■第六夜:バラの孤島
「飲めるか」
手渡された瓶を受け取るべきかどうかアシュレは躊躇した。
気がつけば座り込んだヴィトライオンの背に身体を預けるようにして介抱されていた。
礼を言うべきだったろう。
命を助けられ、倒れ伏した己を介抱してもらったのだ。
それは返しても返し切れぬ恩と言ってよい。
だが、それも相手が夜魔の姫でさえなければ、だ。
「案ずるな、毒など入っておらぬ。そんな回りくどい手を使わずとも、そなたが気を失っている間に寝首を掻くこともできたのだ」
それでも恐いか、とそう問われたようでアシュレは薄紫色の液体を一気に飲み干した。
陶然とするほど旨かった。
自然な甘味があり、馥郁たる芳香は、まさしくバラそのものを口に含んだかのよう。苦しかった呼吸が嘘のように楽になる。
「あ、ありがとう」
どもりながらだが、なんとか言えた。
ん、とシオンは微笑んだ。
どきん、と胸に別の苦しみを覚えてアシュレは狼狽した。
氷の彫像のような美貌に感情の色が宿る時――特にシオンの場合は笑顔が――抗い難い魅力を生じるのを、きっと彼女は自覚がないのだろう。
その微笑みが仇敵だという認識を聖騎士であるアシュレに、一時にせよ忘れさせるほどの魔力があるのだということを。
そのアシュレを、イズマがジト目で睨んでいた。
混乱した状況のさなかで見落としていたが、このイズマも分類上、人類の敵にカテゴライズされる種族なのである。
土蜘蛛と言い習わされる暗闇の種族。地下世界の支配者であり、呪いと薬品と金銀の加工術に優れ――なにより謀略に通じた忌むべき種族。
その男が敵意ある視線を向けてきていた。
「姫のは飲めても、ボクちんのは飲めませんかッ」
「いや……そういうわけではなく」
「言いわけ無用に願いたいねッ。ボクちんはヒジョーに気分を害したよ」
いいもんね、これはボクちんが飲むもんねー、とイズマは問題の薬品をあおる。
「お子様には夜魔の甘ーいやつがお似合いさ。そのへん年季の入った大人の飲み物はやっぱコイツだね。この苦味と酸味の絶妙なコラボレーション。微発泡。爽快な喉ごし。他にはないよ」
聞かれてもいないのに自らの薬液がいかほど優れているか講釈を垂れながら、横目でアシュレをちらりちらりと気にするあたり、この男の性根というものが知れた気がした。
一気に飲み終え、ラベルを眺めていたイズマの眼光が突然、鋭くなった。
むッ、と声がした。
「賞味期限が三〇〇年……過ぎとる……だと」
むぐわあー、と大の男が地面を転げ回った。横では羊が餌をもぐもぐと食んでいる。
やかましいッ、とシオンがみぞおちに蹴りを入れ、イズマは静かになった。誰もが知る人体の急所だったが、本人は喜んでいるかもしれないのでアシュレは黙っておくことにした。
ふしぎなことに荊の茂みの奥は清浄な空気に満ちていた。
三人と二匹の乗騎は、その奥まった場所にある空白地で休息を取っている。
「〈ローズ・アブソリュート〉のせいで、荊そのものがわずかだが神気を帯びたのであろう」
こともなげにシオンはそう説明した。
なにから問い詰めるべきかアシュレは迷った。
その手が、かたわらの〈シヴニール〉に触れた。
侮ったのか、それとも信じられているのか。その威力を見ているはずなのにシオンはアシュレの武器を奪わなかったのだ。
アシュレが昏倒している間に、いかようにもできたはずなのに。
「命を助けられた。礼を言う。借りを返したいが、いまは聖務にある身。いずれ丁重に」
口をついたのは詰問ではなく、礼だった。
座したままだが、深々と頭が下がっていた。
「礼などよい――そなたの潔癖さは好ましい。だが、固い。もっとしたたかに、しなやかに生きねば折れるぞ。槍も、そうであろう?」
