■第十四夜:代理人とユニコーン
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「本来これは、ダシュカマリエ大司教に直接にお伝えすべき事柄であるのだが、重篤者の緊急施療中とあっては、いたしかたあるまい。
ゆえに、カテル病院騎士団騎士団長であるザベルザフト・コルドバ卿に、まずは、我らの来意をお伝えしたい」
その立ち振る舞いから“教授”と呼ばれる男:ラーンベルト・スカナベツキは緋色の衣を身に纏い、穏やかな声で告げた。
騎士団長:ザベルザフトは騎士であったが、同時にカテル島の統治者として伯爵に匹敵する地位を持つ。
“卿付け”はそれゆえであった。
ゆっくりとカテル病院騎士団側の事情に理解を示しながらラーンベルトは来意を告げる。
しかし、その内容は、おだやかな口調とは裏腹に衝撃的なものだった。
「大いなる悲しみを持って、わたくしは敬虔なるイクスの民である皆さんにお伝えせねばなりません。じつは、先だって法王:マジェスト六世が崩御なされました」
「ベネストス枢機卿、それは……」
到着直後に設けられた会談の席上で明かされた来意に、ザベル以下騎士団の重役たちからも嘆息が漏れた。
ちなみにベネストスとはラーンベルトが治める教区の名である。
枢機卿に限らず通常高位聖職者たちは、治める教区の名で呼ばれることがイクス教圏では常だ。
つまり、ダシュカマリエも正しくはカテル島大司教と呼ばれるべきなのだ。
「皆さんの心痛、動揺、わたしにもよくわかります。
マジェスト猊下は、わたしにとってさえ、本当の父以上の方でしたから。
ですが、どうか心安らかに。
そのためにわたしは参ったのですから。
心配には及びません。
お話にはまだ続きがあるのです。
そして、どうか、わたしのことは今後、ラーンとお呼びください。
皆さんの兄弟……少しばかり年嵩の兄だとでも思って」
言葉だけを捉えればマジェストの崩御への悼みと同時に、同胞に対する親愛の情に溢れたものであった。
だが、ラーンのかたわらに席を得たザベルは、この男の心が少しも揺らいでいないことを見抜いていた。
そして、それはザベルもおなじであった。
どういうわけか今回に限り、異常とさえ思えるほどに厳重な箝口令を敷かれていた法王崩御の報を、騎士団の援助者である貴族たちを介して、わずか数日の差ではあったが、ザベルはすでに得ていたのである。
すくなくともこのとき、カテル病院騎士団の裏方を担当する重役たちは、そのことを心得ていた。
ザベルの口にした諜報戦の火蓋は、実はとっくの昔に切られていたのである。
ただ、続くラーンの言葉はカテル病院騎士団が、まだ得ていない情報――まさしく最新のものであった。
「ひと月を超える長い法王選定会議を経て、新たなる、まさに時代を切り開くべき若き法王が誕生なされた悦びを、同時にお伝えするものであります」
「若き新法王――そのお名前とは?!」
法王の退位は本人の意志か、逝去を持って行われる。
基本的に法王に選出されるのは五十代以上の年齢を迎えた高位聖職者に限られていたから、自ら望んでイクス教会最高の権力を手放す者など、これまでの歴史上ほとんどいなかった。
つまり、法王の退位とはすなわち死去・逝去を意味することが世の慣習であった時代である。
そして、法王の退位と同時に枢機卿団は、すぐさま新法王の選定に乗り出さねばならない。
地上世界における神の代理人として世界に範を示し、神の言葉を伝えるイクス教世界の精神的支柱としての法王の座を、空位にしておくことなど許されなかったからだ。
法王庁の中庭にテントを張り、投票形式で行われる選定会議はコンクラーベと呼ばれた。
法王には巨大な権力と利権――たとえば新たな枢機卿の任命権が与えられるため、会議は長期化、紛糾することがしばしばであった。
ありていにいえば、コンクラーベとは宗教の姿を借りた政治闘争の場なのである。
「その名は――」とラーンはそこで一呼吸ついた。
自らの言葉を受け止める準備を皆に促すために、そして、その効果を最大のものとするために間を取ったのだ。
それから、告げた。
「ヴェルジネス一世猊下――元ヴァレンシーナ枢機卿……マジェスト六世猊下の姪にあたられる方。
レダマリアさま、と言ったほうが皆さまには通りがよろしいか?」
「! たしか、まだ十八歳であらせられたと記憶しているが」
