を言い繕うことが、どれほど議論や意見を現実から遠ざけてしまうのか。
その身を持ってラーンは痛感してきた男だった。
闊達な意見交換の場に、とくに「正論」は無用の長物だ。
必要なのは、真に相手の主張の本質を汲み取ろうとする想像力・共感であって、「正論」はそれを阻む障壁でしかない。
ただ、このことを声高に唱えると、意見を偽装して相手を誹謗中傷する輩も湧いて出てくるから困ったものだ、とは思うのだが。
まあ、そのあたりはともかく、〈デクストラス〉の遺失については、ラーンも同意見だったのだ。
ただ、これまでの道程で、周囲に他者の目と耳のある状況下で、口に出してそれをジゼルと確認しあうことができなかっただけだ。
法王庁は一枚岩の集団ではない。
この使節団のなかにも何人もの枢機卿が、己の密偵を潜ませている。
宮廷陰謀劇、というのはそういうものだ。
だからこそ、いま、この状況で、ジゼルの見解を聞いておきたかった。
それも、ラーンが所見を述べる前の、プレーンな状態で、だ。
「なぜそう思うね?」
「イグナーシュ領に我々が到着して検分をはじめたとき、王家の谷が大きく抉られてクレーター状になっていたのを憶えていますか?
あれは、おそらく《フォーカス》が完全に破壊されたときの現象ではないかと」
ジゼルは推理の地図に絵と文字を描き込んでいく。
まるで女の子の落書きのようなタッチが、ラーンの整った筆跡の上に書き加えられてい様子はどこかコミカルでさえある。
表出する冷徹な雰囲気の美女というイメージとは裏腹に、どこか幼女的な気質さえ備えている、というのがジゼルという騎士のパーソナリティーだった。
そのアンバランスな精神のありようが、唯一無二の才能を支えていることを、もちろんラーンは熟知している。
ジゼルはラーンのそんな心の動きなど知った様子もなく、自らの所見を述べる。
書き進める。
「それも、どちらかと言えば対消滅的な印象。
残されていた遺跡の内部構造がもし、イグナーシュ王家に伝えられてきた秘宝:〈パラグラム〉であるなら、それと〈デクストラス〉は互いに滅しあったのではないか、と推察するものです」
格別に強力な《フォーカス》を破壊しうるのは、それに匹敵する《フォーカス》と、それが引き起こした異能の《ちから》だけ。ジゼルは言う。
うん、とラーンは頷く。話を促す。
ジゼルの真面目くさった口調と絵柄のギャップで惑わされそうになるが、主張は優れた戦士階級特有の観察力と洞察力に満ちたものだ。
信頼できる前衛職からの、傾聴に値する意見だとラーンは判断するのだ。
「おそらく〈デクストラス〉を弾核に、一〇〇メテル以上、もしかしたらもっとずっと上空から深奥に向かって打ち込まれたのでは、と。
それを可能にする長射程兵器は、わたしの知るかぎり聖騎士:アシュレダウの〈シヴニール〉以外に、ない。
どうやって、それだけの高度を稼いだかは不明ですが、共闘者が人外のものであるなら、手段はいくつかあったハズ」
ジゼルの意見から生じる自らの疑問を、ラーンは紙面を見もせずにどんどん書き留めていく。
ジゼルのほうもそうなのだが、描かれるのはどこか風刺がめいた人物や花柄のアイコンで要領を得ない。
「では、仮に〈デクストラス〉がすでに遺失したものだと仮定して、アシュレが追っているのは〈ハンズ・オブ・グローリー〉ということになる。
そして、目撃者の証言や状況証拠から、その場には聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉の使い手がいた――これは例の夜魔の公女、シオンザフィルと目して間違いないだろう」
「それらしき人物の目撃証言も複数ありますから、まず間違いない。そして、ふたりは、共闘した。イグナーシュの惨禍を拭うために」
なにかまずい感じに美化されたアシュレの似顔絵と、空想上の夜魔の姫がハートを描く関係線で結ばれた。
背景にバラの花を飛ばすのは、なんだろうか。
暗喩?