やわらかな声で諌められ、アシュレは自分が子供扱いされていたことを思い出した。
そのことを訂正しようとした。ボクは男だ、大人の、とシオンの目を見て言った。子供ではない、と。
「で、あろうよ。ならば次は助けられるのではなく、助ける男になることだ」
ぐうの音もでなかった。人生経験に圧倒的な差を感じた。
「そういえば名を聞いていなかったな」
歯噛みするアシュレにシオンが言った。
追うべき相手に名乗れと促される状況に混乱しながらも、アシュレは己の礼節に従う。助けられた相手に名乗らぬなど、礼を失するにもほどがある。
「アシュレダウ・バラージェ。エクストラム法王庁の聖騎士。聖遺物奪還の任にある」
「シオンザフィル・イオテ・ベリオーニ。ゆえあって家とは決別している」
「イズマガルム・ヒドゥンヒ。偉そうな肩書きは、なにもない」
転がったままイズマが言った。
仲間に入れて欲しそうだったが、アシュレもシオンも互いの視線を固く絡ませたまま見向きもしなかった。
痛みではないなにかがイズマの涙腺を緩ませていた。
寂しさ、だった。
「バラージェ家ということはお父上はグレスナウ――グレイ殿か?」
互いが名乗りを終えたとたんに父の名を言い当てられ、アシュレは、ますます混乱することになる。
バラージェ家は伝統ある貴族の一門であるから、当主の名を他国の人間が知っていても、おかしくはない。
だが、相手が人類の仇敵たる夜魔となれば話は別だ。
たしかに、あの聖遺物の目録にあった、彼女の素描は父:グレイの手なるものであったが、まさか――アシュレは混乱のままに答える。
「いかにも、そうだが」
瞬間、シオンの表情が花が咲いたように明るくなった。
合点がいったという顔つきだった。
「そうか。ではそなたはグレイ殿のご子息か。どうりで、同じ匂いを感じるわけだ」
「父を――どこで知った」
「戦友であった」
迷いのない答えがシオンの唇からこぼれた。
否定するにはシオンの物言いは、あまりに誠実すぎた。嘘だとはとても思えない。
なにより父のことを尋ねるシオンは、うれしそうに顔を輝かせているではないか。
「お父上は、お元気か」
「父は――死にました。戦死です。十字軍で。立派に戦ったと。法王猊下より勲章も賜りました。黄金の薔薇――ローザ・デ・ドーロの袖章を」
シオンの素直な喜びようにあてられ、アシュレも口調を改めざるをえない。
そして、事実を告げられ、ごっそりと感情の抜け落ちたシオンの顔に、アシュレはショックを受けた。
シオンの心に突き立った痛みと悼みが自らのことのように感じられた。
なぜかは、わからないままに、そう感じている自分を発見して、また動揺する。
「なぜ……十字軍などに」
「志願した、と聞いています」
「ありえん。グレイは――失礼、お父上はそのような男ではなかった。他民族・他種族の絶滅に血道を上げる十字軍などという世迷言に加担などするはずのない聡明で立派な男だった」
父について息子であるアシュレより熱く語るシオンのことが、ふしぎに思えてならなかった。シオンと父・グレイとの間にいかなる関係があったのか、知らずにはおれなかった。
「〈ハンズ・オブ・グローリー〉を預かってもらったのだ」
なれそめを尋ねれば、シオンは躊躇なく教えてくれた。
「あれはもう十年も前になるか。
あるオーバーロードと対峙した時、たまたま同じ敵を相手取ったことがあってな。痛み分けとなったそのとき、わたしは血を失いすぎ、夜明けが迫っていた。
いかにデイ・ウォーカーと言えど、衰弱している時の日光は致命的なことがある。すぐにでも暗がりで休息を取らねばならなかった。
そこで〈ハンズ・オブ・グローリー〉が足枷になった。