「いかにも。そのレダマリアさまであらせられます。
その方こそが、マジェスト六世猊下の遺志と事業を引き継ぐ、我らイクスの子の新たなる導き手とならせられたのです」
ラーンは長いコンクラーベのなかで、レダマリアが法王選出の規定数である三分の二の票数を獲得するに至った経緯・過程を、かいつまんで伝えた。
そして、これまで前法王の崩御と、直後に開催されていたはずのコンクラーベが公表されてこなかった――密葬と秘事――その理由について語ったのである。
すなわち――レダマリアに天啓が降りたという事実を、だ。
神の代理人としての指名を受けた、という。
枢機卿団は、その事実確認のために一月以上も、法王崩御とその後の顛末に関する事実を公表できなかったという。
ザベルは驚きを隠せぬ口調でラーンに問うた。
「だが十八とは、若い。あまりにお若い」
そこに否定的な色が乗ることをザベルは否めなかった。
天啓が降りた、指名を受けた――すなわち他ならぬ聖イクスから。
にわかには信じがたい報であった。
法王庁の宮殿は狐狸毒蛇の潜む魔窟である。
いや、だからこそ、その魔窟を生き抜いた魔物――歳経た枢機卿たちは、ほとんど魔術的な政治的手腕を獲得するのだ。
オーバーロードや魔の十一氏族だけではない。
異教徒の侵略や、領土拡大の野心を隠そうともしない強大な専制君主国家が胎動の兆しを見せているこの世界情勢のなかで、若さや情熱、正義感だけではいかんともしがたい事態、事案への対処が法王には数多く課せられる。
いかに天啓があったとて――それすらも、権謀数術に長けた枢機卿たちの、レダマリアを担ぎ上げるための方便であるかもしれない。
いや、そうであると見なすべきだったろう。
年齢から来る経験の不足は、いかにしても為政者として、拭いがたい不安要素であった。
ヴェルジネス――。
アガンティリス期の言語:〈エフタル〉では“乙女”を示すその名前も、可憐・清廉ではあるが同時に“純粋”であることの“悪”をザベルには感じさせるものでもあったのだ。
七つの大罪に挙げられる“憤怒”を象徴するのは、獅子や熊といった肉食獣ではない。
清純な乙女の象徴である“ユニコーン”だったのだから。
あまりに清冽、清潔に過ぎる名に、ザベルは戸惑いを覚えるしかない。
だが、そんなザベルの意を汲んだのであろう。
ラーンは噛んで含めるように言った。
「はい。ですから、我ら枢機卿団だけではなく、宗教騎士団の皆さまにもご協力いただき、ぜひともにヴェルジネス法王猊下を盛り立てていただきたく、お知らせとともに、その要請に枢機卿であるわたしが出向いて参ったしだいです」
ザベルの拳に少年の物のようなすべやかな掌をかぶせながら、ニコリと笑う。
笑顔になった時だけ、その目尻に生じる深いシワがラーンの実際の年齢を示していた。
その姿はあまりに若すぎる――少女法王の誕生に動揺する同胞を力づけようとする年長者の態度に見えただろう。
だが、ザベルの胸中に渦巻いていたものは、単なる動揺ではなかった。
たしかに大事ではあるが、この程度のことを知らせるのに枢機卿がわざわざ出向く必要はない。
法王庁の大使をひとり送ってくればすむことである。
天啓という方便に信憑性を持たせるため、と言えばこれはなくもないが、それでも全権委任大使で充分であろう。
だのに、そうであるのに、ラーンは来た。
政治闘争に明け暮れる他の枢機卿ではなく――聖遺物管理課、その首領自らが出向いて来た。
すくなくともラーンには、このような辺境、それも異教徒、魔の氏族との闘争の最前線であるカテル島くんだりまで、わざわざ訪れるだけの理由があるのだ。
そしていま、カテル島には、ダシュカマリエの予言によって身を寄せる聖騎士:アシュレダウ、さらにはその共闘者となった夜魔の姫、土蜘蛛の王まで滞在しているのだ。
無関係だと考えることはできない。
対処を誤るわけにはいかない。
上辺の案件に惑わされることなく、ラーンの真意を見極めねばならぬ、とザベルは思った。
「ラーン枢機卿猊下の仰ること、いちいちごもっともです。
我らカテル病院騎士団は、我らの背後に控えるすべてのイクス教徒の盾と自負しておりますれば。
ヴェルジネス新法王猊下の御為に、いっそう励むことお約束いたします」
社交辞令としての返答をしながら、しかし、ザベルはさらに考えを巡らせていた。
