■第五夜:恋文は焔のにおい
「エクストラムが危地にある。法王庁の地下に眠る人類の秘蹟を狙い、夜魔の軍勢が……迫りつつある」
嘆願の部分は省き、事実だけを抜き出してアシュレは親書の内容を言葉にした。
綴られた文章は間違いなくレダマリア本人の筆跡であり、そこに記されていた言葉はアシュレだけに向けられたものだった。
開いた詔勅から立ち昇る薫りの正体を理解できるのは、ここにはアシュレしかいない。
それは間違いなくレダマリアの肌の匂いだった。
この時代の法王が、手ずから親書をしたためることは極めて珍しい。
だいたいは口頭で内容を伝え、それを代筆家……たいていはお気に入りの側近が文章にしたため直すものだ。
直筆、というのはまずない。
つまりいまアシュレに届けられた文は、公文章ではなく、どちらかといえば私信に近い。
詔勅──法王としての命令──とジゼルは告げたが、これは上位者が下位者へと渡す命令文では断じてなかった。
それがアシュレを動揺させた。
だが、そんなアシュレの取り乱し方を目の当たりにしても、ジゼルに動揺は見られなかった。
ジゼルは詔勅の内容を知らされていないか、知らされているといっても概要だけで、その文面がこれほど切実であることはまったく知らないのだ。
おそらく法王庁のだれも、書いたレダマリア本人といま初めてこれを読むアシュレ以外、この手紙の正確な内容を知らないに違いない。
若き騎士は確信する。
アシュレにだけしか通じぬふたりだけの秘密、あるいはアシュレと幼なじみだったユーニスとレダマリアだけが共有してきた体験が、そこには綴られていた。
昔と変わらぬ思慮深くそれでいて知的な彼女が、アシュレに向かって訴えていた。
人類の叡知の砦を、迫り来る脅威から防衛して欲しいと。
そのひとことひとことがアシュレの心を、かつて生まれ育ったエクストラムの街並みと、その近郊に広がる豊かな自然のなかへと翔ばした。
薫風吹き渡る七つの丘を、レダマリアとユーニスを乗せ馬で駆けた。
野辺を潤す清らかなる流れに舟を浮かべ、笑い合った。
市場を冷やかし、内緒の買い食いを楽しんだ。
美しき故郷。
我らが祖国。
一千年の歴史を誇る永遠の都。
美しき思い出が、狂おしいほどに騎士の胸を責めた。
心から愛したその郷土がいま、夜魔の騎士たちの侵攻に晒されようとしている。
手紙はそう訴えていた。
「なぜだ」
なぜいまになって助けを。
ボクのところに。
しかも、どうして夜魔の騎士たちが。
言葉にできない想いが、胸中で狂おしく渦を巻く。
その無言の問いかけに答えたのは、ジゼルだった。
それはいまアシュレの胸中で吹き荒れる葛藤の嵐に対する答えではなく、いまこのワールズエンデ世界で起きようとしている、大規模な災厄についての解説でしかなかったが。
「ガイゼルロンの吸血鬼どもは、ずっと機会をうかがっていたのです。世が乱れ、偽の聖女がこともあろうに聖母を騙り、異教徒どもが唾棄すべき魔の十一氏族と結んで人類世界を脅かす刻を。そして、そのような不埒な神敵どもを、この世から一掃し世界を正さんと、法王聖下が十字軍を立ち上げ東へ軍を差し向けるその刻を────」
アシュレが発した問いかけに対する答えとしては、それは半分しか条件を満たしていなかった。
それでも若き騎士は千々に乱れる心を整理し、いまこの現実を理解しなくてはならない。
「夜魔の騎士たちはエクストラムが手薄になるのを待っていたと、そう言うのか。十字軍の出立を狙っていたと」