これを装備したままでは影に潜れないのだ。現世の物質の多くは影を持つゆえ私達が《影渡り》しても持ち運べる。しかし、真の聖遺物は別だ。
アストラル方向から見て、それらには影がない。
自身が内側から光るからだ。手詰まりだった。そこにグレイが申し出てくれた。自分が預かる、と。
身体が復調したら、取りに来て欲しいと」
恋した昔の男を語るような口調で言うシオンを、アシュレは惚けたように見つめることしかできない。
「聖騎士というのが全てそうであるのかは知らんが、わたしの知る男たちは器の大きなものたちであったよ。
偏見がなく、聡明で、義理堅い。誇り高く、名誉を重んじるが、現実を見失うということもない。ルグィンといい、グレイ――お父上といい」
「姫は騙されたんじゃないんスか。男は騙しますからねー」
村八分にされたおかげで、すっかり卑屈になったイズマが、茂みの暗がりからものを言った。
「ありえない」
父の名誉のために口を開きかけたアシュレに先んじて、シオンが断言した。その目に怒りが燃えている。
アシュレは胸が熱くなるのを感じずにはいられない。
「グレイはそんな男ではない。絶対にない」
「じゃあ、謀殺ですよ。謀ったのは法王庁。姫との繋がりを疑われてグレイは十字軍の最前線に送り込まれたんだ。謀殺の一番簡単なヤツです。ボクもよく使ったもの、その手」
悪事を語るイズマの顔は得意気だった。
「ルグィンの時だってきっとそう。奴らにとっての敵か味方かは、奴らにとって都合がいいか悪いかの言い換えなんですって」
シオンの顔から血の気が引くのがわかった。
アシュレは、シオンの動揺した瞳に心が乱されるのを感じた。
息子であるアシュレにシオンは問いかけた。
「まことか」
「わからない。ただ、〈ハンズ・オブ・グローリー〉は父の十字軍遠征が決まったと同時に法王庁の管理下に収まった。記録がある」
アシュレは聖遺物の図録を取り出す。詳細な年号を指し示す。
シオンが押し黙った。震えていた。混じり物のない怒りがそこにはあった。
「ゆるせぬ」
もはやシオンのことを敵としてなど見れなくなっていることに、アシュレは愕然とした。
父の死が謀殺などと考えたこともなかったのだ。
「あーきっとそのグレイさんは、お家の後事と家族を守ることとを十字軍遠征の取引にされたんですよ。
権力握った連中の考えることはおなじだ。
疑わしきは罰して殺して、その人品だけは英雄的と持ち上げ利用する。死んだ人間は便利だね。いくら持ち上げても金がかからない」
アシュレはイズマを強く睨んだ。イズマは茂みの影に隠れたが、発言はやめなかった。
「法王庁が特別悪どいって言ってんじゃないですよ。どの組織でもやってることさ」
「繰り言だ」
「でも父上は十字軍なんかに参加する狂信者じゃなかったんでしょ? それなのに志願して戦死した。同時に姫が預けた聖遺物は法王庁の管理下に収まった。都合よすぎて、変じゃない?」
毒液を耳から注入されているようで、眩暈がした。価値観が崩壊しかけているとでもいうのだろうか。現実をうまく認識できない。
「すまなかった」
いつのまにかすぐそばにシオンがいた。
許しを乞われた。
父の死について謝罪されているのだと、アシュレはやっと気がついた。
「もしイズマが言うことが本当なら、グレイを死に追いやったのはわたしだ。本来ならそなたの母君にも謝罪せねばならぬはずだが、夜魔の娘が出向いたとなればご迷惑がかかろう。いまは、その不作法を許して欲しい」
「謀にかけて土蜘蛛のイズマガルムの右に出るものはいやしないっすよ。だから、この話は本当。虫も殺せないような顔しやがって、聖職者ってーやつはもー、たちが悪いよ」
にわかには全てを受け入れがたかった。