新法王の誕生とその根回しに来たと告げたこの使節だが、用件を剥ぎ取り、その実に目を凝らせば、これは聖遺物管理課本営が出向いてきたと考えるべきではないか。
まず使節の長を務めるラーンだが、彼は枢機卿にして極めて珍しい《スピンドル》能力者である。
その名称から聖遺物の回収、分類、修繕と保管に明け暮れる部署と思われがちな聖遺物管理課であるが、これは誤解であり、実際には法王直属の強力な特務官としての役割を担う組織である。
その特務性・特殊性を端的に示す職務こそ“聖人認定”である。
彼らは各教区からの報告に基づき、西方世界のあらゆる場所に赴き、聖人の認定――つまり、その真贋を判断する。
聖遺物管理課に持ち込まれる聖人認定の依頼、そのほとんどが“否”と判断される。
それは“奇跡”などそうそう転がっているものではないという証左であると同時に、強大な“悪”――つまりオーバーロードや魔の氏族が関与する案件が少なくないということでもある。
極まった《ちから》は、たしかに“奇跡”に極めて近い。
聖遺物管理課はこの案件を「解決する」ところまでを、その聖務とする。
現在二十二名在籍するエクストラム法王庁の聖騎士のうち、約三割、じつに七名がこの部署に在籍する理由もわかろうというものだ。
アシュレはその精鋭のひとりであったし、ラーンこそはアシュレの師匠にあたるのだ。
そして、そのラーンの護衛に聖遺物課には、現在:七名しか在籍しない聖騎士のひとりが出向いてきた。
ジゼルテレジア・オーベルニュ。
弱冠二十三歳の女騎士はエクストラムの名門:オーベルニュ家の息女である。
幼少期に《スピンドル》を発現させ、才媛として英才教育を受けてきた精鋭中の精鋭だ。
気位ばかり高く柔軟性の足りなくなりがちな貴族階級出身者とは大きく異なり、冷静沈着な判断力と柔軟な対応力、常識にとらわれない発想を買われた娘だ。
聖騎士としては、若干以上型破りな存在らしいが、その美貌と特権意識にとらわれない人柄から、エクストラムの庶民には人気が高いと聞く。
父親は武名だけでなく文化人としても各国に知られた男で、ご婦人方からの人気も高く、いくつかの戦争で捕虜となりながら敵側のご婦人方からの助命嘆願や、敵軍の将、はては国王に気に入られて無傷で帰還すること数度という遍歴の持ち主だった。
人気を得る術に長けた一家の血を、娘も継いでいると考えるべきだろう。
ラーンベルトとジゼルテレジア。
おそろしい組み合わせだとザベルは思う。
権力と外交能力を兼ね備えた神学者、人望を勝ち得るほどの実力と魅力を備える聖騎士――そのどちらもが《スピンドル》能力者であるのだから、実質このふたりだけで重装騎兵数百騎に匹敵する戦力――互いの能力の相乗効果を考えれば、あるいは互いが一騎当千、いや万の軍勢に迫る、と呼んでさしつかえない脅威であった。
なにも武力だけが国家を切り崩す手だてではない。
むしろ、そうでないことのほうが多いのだと、ザベルは身をもって知り抜いていた。
男性であるラーンが入り込めない場所であっても、ジゼルならば入り込める。
その意味でも死角のない編成であった。
だから、やはり、これはこのカテル島の内情視察――まずはアシュレたちの動向の確認と、ふたつの聖遺物:シオンの持つ聖剣:〈ローズ・アブソリュート〉とそれを操ることを可能とする加護を与える聖なる籠手:〈ハンズ・オブ・グローリー〉の探索、そして、イグナーシュ領のあの夜から続く大きな運命の流れに関わることなのだとザベルは改めて確信した。
「そのお言葉をいただき、やはり、今日こちらに直接出向いたことは間違いではなかった、とこのラーン、感激に打ち震えています」
法王猊下の勅書をこれに、とラーンが合図すると、背後に控えていたそば仕えの僧がうやうやしくぶ厚いベルベットの布に包まれた手紙を差し出した。
ラーンは馴れた手つきで封蝋を切り、その勅書を読み上げた。
ヴェルジネス一世の直筆であるというそれを聞きながら、ザベルはいつしか肉体がおこりのように震えるのを止められなくなっていた。
「我、神の代理人にして、汝らのイクスの子らの母であるヴェルジネス一世は、光臨者の指輪を前にして、いま、ここに第十二次十字軍の発動を宣言するものである。
心ある者、その心に正義を持つ者、神より王権を賜りし王者、そしてすべてのイクス教者は、我が軍勢に参画せよ。
聖地:ハイア・イレムを奪還する!
神が、それを望んでおられる!」
――十字軍!