「その後、アシュレダウは聖遺物の奪還の続行を理由に、単騎で探索・追跡に赴いた」
「そして、その探索行には、カテル病院騎士団が関与していた。これも現地住民からの証言が多数あるから間違いない」
そして、その騎士の名はあまりに有名だ。
ノーマン・バージェスト・ハーヴェイ。
「だが、カテル病院騎士団側からの報告はない。
なにかの思惑か、それともカテル病院騎士団側も事情を把握していないか。
これは強力な札だが、切り方に注意しないといけないカードだと、わたしは考えている」
さて、ここから見えてくる状況はなんだい? ラーンは目だけで問う。
「入り乱れる複数の勢力――少なくとも、夜魔の姫、土蜘蛛の従者(?)、そしてカテル病院騎士団がいったいどこまで、手を結んでいるのか、あるいはいないのか。その連携に意思統一はあるのか、ないのか。
それを探る前にうかつに手の内を明かすと、ヒドイ目に遭う。そういう厄介な修羅場の匂いが、する」
ジゼルが即答した。
聡明だ、とラーンは思う。
簡潔に現在の状況がまとめられ、なにに留意すべきかが明確になっている。
簡単にできることではない。
「さて、そう考えると我々はどう動くのがベストかな?」
「アシュレがこの島に立ち寄ったこと、そして、少なくともごく最近までは滞在していたのではないかという推理をちらつかせてカマをかけ、ノーマンの名前を持ち出して、じかにカテル病院騎士団を締め上げ、問い詰めることもできる――けれど」
「その場合、裏で全部が繋がっていたら目も当てられないね」
我々の身の安全という意味で、とラーンは言った。
途中からであるにせよ、最初からであるにせよ、アシュレダウと夜魔の姫一行との間にいまだ共闘関係があって、さらにそこにカテル病院騎士であるノーマンまでも加担していたなら――ヘタに薮をつつけば飛び出してくるのは蛇どころか、怒れるドラゴンだ。
ここは彼らの本拠地なのだ。
立ち振る舞いには細心の注意が必要だ。
「なにせ、前法王の崩御と新法王誕生を報せる特使との建前で、戦力を送り込んでますからね、すでに我々も」
「最悪の事態を想定すれば、当然の措置だったとは思うよ。
剣は抜かずにこしたことはないが、用意しないわけにもいかないものだ。
左手の聖典を示しながら、後ろ手にナイフを構えて行う話し合いだよ、外交の席というのは。
実際、精鋭の《スピンドル》能力者二名、ガレーシップ三隻の人員約約七〇〇名のうち純粋な戦闘員が二〇〇とすこし、今回は漕ぎ手も罪人や奴隷ではないから、いざとなれば戦線投入できる。
これは中規模な都市国家を丸々ひとつ蹂躙できるだけの戦力だ。
むこうにもその意味するところは伝わっているだろうさ」
「そこに来て、十字軍発布を見せ技に使うなんて……カテル病院騎士団側の身になって考えるとかなり悪らつな――恐喝」
ラーンはまるきり他人事のようなジゼルの物言いに苦笑する。
「まあ、それにしても、パレードまで企画してあれだけ騒いでくれたんだ。もしアシュレ坊たちがいたなら、とっくに我々の到着を知ってしまっただろうね」
あるいは、あのお祭り騒ぎこそ、我々を確認するための策だったのかな?
相手の思考を読み解こうとするとき、ラーンはいちばん楽しそうな顔になるのをジゼルはよく心得ていた。
その上機嫌が、ジゼルにも感染する。
「後ろ暗いところがないのならば出てくるでしょうし――やはり、今夜の晩餐会で、すこしカマをかけてみますか?」
アシュレの首に草刈り用の大振りなサイズ――寓話に描かれる死神が掲げる巨大な鎌を描き込みながらジゼルが言った。
アシュレとの婚約は解約されたわけでなく、むしろアシュレが今回の聖務を果たし帰還したなら、本人のあずかり知らぬところで婚礼の用意さえ進めていたという噂の令嬢は、ご丁寧に髑髏のマークを書き添えることを忘れなかった。
「わたしなら、逃げるなあ。すぐに。転移が使えるほどの高位能力者と共にあるなら、できるかぎり遠くへ――例えば、アラム領とかね?」
「転移に特有の次元壁の波紋振動痕はありませんでした。わたしが遡れるのは数日前の痕跡までですけれど」
「まだ、島内にいる可能性が極めて高い、とキミは重ねて言うんだね?」
「自分の考えを他人に言わせようとする。それ“教授”の悪い癖ですよ」
それは、すまなかったよ。ジゼルの指摘にラーンは苦笑した。図星だったからだ。
「だとすると、できれば、今夜のうちにもう一手、指しておきたいね?」
「相手が水に触れていて、かつ、その水がわたしに繋がっているか、すくなくとも相手の近くにわたしと繋がる水脈に映らなければ、はっきりとした感知は不可能です」
「“姉妹たち”を数体、放っておこうよ? 海に流れ込む水源を遡らせれば、当たりを引く可能性が高い」
「数体などと、簡単におっしゃいますが、“教授”? それほど消耗するか、わかっていての発言ですか? 壊されると痺れるように痛いし……心が軋む」
なにか、甘い見返りを要求するようなジゼルの態度。
だが、ラーンは真剣な顔で言った。
「権力で勝っていても、ここは他人の土地だ。現実的な戦力では相手側に圧倒的な利がある。
前線から遠のいた権力者・為政者はしばしば忘れがちだが、暴力こそは最高の権力、いや、権力の本質だ。
つまり、現有戦力で負けている側のわたしたちは、むやみに戦端を開くわけにはいかない。
この状況ではキミの異能、いや、キミだけが頼りだ」
そっとジゼルのそれに手を重ねるラーンは、間違いなく“たらし”だった。
「わたしのために生み出してくれないか――とか、そういうセリフが欲しいですね。たとえ、うわべでも」
「生み出してくれるね?」
枢機卿になるより女衒になったほうが才能を生かせたのではないかというほど見事な変わり身で、ラーンは躊躇なく言った。
その言葉にジゼルの頬が、かすかに薔薇色に染まったように思えた。
こくり、と頷く。
「しかたないな。では……もう一回、温泉に浸からないと……ついてきて、わたしの手を握っていてもらわねば」
「当然じゃないか」
仲睦まじい夫婦のように、ふたりは身を寄せ合う。
だが、“姉妹たち”=正確には《シスターズ・オブ・ピスケス》と呼ばれるその異能こそは――恐るべき諜報能力を秘めたジゼルの分身を放つ、紛れもない軍事行動、強行偵察であったのだ。