どう答えるべきなのかアシュレにはわからない。人生の羅針盤を見失っていた。まったくの繰り言だと否定するには、法王庁はたしかに陰謀に長けた組織だったのである。
ただ、ひとつだけ聞きただしたいことがあった。
「〈ハンズ・オブ・グローリー〉」
それは本当は誰のものなんだ。そのことがすべての問題に繋がっている気がした。
「わたしのものだ」
アシュレの手をとり、ひざまずいていたシオンは問われると静かに、しかしきっぱりと答えた。
見よ、と掌を開いて見せた。なめされた皮が露出している。
「これこそルグィンの肌、そのものだ。私自身が縫い合わせた」
「板金部分はボクちんが加工した。だから姫の体の線ぴったりでしょ」
イズマが口を挟んだ。
ほんとうか、とアシュレはシオンに目で問う。
まちがいない、とシオンは首肯する。
武器と違い防具、特に高価な板金鎧は、ほぼすべてオーダーメイドだった時代である。多少の体格の違いは留め具を調整したり詰め物の位置を変えたりで対応できるにしても、ものには限度がある。
なかでも特にタイトなラインを持つ〈ハンズ・オブ・グローリー〉をシオンは完全に着こなしていた。そのパーツの精度はぴったりとシオンの身体のラインに添っている。
こんな品が、世間にふたつも転がっているとは思えなかった。
確実な証拠だった。
「〈ローズ・アブソリュート〉とともにルグィン本人から託されたのだ。同胞を救えと」
「同胞を救う?」
「永劫の時の牢獄から解き放つ。《そうする》力の虜囚から鎖を断ち切り、開放する」
泣き顔ではないのに、シオンの瞳から涙がこぼれた。
気がついた時にはアシュレは、とっさにその涙を唇で吸い取っていた。シオンは避けなかった。
あの霊薬と同じ味がする。アシュレはそう感じた。
「信じて……くれるか」
「今すぐに、全てをというのは無理だけれど――夜魔を信じるのは不可能だけど、キミを信じることはできる……と思う。
それからさっきのは……キミを泣かせておくことはできない……そう思った。とっさのことだったんだ。許して欲しい」
己の行動に恥じ入りアシュレは顔を逸らす。耳まで真っ赤になっている。
しでかしたことの大きさに、のたうち回りそうだった。
アシュレに謝罪されたシオンが赤面するほどだった。
バラの茂みでイズマがひとり、ほぞを噛んでいたが、渦中のふたりは気づいてもいない。
「ではシオンザフィル、キミは〈デクストラス〉の奪取には関与していないと言うんだな」
「だれが盗みを働いたかは知っている。
法王庁の結界を破るため利用はさせてもらったが、盗み出す物品の内容までは頓着しなかった。
密告は趣味ではないが、誤解を解くためならしかたがない。なんなりと訊くがよい。
ただ、あくまでわたしの目的は、これを返してもらいたかっただけだと言っておく。――信じる、信じないは自由だが」
鈍色に輝く〈ハンズ・オブ・グローリー〉を掲げて見せるシオンに、信じよう、とアシュレは頷いた。
シオンの顔が輝くように明るさを増した。
淫靡で背徳的で仁義の通じない夜の一族だと自身に教え続けてきた教本のほうを疑いたくなった。
嘘偽りのないシオンの行動は、まっすぐにアシュレの胸に届く。
これで騙されているのなら、死んだほうがマシだと思えるほどに。
もちろん、そんなことは口に出しては言えなかったが。
「それはともかく――〈デクストラス〉を盗んだ連中を知っていると言ったな?」
「ナハトヴェルグ、と名乗っていたな。なんでもイグナーシュの騎士だとか。
だが、わたしにはそうは感じられなかった。
それと尼僧が引き込み役をしていた。
そんなことをしでかすような娘には見えなかったが、よほど抜き差しならぬ事情があったのかもしれん。