その響きにザベルの血液は一瞬にして沸騰した。
それは異教徒との戦いに半生をすでに捧げてきたものだけが感じられる心の動きであった。
資金は寄越しても兵力を寄越すことなど、まずない西方諸国のことだ。
足並みが揃わず大敗を喫した前回の十字軍解体から、すでに五年近くの時日が流れている。
マジェスト六世の前々任者がぶち上げたそれは、十年以上の長きに渡り東西情勢を引っかき回した揚げ句、結局のところアラム勢力の東進活動に火をつけただけで、多くの辺境諸国が地図上から消し去られる格好になった。
いま原理的な教義を掲げ移動宮廷を率いて戦うエスペラルゴ帝国も、そうやって揉み消された国家群を吸収したものだというのが実情だ。
一方で前線から遠く離れたエクストラム法王庁では、提唱した本人の崩御を持って「終息したもの」と第十一次十字軍は見なされていた。
つまり、最前線の兵たちは見捨てられたのである。
そして、当時、窮地に陥り蹂躙される同じイクス教の国々を、カテル病院騎士団は対岸で指をくわえて見ていることしかできなかった。
バラバラな各国の王たちの思惑と、当時の法王たちの独善的な采配が、その主たる原因である。
戦略的撤退の上申を聞き入れず、現場と兵站を無視した命令が次々と発せられた。
さらに隣国で内乱が起きている情勢下で、そのような大規模な軍事行動を固持し続けた現実への認識力のなさが、多くの人命を無駄に散らせた。
ザベルたちカテル病院騎士団、そして他の宗教騎士団もまた、迷走する十字軍の動向に翻弄されるカタチとなったのだ。
対応は遅れに遅れ、友軍の大敗を招いた。
消えた騎士団もひとつやふたつではない。
長引いた戦役に倦んだのか――現場を軽んじる風潮が、当時の法王庁には満ちていた。
その法王庁が、法王が、まず第一に自分たちを頼ってきた。
それも十字軍発動の勅書とともにだ。
計画の当初から、根幹から参画せよ――そうヴェルジネス一世は言っているのだ。
この呼びかけが琴線に触れぬのなら、それは武人としては不能と言ってよい。
もちろん、法王に祭り上げられ頭に血の上った小娘の世迷言と捉えることもできる。
いや、まずは捉えるべきであろう。
だが、たとえそうであっても、いま、このタイミングで仕掛けてくる揺さぶりとして、これはじつに効果的な、これ以上ない手であった。
やれるものならやってみろ。
十字軍を起すとでも言うのなら、やってみろ。
先立ってノーマンに語った己自身のセリフが、ザベルのなかで反響した。
目の前の男――“教授”は、こうも言っているのだ。
「おとなしく我らの捜査に協力するなら、よし。
だが、我が意を阻むなら、十字軍の矛先がどこへ向かうかはよくよく考えろ。
――全面戦争も辞さず。
異教徒、魔の氏族、オーバーロード、そして不信心者のことごとくを踏みつぶす決意が我らにはあり」と。
法王庁はともかく、ヴェルジネス一世の――そして、その特使を買って出た聖遺物管理課の意志は明確だった。
もし、特使である自分たちになにかあれば、そして、その聖務の遂行を阻むものがあれば、法王庁は先んじて全面戦争を仕掛ける覚悟がある。
カテル病院騎士団に対して。
そう、この勅書は告げていると捉えることさえできる――いや、そう捉えるべきだろう。
カテル病院騎士団は機先を封じられ、さらに喉元にナイフを突きつけられた格好になったのだ。
十字軍発動への直訴を先んじて実行されただけではない。
特使の安全と、特使が帯びているであろう秘された聖務の遂行に関する保証を法王庁はいまこのとき、捩じ込んできたのだ。
そして、少なくとも後者に関して、その完遂を――すなわち、聖騎士:アシュレダウと次世代を導くべき“救世主”の母:イリスベルダの捜索と捕捉という特使の任務を――カテル病院騎士団は許すわけにはいかなかったのである。
“救世主”の誕生を、その母たる“再臨の聖母”をこの世界に生み出す儀式の秘密を――決して知られてはならない。
ザベルはそう肝に命じた。
まずはここに逗留し天候の回復を待ちたいと申し出る枢機卿の言葉に、ザベルは粛々と従った。
法王庁の使節は、これでカテル病院騎士団の監視と護衛を受けながらではあるが、カテル島内での行動の自由を手に入れたのである。
それはカテル病院騎士団が戦力の分散という愚を知りながら犯さねばならぬ窮地に陥ったと言い換えてもよい。
難しい戦いの始まりだった。