「いかにもそのとおりです、アシュレダウ」
「だが、そうだと言うのであれば、これまで十一度に渡る十字軍はなんだったんだ。どうしていまになって」
「それについては貴方が一番ご存知だと思いますが。ガイゼルロンと法王庁の間に立ちふさがっていた旧イグナーシュ王国の《閉鎖回廊》はすでになく、オーバーロード:グランも果てました。渇きと焦熱、硫黄と砒素に覆われた死の大地は、急速に緑の野へと還りつつある。その間に《ちから》を蓄えた彼らの野望を阻むものはない、ということでしょう」
法王庁がイグナーシュ領に介入を躊躇ってきた理由は、ここにもあったわけです。
あの人外魔境は、人類圏の歴史における拭いがたき汚点であると同時に、人類圏と夜魔の騎士たちを隔てる城塞でもあった……そういうことですね。
まるで他人事のようにジゼルは言う。
「だとしたら、アシュレダウ。あるいはこの事態を招いた責任の半分は、あなたの行いとその結果であるとも言えるのではなくて?」
なぜならイグナーシュ領を人類圏に奪還し、その深部に潜むグランの怨霊を征したのはあなたなのですから。
にべもないジゼルの解説に、アシュレはふたたび視線を手紙へと移した。
そこにはレダマリアから贈られた結びの言葉がある。
『ずっと昔から貴方だけを密かにも想い慕っていたことを、ここで懺悔とともにお伝えいたします。わたしの永遠の騎士:アシュレダウ・バラージェ』
もはやそれは法王からの手紙というより、ひとりの乙女からの恋文であった。
まさか、とアシュレは額に手をやる。
そういう視線を感じたことがなかったかと言われたら嘘になる。
だが、彼女はたとえアシュレとふたりっきりでいるときでもそんなそぶりを見せたことは……。
いやこれはまさか、ボクが気がついていなかっただけなのか。
ついこないだシオンにも、似たようなことで責められた気がする。
女心に鈍過ぎる、と。
思い返すと次々と思い当たることが明らかになってきた。
避暑地の屋敷でふたりっきりで何時間もぶっ通しでチェスにのめり込むとか……そういうのはまさか……普通ではないのか……。
いやたしかにチェスをしている間に、使用人たちが周囲で世話を焼くのをアシュレは見たことがない。
あのころのアシュレは、レダは使用人にうるさく構われるより、ひとりでいるほうが好きなのだと思い込んでいた。
しかし……いま思い返してみれば、それは違ったのではないか。
いかにイダレイア半島でも善政によって民草に慕われ、最高の治安を実現した自分の領内だといっても、法王の姪がたったひとりで夏の避暑地にいるはずがない。
チェスの日はアシュレに差し出されるお茶もお菓子も食事も、すべてレダマリアが用意してくれた。
貴族の家門でそんなことを許される男子は、夫か息子だけだ。
だとしたら答えはたったひとつしかない。
アシュレが彼女を来訪する日、使用人たちは暇を言い渡されていただけなのだ。
だれに?
決まっている。
レダマリア本人に、だ。
でも、なんのために?
そこまで考え至ってアシュレは右手で口元を押さえた。
アシュレに間違いを犯してほしかった──。
「そんなばかな」
それは男の勝手な思い上がりに過ぎない。
けれども考え至った結論を、アシュレは笑い飛ばせなかった。
もしそれがアシュレの都合よい妄想に過ぎないのであれば、なぜレダマリアは過去の思慕について、こうして懺悔などしたのだ?