まあ、彼らを利用したわたしの言うべきことではないな」
アシュレは事件の裏が取れたことより、アルマの関与に胸を痛めた。
「ナハトという男が騎士と思えなかったとは?」
「感覚でしかないが……そいつの放つ《夢》の匂いが、よくなかった」
「《夢》の匂い?」
「夜魔の一族の食事がなにか知らないのかい?」
芋虫のように転がりながらイズマが話題に復帰してくる。
「生き血、じゃないのか」
「それもある。だが、正確ではない」
アシュレの質問をシオンが引き取った。
「正確には血に溶けた《夢》、それこそが我らの糧だ。食事は生物の肉体と精神とを養う。よい夢からは高貴な存在が、悪夢からはおぞましきものが生まれる。だから夜魔は高貴な血を探す」
「それは……べつに食事は血でなくとも構わない、ということにならないか?」
鋭いな、とシオンはアシュレを褒める。
「まったく正しい。例えばこのわたしは、すでに百年近く血を啜っていない」
犬歯を見せて笑いシオンはアシュレとの距離を詰めた。
「美しいワイン、丹精こめて造られた地ビール、母親の心のこもった家庭料理。それらからは血に勝る《夢》を摂ることができる」
とくに定命のものたちの造り出すものは。
シオンから向けられる眼差しには尊敬の念が込められていた。ヒトとその手が生み出すものへの。
それに気がついたアシュレに、シオンが身体を寄せてくる。
「そなたも……よい香りがする」
恐縮するべきか冗談として笑い飛ばすべきなのか、判断がつきかねてアシュレは動揺した。ドギマギしてしまう自分の人生経験の浅さが恨めしい。
だが、なぜか恐怖は感じない。
ふうん、と不満げにシオンが目を細める。
アシュレはぱちくり、と瞳をしばたかせた。
「そなたは素直すぎる。騙し甲斐がない。つまらん」
ぷい、と拗ねた猫のようにシオンがそっぽを向いた。恐れるべきだったのかもしれない。
アシュレは慌ててバカのように手を上下させた。
ふふ、とシオンが吹いた。
「聖遺物の奪還ということは、そなたの目的は〈デクストラス〉と〈ハンズ・オブ・グローリー〉か」
「それは……二番目になった。だけど、ボクはまだ〈ハンズ・オブ・グローリー〉を諦めたわけではない。キミを信じることと、任務を放棄することは違う」
アシュレは言い、立ち上がった。その手に〈シヴニール〉が握られていた。
「でも、目的の一番は彼女を、ユーニスを助けることだ」
まだ生きているのなら。
絶望的な決意を固め、ヴィトライオンの手綱を取った。
「ありがとう。命を救っていただいたご恩は忘れません。生きていたなら必ずお返しします」
鐙に脚をかけようとするアシュレをシオンの手が引き止めた。
「待つがよい――イズマッ」
シオンに名指しされた時、イズマはこそこそとまた茂みの奥に隠れようとしていた。
「占術を。その娘の安否と居場所を占え!」
あまりの剣幕にアシュレが気圧されるほどの勢いで、シオンはイズマを引きずり出した。
「いやだいやだいやだーい」
「子供かオマエはッ!」
地面に齧りつき駄々をこねる男の姿は、子供以下だった。
「姫さま、アシュレばっかりひいきして。ここへの《転移門》を開いたのはだれッ? あたし。アシュレに《スピンドル》の励起の仕方をレクチャーしたのはだれッ? あたし。謀略の解説をしたのはだれッ? ぜーんぶ、あたし。あたしこのあたしなのよーッ!」
「二度は言わん。占術せよ。急げ。時間がない」
「いや、占いなどやっている場合では」
控めながら、アシュレはシオンを諌める。
しかし、シオンは取り合わなかった。
「人間の占い師どもがやる天文学と確率論を混ぜたようなまやかしと、こやつの占術は別次元の技術だ。その精度は、ほぼ的中。だから……急がんかッ」