聖職界に身を投じた後であるならともかく、俗世にいたとき人間として抱いた恋心まで、聖イクスはお咎めにはならない。
それは罪でもなんでもないからだ。
しかし、その恋の成就のために用いられた謀はちがう。
あの日のレダマリアはアシュレに手折られたいと、望んでしまっていた。
それが現実となるよう、自ら使用人たちを遠ざけた。
思慕を言葉にして伝えるのではなく、あくまで間違いとして、暴力で奪って欲しいと願ってしまった────。
それが意識的なものなのか、無意識のものなのか、そこまではわからないけれど。
「夜魔の騎士たちが侵攻を決めた理由はもうひとつ。それはきっと件の聖母を騙る魔女のせいではありませんか?」
アシュレの胸の内で荒れ狂う葛藤をよそに、ジゼルが告げた。
「聖母を騙る魔女?」
「我々の共通の敵──“再誕の聖母”」
「“再誕の聖母”?! イリスベルダが夜魔の騎士たちと手を結んだとそう言うのかッ?!」
衝撃は思考の死角から訪れる。
あまりのことにアシュレは叫んでしまっていた。
「こちらについては確証はありません。が、」
ゆっくりと瞳を閉じ、もう一度開いてジゼルは続けた。
「しかし、あまりにも呼応し過ぎているとは思いませんか? “再誕の聖母”が世界から姿をくらまし、いずこかへ飛び去った。あのトラントリムの塔の上から。それからわずか数ヶ月の間に、アラム勢力がビブロンズ帝国の首都を陥れ、これに抗するために送られた十字軍と交戦に入った、その途端にです」
関与を疑わない方が無理と言うものでは?
あくまで淡々と告げるジゼルの口調は、心というものをどこかに置き忘れてきたのではないかというほど冷静で、寒々として、憎らしいほどだった。
「それでご返答は? 元聖騎士」
性急に返答を迫るその態度も。
本当はレダマリアからの手紙の中身を知っていて、ワザとアシュレを激昂させようとしているのではないかと、疑うほどには。
「つまりキミたちはイリスが……“再誕の聖母”が夜魔の騎士たちと結んで、エクストラムを攻めようとしていると、そう言うのか」
「両者の密約についてはわたしの想像の域を出ません。なにしろ我が聖瓶:ハールートの《ちから》を持ってさえ、どこにいるのか皆目検討もつかぬ相手ですので」
「では、」
「ただし、この人類世界を護る戦いにおいて、我らエクストラム法王庁はあなた方と共闘できるのではないか、という点については認めます。法王聖下からの詔勅にもそうあったのでは?」
小首を傾げるジゼルに、アシュレは歯がみした。
手紙の内容は、詔勅でも、共闘の申し出でもなかったからだ。
助けてください、というかつての幼なじみからの嘆願だった。
もちろんここでそれを言うわけにはいかない。
いかに法王直属の聖騎士とはいえ、アシュレはもう法王庁という組織そのものを信じられなくなっている。
ジゼルがレダマリアの忠実な部下であるかどうか、わからないのだ。
いや──これまでの経緯から、ジゼルもまた変質した法王庁の組織の側だとアシュレは認識している。
その彼女にレダマリアの肉声、心の吐露など聞かせられるわけがない。
法王庁内でのレダの立場がますます危うくなる可能性が高かった。
なにかの罠、とさえ思えてくる。
それよりもなによりもまず、そういう疑いのある人間が勅使としてアシュレの前に送られてくること自体が、問題をややこしく悩みを深いものにしている。
「しかし……手紙とあなたの話だけではにわかに信じることはできない。物証のようなものはあるのか。その……夜魔の侵攻と我々の共闘の必要性についてだ」
レダの手紙の真意をジゼルに悟られぬよう、慎重にアシュレは言った。
それに戦隊を預かる者として、簡単に相手を信用するわけにはいかない。
手紙ひとつで相手を信じホイホイと釣り出された場所が異端審問会であったりすれば、笑いごとでは済まされない。
だが、ジゼルの方はそんなアシュレに対し、心底呆れた、という顔をした。