だが、今度ばかりは蹴りを入れられてもイズマは動かなかった。
イライラする。シオンが愚痴った。ご褒美が出るまではテコでも動かぬ構えななのだろう。なにが欲しい、とシオンが言った。
「涙――涙を。イズマも、姫さまの涙、ペロペロしたいです」
シオンとアシュレは互いに顔を見合わせるしかない。
大きな借りを作ってしまう、とアシュレは思った。
はあ、と大きな溜息をシオンがついた。
「……しかたあるまい。ただ、次だぞ。わたしが泣いたら、だぞ」
予約券、と書かれた紙切れが突き出された。羽根ペンも。シオンがしぶしぶサインをすると、イズマは引ったくるようにそれを受け取った。
「予約……完了ッ!」
人外の動きでイズマは伸び上がり、着地した。流れるような動作で布が敷かれた。
見たこともない動物の皮に複雑な図形が描かれていた。
手品じみた滑らかさで石が置かれた。占いのためのキーストーンたち。
それは宝玉であったり、貴重な鉱石、原石、半ば化石化した樹木、あるいは動物の骨だったりした。あまりに美しく、引き込まれるような魔力をそれは有していた。
息を呑むアシュレをよそに、イズマはかたわらで焚いていた火に香をくべ、言った。
「出したまへよ、キミ。その想い人との品を」
アシュレはその声にハッとなる。
並べられた品物と手際に半ば魅了されてしまっていたのだ。
長い指が貴石の群れを捌くさまは、明らかな天稟の才を感じさせた。
一瞬の躊躇の後、アシュレは二の腕に巻きつけていた布を外した。
「騎士だねえ」
妙なところでイズマが感心した。
ユーニスの晴着の袖だった。
もはやどこにも嫁がないとユーニスは言った。
言葉だけではない。両親の用意してくれた晴着の袖をアシュレに送った。
アシュレはそれをどの戦場でも手放さなかった。
返り血を浴び、ほつれ汚れたそれをアシュレは外すことに躊躇した。手が震えてうまくいかない。
シオンが胸を押さえて、その様子を見ている。
「ひとつ選ぶといい。それから、布をそれに巻いて」
キーストーンを選べというイズマに、アシュレはまた戸惑った。どれも貴重な品に見える。
「遠慮している場合かい? こんな石ころと比べられるような品物なのかな、そのユーニスというコは?」
暗い穴の底から呼ぶような声。アシュレはこの男の本質を見たような気がした。
「ボクも、大切なものがかかっているからね」
イズマは先ほどの予約券をちらつかせた。
……アシュレは眼前の石に意識を集中すると決めた。
貴石の群れのなかに蝶を閉じこめた琥珀があった。
指先に電流が走った。
これだ、と思った。
「お目が高い」
イズマが余計な合いの手を入れた。
アシュレは震える指で袖布を貴石に巻く。
「解いて」
巻き終え、差し出したそれを眺めてイズマは言った。
それからおもむろに残りの石を放った。
薫香を上げる焚火を受けて、はっとするような色彩が敷布の上に散らばった。
「よくないね」
イズマがつぶやいた。鋭い眼光。先ほどまでの腑抜けた男はそこにはいない。
「投げなさい。変える、と信じて」
イズマに命じられるまま今度は、アシュレが石を放った。ユーニスの無事だけを祈願して。
がつり、と音がして琥珀が衝突した骨を弾いた。
その骨が紅玉と緑石を転がし、黄金を動かす。
無意識にアシュレは《スピンドル》を励起していたのだ。
「奇跡だ」
イズマがすっとんきょうな声を上げた。
「そのコは生きてるよ。虜囚だが生きてはいる。たしかにちょっと妙な暗示が出てるが」
信じられない、と何度もつぶやいてイズマは占いの結果が残る敷布を、ながめすがめする。
「ただ……こりゃあ、厄介な場所だぞ」
穴だ、とイズマは言った。
「神封の大虚――王家の谷」
奴――グラン――か。シオンが答えた。