「敬虔にして忠実なる神の端女、その筆頭とも言うべき聖騎士:ジゼルテレジアの言葉と、法王聖下からの直筆のお手紙を前に、疑いを抱くとは。わからないのですかアシュレダウ。これは聖下と我ら聖堂騎士団の慈悲でもあるのです。いまならすべてを不問に伏し、復帰を許すという」
「な、に?」
上から目線の物言いに、さすがのアシュレもカチンと来た。
「ボクのエクストラム法王庁・聖騎士への復帰を許す、だと?」
「はい」
このやりとりで確信した。
間違いない、ジゼルはレダからの手紙の内容を知らないのだ。
彼女は、レダはそんなことには、なにひとつ触れていなかった。
元聖騎士としての騎士:バラージェにではなく、幼なじみでありいまやたったひとり頼れる男としてのアシュレダウに向かって、あの手紙は送られたものだった。
めらり、とカラダの芯で焔にも似た感情が立ち昇るのをアシュレは感じた。
「復帰など必要ない。貴方がたに許されるためにボクは戦うわけではない!」
「では戦いに馳せ参じることは了承したと?」
「だからそのための証拠を見せてみろと言っているんだ、ジゼルテレジア!」
この時点で、たしかにアシュレの心は半ば以上決まりかけていた。
いやほんとうのところは、いまにも泣き出してしまいそうなレダの直筆を見た瞬間、駆けつけようと決めてしまっていた。
ただすぐにもそれをしなかったのは、いまやアシュレはひとりの騎士ではなかったからだ。
まだ歩み始めたばかりとは言え、アシュレたちは国になると決めたのだ。
その集団を預かる者は、たとえどれほど小なりと言えども王である。
であるからには確証と確約なくして人間を動かすことなど許されない。
すくなくともアシュレは王という人物についてそう規定していた。
ふむん、と唸ったジゼルの唇がなぜかすこし嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。
「なるほど、貴方がた臆病摩羅どもの言うことはわかりました」
「お、おくびょうまら……ども」
突如としてその口から放たれた卑語に、アシュレだけでなくその場に居合わせた全員が凍りついた。
《スピンドル》の血統を残さねばならぬという義務から、例外的に婚姻を認められている聖騎士とはいえ、僧職であることに変わりはない。
ジゼルもその一員である。
法王庁での内勤時は尼僧服の着用が義務づけられているほどには、聖職者なのだ。
その口から摩羅とは。
比較的にしても驚きがすくなかったのは、アシュレとバートンくらいのものだ。
たしかにこれはジゼル姉だ、とアシュレは確信する。
かつての彼女とはどこかが変わってしまっていても、その端々に破天荒だった彼女の面影がある。
「確証と来ましたか。まあつまるところ、共闘を信じるに足る証拠をお望みだと、そういうことで理解はよろしいですか。それを確認できない限り、詔勅には従えないと」
「詔勅が効力を発揮するのは、敬虔なイクス教徒である諸侯か、信仰篤いイクス教徒に対してだけだ。信教に背き、国家を捨て、帰属した集団を捨て、故郷を捨てた我らはすでにその規矩の外にある者となった。ゆえに我らが助力するとしたら、我らの意志と決断によってのみだと知れ」
「規矩の外へ……。なるほどこれは大きく出ましたね、アシュレダウ」
「我々はこの共闘の申し出を蹴ることだってできるんだぞ、ジゼルテレジア。ここであなたを打ち倒すことも」
王の顔になって言い切ったアシュレを、顎を反らし見下すように数秒注視したあと、ジゼルはゆっくりと頷いて見せた。
「よろしい。それではお見せしましょう。貴方が捨てたという故郷の姿を。これは記録ではない。いま現在、我が法王領で起きている現実だ」
そう告げるやいなや、ジゼルが立つ水面に映し出される夕映えの景色が一変する。
「見るが良い、この惨状を。これはエクストラムから北へ約六百キトレル。復興のため法王庁が移住を進めていた開拓者たちの村落の姿────」
それまで夕映えを映して輝いていた水面が、一転、紅蓮の炎ともうもうと渦を巻く黒煙に塗り替えられた。
しかもそれは、吹きすさぶ氷雪の嵐の──夏の──なかで。




